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能夫、明生のロンギの部屋

研究公演つれづれ(その1)
第1回 能夫『三輪』 明生『熊坂』(平成3年7月6日)

粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一

明生 研究公演について、十年を経過しましたので、この節目で三人で話し合っておきたいと思います。この企画は最初からプログラムづくりなどで参加、ご協力してくださった笠井賢一さん(右写真)(現在銕仙会プロデューサー、演出家)にも、話に加わっていただきました。

 ということで、宜しくお願い申し上げます。もう十年経ってしまった・・・あっという間 という感じです。

能夫 研究公演をやろうといい出したのは、明生君だったと理解しているんだけれど。そうですよね、積極的にやろうといったのは。明生君にどういう思いがあったかはわからないけれど、当時、粟谷能の会があっても、僕らはメインはなかなか舞わせてもらえなかった、それなら、自分たちで独自の会を起こしてやってみたいという気持ちがあったと思う。父や菊生叔父が元気で真ん中を気張ってやっていたので、初番やトメを息子達の勉強のために埋めてくれるという形であったからね。明生君の中には、覚悟として、いずれ代替わりのときに、我々は核になっていかなければならない二人であるという思いと、そのためにも打って出て勉強し、そういう場面になったとき遜色ない人材になっておきたいという願いがあっただろうし、僕としても飢餓状態というか、もっと舞いたいときだったから、それで動き出したということだったと思います。

明生 そのときの年齢は、能夫さんが四十一歳、私が三十五歳。父や伯父が作った会に安易に乗ってやるだけではなく、自分たちの思いで、曲に取り組み、色々な演出を試みる、がモットーのような会をこしらえたかった。最初は喜多の舞台より銕仙会能楽研修所という名称の響きもよく、見所がそれほど広くないので、あまり観客が入らなくても目立たなく大丈夫(笑い)、舞台の拝借料なども魅力・・・という場所で始めました。まあいずれは粟谷能の会と同じように喜多能楽堂や国立能楽堂でやれるようにということだったんですが。

能夫 当時、銕仙会は荻原達子さんが事務局長をやられていて、いろいろと便宜を図ってもらいました。銕仙会は立地条件も悪くないから、良い出発点だったと思うよ。印象に残っているのは、荻原さんが第1回のときの明生君の『熊坂』(右下写真)を見て、「能楽師の直面(ひためん)の顔だわね」と言われたこと。あの方がそう言うんだよ。

明生 知らなかったな、初耳ですよ。

笠井 そういうことはおっしゃっていました。僕もよく覚えていますよ。

明生 そうか。荻原さんは鋭く厳しい能の見方をされる方ですから、その言葉は照れるけれど、嬉しいな。あのときの銕仙会の舞台は古い黒光りの板で歴史を感じさせる舞台だったでしょ。2回目からは変わってしまって残念でしたが。1回目のとき『熊坂』で床几に腰かけて拍子を強くたくさん踏むので、踏むたびにベリッ、ベリッて音がして。まずいな、これ以上踏んだら本当に割れてしまうぞと思いました。だけどあの黒い板の舞台は格調高く良かったですね。

能夫 銕仙会の舞台は見所の雰囲気も良く、舞台と見所の一体感みたいなものを感じることができるね。あの時あたりから、明生君も成長したなと思いましたよ。第1回目はそれが印象的だった。

笠井 僕は三鈷の会でみなさんに出会って、その後、何回か飲むこともあったけれど、数年してから研究公演をやろうということになって、もちろん銕仙会を提供することは、荻原さんがお決めになったことだけど、僕はあのとき初めて、喜多流の人たちとお能の関係でつき合わせていただいたんです。僕は裏方で、舞台係みたいなことをやっていて。そしてプログラムを作らせてもらった。

明生 なつかしいですね。第1回目のプログラム(右写真)は今のように三つ折りになっていなかった。だから発送するときに折るのが面倒だったんですよ。発送もこのときは私達がやったんですよ。この文章、笠井さんのコピーですね。「さまざまな試みを研究し、私たちのより良い演能を!」というの。僕は気に入ってるんですよ。

笠井 あ、それ書きましたね。僕がやったのは、毎回の研究公演に対するお二人の思いを聞いて、プログラムの冒頭に書くことだった。

明生 プログラム作りは私の担当で、第1回目では、能夫さんに、写真を使ってプログラムを作りたいので『三輪』の写真使わせてと聞いたら、「ない」と言われ、父や伯父の写真も良いものはなく困りました。良い写真を集めておかなければいけないとか、能専門のカメラマンを育てなければいけないとか、笠井さんにはいろいろ言われましたね。

能夫 そういうことに関しては、ずいぶん勉強になったね。

明生 十年経って、印刷編集技術も向上してきて、そこそこの写真でも使えるようになり、写真とコンピューターグラフィックの組み合わせで、きれいな画像処理もできるようになって。あの時分はそういうことが出来なかった。そのまま使える写真が少なかったのはこれからの能の写真のあり方を意識させてくれましたね。

笠井 デザイン性は重要だね。初期の頃は能のチラシやプログラムは写真を使うか筆で書くしかなくて、コンピュータ処理するなんてものはなかったから、2回目からのプログラムは画期的(右写真)で、並べておいてあると、研究公演のが他より目立ってました。

明生 それで曲目選択ですが、後から考えるとまさしく能夫さんがよい曲目を選んだなと思いましたね。「何をやるの」と私が聞いたら、「『三輪』を」と言ったんです。それも、普通だったら小書は憧れの「神遊」じゃないですか。それが「岩戸之舞」をやると。『三輪』は小書がつかない普通のものと小書「神遊」「岩戸之舞」があるけれども、新太郎伯父がやった「岩戸之舞」とも違うものを、自分なりに生み出してみたいといわれましたね。

能夫 自分独自のものというより、もともと「岩戸之舞」には二通りの伝書があって、今は一方しかやらないので、もう一方を掘り起こしたいということだったんだ。よくやられている「岩戸之舞」は江戸末期に作り上げられたもので、天の岩戸を探すイロエの型があるもの、もう一方は本来の暗闇での神楽を奏する「岩戸之舞」。そこに帰りたいという思いがあった。これを選択したのは『三輪』という曲に対する憧れというか、観世寿夫さんの素敵な小書「素囃子」を見た時の衝撃があったからで、あのときの「素囃子」は、大口袴と黒の風折烏帽子で出てくると思っていたら、本当に原始的な出立ちで出てこられたのでびっくりしたんだ。あんな「素囃子」はできないけれど、自分なりの取り組みというか演出をしてみたかった。喜多流の特徴をつかまえながら、『三輪』の原初に近づきたいという気持ちかな。

明生 能夫さんは『三輪』のお囃子方を決めるときには、ちょうどそのころ、浅井文義さんの『葛城』「大和舞」を拝見した後で、とても素敵な「大和舞」だったから、是非あの方々にお願いしたいと言われたように覚えているのですが。お笛は一噌仙幸氏、小鼓が宮増純三氏、大鼓が国川純氏、太鼓が三島元太郎氏ですよ。

能夫 そうそう、まさにそう。その方々なんだ。太鼓の元太郎さんに「岩戸之舞はどういうものなんだ」と聞かれて、僕は「これは暗闇(くらやみ)の神楽です」と言ったことを覚えている。元太郎さんに「能夫君がそう言ってくれたので打てたよ。ただ古いものを掘り起こされても、そのイメージを伝えてくれないとわからないね。やったことないんだから」と言われた。そのとき、ああ、答えを言えて良かったとつくづく思ったし、伝書にヒントが書いてあるんだが、そういうものを勉強しておいて本当に良かったと思ったね。あの一言が言えたおかげで、お囃子方全員が動いてくれた気がします。

明生 『翁』の型をするんですよね。

能夫 そう、『翁』(右下写真)と同じ型をやる。天の岩戸の神楽、暗闇の神楽を見せるわけだからね、原始だよ。

明生 普通、小書となると「神遊」ですが。「岩戸之舞」は、それまで新太郎伯父など何人かの方が勤めていますが、あまり頻繁にはやられていないんじゃないですか。

笠井 その後、その「岩戸之舞」はやっているの。

能夫 研究公演の1回目にやった「岩戸之舞」は、その後だれもやっていない。

笠井 あのときのことは、いろいろな意味で印象に残っているよ。申合せは銕仙会でやっていますよね。僕はその申合せを見ているんだ。ところで、明生さんは何で『熊坂』を選んだの。

明生 最初『弱法師』をやらせてと言ったら、能夫さんに「まあそれは置いといて、まずやらなくてはならない曲というのがあるでしょう」と言われ。「『熊坂』がいい、『熊坂』にしておけ・・・」 と。『熊坂』はそれまでやったことはなかったし、これはやはり、きちんとやっておかなければならないという気持ちになりまして。喜多会や粟谷能の会でいずれはやらされると思いましたが、やらされるのではなく、「自発的にやるという意識」が必要だなと、そんな気持ちになったんです。やはり自分達が企画している会だと違うなという発見が出来たのがよかったですね。『熊坂』の面は二面あって、能夫さんに「どっちを使う」と聞かれました。一つは大きくて重い長霊べしみ、もう一つは、平素使ういかにも長範らしい少しおどけて見える面。まだ若いし、ここは一つこの重い、ごつい方を掛けてみようと思い、前者を使いました。私が勤める前に、お弟子さんが『熊坂』をやられて長範頭巾がずれたことがありまして、もうそれは滑稽で笑い出しそうというか、実際、皆謡いながら笑ってしまったんですが、もちろん申合の時ですよ。これはいけない、面と頭巾のしっかりしたつけ方の工夫をしなくてはと思い、皆で取り組んだのを思い出します。装束づけも後見任せにするのではなく、自分の方から、こうつけたい、こうつけるとまずいと前もって言っておくべきだという意識が必要ですね。当日その場で特別注文されても、つける方は困惑しますから。それから装束の組み合わせなども、曲趣によって、色、形のバランスを深く考えていくということもやりだしました。『黒塚』の演能レポートにも書きましたが、装束を出すときに、能夫さんに「蔵に来いよ」と連れていかれ、「人任せにしないで、自分で選ばなくてはね」と言われたんです。そして、どのように演ずるかを考慮して、能に携わる全ての配役を選ぶ重要性を能夫さんにいわれましたね。

笠井 明生さん、やられてどうでした。

明生 『熊坂』(右下写真)ね。この間もある方が舞われたけれど、中入りを定型の型をせずに、スーッと幕に入っていくという替えの型、これがなかなか難しいみたい。本来、常座で、廻り返し、シカケ、開キという型付になっているんですが、難し過ぎて、やはりスーッと消えていくように幕に入る替えの型を選んでしまいます。本来の型は余程うまく動かないと難しいですね。

笠井 僕はもっと消えていくような型、シカケ、開キがあり得るという気はするね。

明生 そうですか。

笠井 溶けて消えていくとはこういうことかというものがあると思うよ。

明生 という謡い方のこと?

笠井 謡い方も、動きもね。役者も囃子方も両方で何とかする可能性はあると思う。高速度撮影で武士が何人も並んで見えたかと思うと、すっと消えて、気がついたら、そこは草の原に変わっていたみたいなイメージができる謡い方、消え方があり得るだろうと、僕は思います。

明生 ジトーッと消えるんじゃなくて、スーッと消えていくようなというのは笠井さんに言われましたね。

笠井 第1回目のときは、その意味で菊生さんの地謡がそれに合っている、なるほどなと思って、印象に残っているね。それにしても、申合せのとき感じたことは、喜多流というのは本当にからだがよく動くんだなということ。観世流とは型も違うしね。

明生 でも観世さんの方が派手で、動いてますよ。

笠井 派手だけど。そちらの方がすごく動くという感じがした。

明生 そうかな。以前お囃子の会で拝見した『熊坂』では、観世暁夫さんのもの、関根祥人さん、もう少し前の事でいえば浅井文義さん、皆キレがあり、派手だしすごく力強く動かれているよ・・・。

笠井 確かに観世流は動きは多いよ。でもキレの良さみたいなものが違うよ。決めるところの難易度の高さがすごいというか。

明生 なるほど。そうかな。

笠井 装束つけたら、それほど見えなくなったけれどね。

明生 え〜っ(笑い)。

笠井 まあ、それはものの道理というものだよ。でも喜多流のこういう動きは、やっぱり観世流の中にはないよ。瞬発力があって、あれだけ動いて、独特な表現をしている。良くも悪くも、動いてナンボだろう、そういうところがある。

能夫 もう動けないねえ。

明生 ああは動けない。十年前にやっておいてよかった。

笠井 動けなくなったら、またやりようがある。熊坂長範という役の位置で表現できるものはあるよ。観世銕之亟さんなんかもちろん、あんなダイナミックな動きはやらないけれど、それでもあの世界を表現するのは本当にすごいから。生涯の修業であれだけの表現をするということだろうけど・・・。

能夫 それはそうだよ。すごい人だもの。

笠井 銕之亟さんも若い頃は動けたし、鋭かったんだよ。

能夫・明生 そうそう。すごい動きですよ。

明生 うちの父が言うのは、静夫さん(銕之亟氏のこと)が『鷹姫』でずっと微動だにしないで座っていた後、急に立ち上がって急ノ舞を見事に舞った、ああいう動きのできる人は喜多流にはいないって。

能夫 そういう精神の強さ、集中度、難易度の高いものをこなす能力。昔は片膝で座っていたというでしょ。

笠井 意地もあったでしょ。それで舞の鋭さが出ていたと思うんだ。

明生 あれだけ長い時間座っていたら、足がしびれて、最初の掛かりがちょっと散漫になるのが普通だけれど、銕之亟先生は最初からテンションを上げてキューッと舞っていた、すごいというのが父の鮮明な記憶になっているんですよ。で、「お前らの『鷹姫』はなんだ!」ということになる。そういう影響を受けて、我々も発展していかなければダメなんですね。

笠井 そうい発展の仕方って大事だよね。僕も寿夫さんの能を見ていますが、寿夫さんの対(つい)にいたのが静夫さんでしょ。寿夫さんはスターで、まわりが大騒ぎしている。もちろん魅力的だった。だけど、一歩か二歩遅れている静夫さんの能もすごい鮮度があった。寿夫さんは病気になってから晩年にかけて変わったけれど、その少し前の『卒都婆小町』なんか生々しいところもあった。それに対して静夫さんは逆に透明度が高い、そういう感じでやっていたときがあったんですよ。もちろん人情がにじみ出るようなものもやってはいたけれど、寿夫さんのものと比べると、非常にクールな感じがするときがあって、僕はいいなあと思っていました。

能夫 わかりますよ。

笠井 そういうように兄弟って、少しズレながら、お互いが影響し合ってよいものを作り上げていくということがあるよね。

能夫 何ともすばらしいよ、あのご兄弟は。

笠井 あの方たちとの出合いがあったから、現代演劇を志していた僕のような人間が、銕仙会で能の仕事をするようになりました。それから粟谷さんたちと出合い、「研究公演」の協力をさせていただき、「阿吽」に繋がっていきました。お二人とは演劇人として対等に議論を交わし、互いに刺激し合う関係で、「研究公演」がこのように継続してこられたことはとても大きなことだと思いますね。

能夫 積み重ねるということは大事だね。

笠井 十年という歳月は何ものかを生み出しているね。十年見ていると、お二人の舞台がそれぞれ変わってきていることがわかる。

能夫 それはやっぱりみんな変わろうとしてやっているからだと思う。志がある人は、同じことをやるのではなく、できなかったことは次にはこうしようと、日々発展がある。それは役者にとって重要なことですよね。自分の欠点やダメなところを変えていこうという意識は持っているつもりなんだけどなあ。効果が出ているかどうかは別として。

笠井 その効果は節々で出ていると思うな。それから『三輪』について一言言わせてもらうと、実は、まだ不完全燃焼だなという感じ、そういう印象があったんだ。「岩戸之舞」の思いを今みたいにつぶさに聞いていないから、僕の方が理解していなかったということかもしれないけれど。僕が初めて能夫さんの能を見たのは『楊貴妃』だから、その感じからすると、少し線が細かったかなという気がしたんだ。もっと鮮度があってバリバリやるだろうという思いがあったからね。それで次の『井筒』を見たときは、なるほどと思いましたね。ためていた思いみたいなものが出ているというのが印象的だった。

明生 あ、もう2回目に入りましたね。

笠井 ちょっと飛ばしちゃったかな。

明生 1回目のことはだいたい話したから、では、2回目は次回のお楽しみということにしましょう。

(平成13年5月 記)

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