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研究公演つれづれ(その三)

研究公演第3回(平成5年5月29日) テーマは地謡の充実

粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一

明生 第3回の研究公演は、メインが能『求塚』。友枝昭世さんにシテをお願いして、我々が地を勤める、地謡の再考と充実をテーマにしてみようということになりました。 しかしそれだけですと、我々は地謡だけになってしまいチケットも売り難いという事で、何か舞おうよということで、私が『松風』の舞囃子、能夫さんが『知章』の仕舞をすることになったのです。ほかに、菊生の仕舞『谷行』素抱という珍しい小書き演出と、石田幸雄さんらによる狂言『抜殻』という番組でした。

能夫 そうそう、僕は『知章』を舞ったんだ。

明生 これまでの研究公演は年1回でしたが、3年目には年に2回催したいということで、3回目が5月喜多能楽堂、4回目を11月、また銕仙会能楽研修所に戻り催したわけです。3回目の『求塚』は友枝さんがまだ舞っていらしてなかったということもあり、我々が謡いますからまず最初は私達の地謡でとお願いしたわけです。

能夫 これは画期的なことだったよね。主催者が地謡を謡うからと言って、シテを他の人に頼むというのは。普通は、自分たちの舞台の場を多くもちたいから会を起こすわけですから。でも、そのときのテーマは地謡の充実だからね。あの会では菊生叔父が元気ですばらしい『谷行』を舞ってくれたけれど、菊生叔父にしても、昭世さんの次に来る地謡の人材を考えておきたかっただろうからね。

明生 そうですね。それで我々が地謡をしっかり見直そうということになった。『求塚』では、申合せの前の下申合せをすること、というのが昭世さんの条件でしたから、早めにとりかかりました。

能夫 下申合わせは寒いときだったね。

明生 小鼓の北村治さん、大鼓の柿原崇志さんに、君たちのいいように打つから、こうしてほしいということを言ってくれと言われて・・・。

能夫 我々のことを意識してくれたんだな。

明生 そう。こちらが謡うように打つから、という感じでね。

能夫 結果的にはどうだったかな?

明生 いや、本番になったら、治さんも崇志さんも自分たちの世界を創り打ってこられたし、こちらはこちらで頑張るという感じで。その葛藤がよかったのだと思いますが。

能夫 そういう引っ張り合いというのが必要だな。囃子方は先輩であるけれども、能をシテ方だけでなく、地謡を含めた全部で創り上げていくという我々の考え方に対応してやろうということだったと思うよ。本当は一番でも多く舞うというのが、研究公演をスタートさせた前提だけれど、能をつくるには地謡が重要ということに気づくことが、大事ということだった。菊生叔父に謡ってもらう、昭世さんに謡ってもらう、では、その先はどうなのかといったとき、地謡を謡える人材がどうあるべきか、ということに思い至ったということだよね。

笠井 僕はあのときも、お二人の話を聞いて、研究公演のプログラムの主催者からの一言みたいなものを書く役をしたわけだけど・・・。確かに 、地謡を課題にするというのはいいことだと思うよ。僕はいつも言っているように、能は地謡が7割を担っている、だから、そこからやるのは当然だと。

能夫 そう思うね。当然のこと。

笠井 地謡の充実を喜多流でどうするかを考えることは必要ですよ。その意味で、二人がこういう機会をもったということは頼もしいことだと思う。

能夫 地謡は、地謡を謡うのだという志がないといけないね。ただ地謡の役がついたから謡うというのではなく、覚悟のことですよ。ただつつがなく、間違いなく、そこそこに謡えばいいというのではなく、やはり、シテの思いを受けるという想像力がないと成立しないということを、あの場で思い出していましたよ。

明生 その後、大阪の大槻清韻会自主公演で、父が『求塚』を舞ったとき、幸雄伯父と能夫さんと私と、そういうメンバーで地謡を謡いましたよね。そのときちゃんと手ごたえを感じられた。あの経験がなければ、対応できなかったと思います。やはり研究公演でしっかり挑んでおいたのがよかったと痛切に感じましたね。

能夫 それから、申合や下申合を経験して、お囃子方からいろいろ言ってもらえたのはよかった。治さん崇志さんたちの胸を借りるという感じだった。

明生 治さんからは「死ぬ気で謡え」って。あの言葉は心に残ってますよ。

能夫 「それさえ 我が咎に・・・」のところだっけ?

明生 あれは宝生閑さんに言われた。「どうして、あの前に力が入り過ぎるの」って。「シテがワキに詰め足で、すがる大事なところ、地謡はエネルギーを持って謡わなければいけないのに、そこでくたびれているよ」って言われ、なるほどと思いましたね。大阪の『求塚』の時、父が「いざとなったら、代わってくれ」と言うので、自分でもシテができる 体制で稽古をしていましたが、稽古でシテをやってみると、そのことがなるほどとわかるんですね。 地謡は「これを最後の言葉にて、から、刺し違えて空しくなれば」ばかり一生懸命謡って、力を使い果たしてしまう、その後に「それさえ我が咎になる身を助け給え」が本当は大事だってことをね。閑さんに言われたこと、これもをよく覚えています。

笠井 地謡は永遠の課題なんだろうね。能役者として生涯の課題。シテの課題と対等に意識すべきだね。

能夫・明生 そうですね。

笠井 地謡を謡いながら、シテをつくっていく、全体を自分の中に呼び込んでいくという意識がないとね。

能夫 それは絶対そうじゃなければと思うよ。だから恐ろしいというか、楽しいというか。とにかく地謡に興味を持たないとダメだよね。

笠井 曲全体を創造する喜びだよね。シテは演じていていい気持ちになるだろうけれど、曲全体を支え、ドラマを支え、感動をつくり出すのはやっぱり地謡だよ。

能夫 そこに自分の感覚をぶつけるというか、エネルギッシュに、命がけでやることだよね。

明生 あのときは、本当に一生懸命、それこそ死ぬ気で謡いましたよ。(笑い)

能夫 そうね。それがよかった。それにしても僕は、地頭の隣で自由に孫悟空みたいに、お釈迦様の手のひらで遊ばしてもらい、そこでワープしたりして、いろいろ楽しむっていうのが性にあっているなあ。

笠井 それはそうだけど、そうはいかない立場になっているんだよ、お二人は。

能夫 でも、あの『求塚』はすごく印象深いものになったよね。親父や先輩の能を見てきて、いろいろ経験があったからやれたということもある。能をつくるということが、地謡でもアプローチできるということ、地謡がバックボーンになっていなければ能は成立しないことがわかった。

笠井 地謡を好きでない能楽師は、結局、能を好きじゃないんだよ。

能夫 そうみたいですね。

笠井 リサイタルで、自分でお金出してシテをするような、お殿様になる瞬間だけが好きというのは、能全体を愛していることにならないと思うよ。

能夫 わかりますよ。

明生 それはものすごく理解できますよ。

能夫 それに地謡は一人ではできない。地頭はみんなを集結させ、全体をコントロールしなければいけないし、逆にみんなに助けてももらわなければならない。そういういろいろな要素が必要でしょう。

明生 自分が謡うだけではダメで、地謡全体で一緒に味わう、謡わせる、地謡の人間をその気にさせるような雰囲気を創る。

能夫 謡にはエネルギーがいる。中途半端では、「なんだ、彼奴は」になるしね。みんなの躍動感もいるし、そういうことが体験できてよかったんじゃないですか。

笠井 それで、能夫さんの仕舞はどうだったの。

能夫 僕が舞った『知章』という仕舞ね。床几にかけて舞うんですよ。床几にかける仕舞というのは『知章』と『頼政』ぐらいです。僕が子供のころ、実先生だったかな、仕舞で床几に座る姿が格好いいと思ってね、それで、あのとき実現したということかな。

明生 あんなときでもなければ、なかなかできませんからね。

能夫 ひと風情として、衰退していたものをみんなの目にさらすのもいいかもしれない、一つの捨て石のようなものでもいいと思った・・・。

笠井 明生さんの舞囃子『松風』は?

明生 『松風』を舞ったのは、そのうち能でやりたいというのがありましたから。能を勤める前に、囃子どころぐらいは先輩に心得を聞いておいた方がいいと思ったのです。囃子の稽古は、何か目標を設定しないとなかなかできませんからね。『砧』のときもそうでした。『砧』のキリの囃子を自分自身でやっておかないと納得しないというのがあってやらせてもらいました。『歌占』の舞囃子もそうです。『松風』の舞囃子はそれらのはじまりですね。

笠井 その後、お能の『松風』はいつでしたか。

明生 その2年後かな。決めていましたから。基盤みたいなものを一つずつ積み重ねて創っておく、若い時は親や先生がある道筋を導いてくれますが、大人ではそうはいかない、自分で開かなければ。これは玄人の能楽師としては当たり前のことだと思うし、それをやりたかっただけです。私は、いつまでも他人に言われたり、他人が演じると自分もと動いている人たち、彼らを素人の能楽師だと考えていますから。

能夫 ちょっと話が戻るけど、『求塚』では、昭世さんと菊生叔父のちょっとした『求塚』の取り組み方、考え方の違いがあったんだ。

明生 徹頭徹尾、強い内向と同時に外へも強くという趣向の昭世さんと、「面は痩女、そこから、何かが自然と生まれるものを計算にいれないと」の父との間に行き違いがありました。エネルギッシュに且つ凝縮した力をコントロールする意識は共通するのに、その通達方法の様々の模様が現場で体験できたのは、良い刺激でしたし、これからの自分の課題にもなるなと思いました。

能夫 強くやるのが昭世さんだけれど、菊生叔父の感覚では、それでは『求塚』ではないということだったんだな。内に秘めていながら、景清よりもっと激しいものがなければいけないということだと思うのだが、その話を聞いて、僕はどちらとも、軍配をあげられなかった・・・。

明生 内面的な力というのはすごく難しいと思いますよ。なければいけないし、ちょっとした方向性が違うだけで、変にとられる面もあるし、かと言って、それを制御し過ぎて何も訴えかけがなければ、それも困るし・・・。でも『求塚 』の後シテは難しい。舞が無いので、謡という訴えかけが充分でないといけないし、型でなくシテの心の読みとりという作業の大切さかな。

能夫 難しいね。あのことで考えさせられた。そういうことが、自分が『求塚』をやるときの指針というか、下地になっているね。

笠井 その人間が、どこまでそれを消化してどう成り立たせるかだろうね。

写真 粟谷能夫 「知章」
   粟谷明生 「松風」
   撮影 あびこ

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