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研究公演つれづれ(その七)

研究公演第7回(平成8年6月22日)
能夫の『小原御幸』

粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一

明生 第6回に私が『松風』をやり、今回の第7回で能夫さんが『小原御幸』に取り組むことになりました。
 もしかしたら、このとき『小原御幸』でないもの、違う曲ということもあったはずなのに、あえて『小原御幸』をもってきたというのは、今でも覚えていますよ、父と三人で飲んだときのこと。曲目を承諾してもらうために三人で飲みに行ったんですね。相談したら「まあ、いいだろう。しかし『小原御幸』? 能夫、もっと動くものを先にもってきたらいいじゃないか」と父が言ったときに、能夫さん、すかさず「語るということを勉強したいと思います」と言って。そうしたら「大事だねえ、それは。そうだ『小原』がいい」とコロッと変わっちゃった(笑い)。

能夫 菊生叔父は『小原御幸』は研究公演にはあまり似合わないと思ったかもしれないね。動くものをもっと消化していかないといけないと思ったんだと思うよ。僕が『小原御幸』を選んだ理由は・・・。うちの流儀はあまりやらないんだよね。こんなに素敵な曲なのに。

明生 新太郎伯父さんは好きで何回もやってますよね。

能夫 うちの父は好きだった。だからその血を引いているのかもしれないね。菊生叔父さんはずっとイヤだって言っていたもの。うちの流儀の語りはずっと座りっぱなしだし、謡に関してはやりたい曲だったのではないかな。僕は、あの時分、喜多流であまりやられていなかったから、スポットを当ててみたいというか、こんないい曲があるんですよということを言いたかったんだ。

明生 その後、能夫さんの下の年代の人はやっていないですからね。

能夫 なかなかできないよ。

笠井 僕は平家物語に思い入れがあるせいもあるけれど、あの曲はやっぱりすごくいい作品だと思うよ。

能夫 と、思いますね。

笠井 いい作品ですよ。先代観世銕之亟さんが三島由紀夫の説として、あれは一つの黒ミサみたいなものだといつも言ってらした。官能性があんなに出ている曲はちょっとない。語りの究極にある作品。しかもあれだけスケールの大きい、一族すべて、我が子も含めて滅亡したことを物語るというのは、物語の極致かもしれないね。

能夫 ひどい話だよね。

笠井 しかも、あの美しい女盛りであったかもしれない女性(建礼門院)が語っていることのすごさ、しかも、後白河法皇という、舅ではあるけれど、平家滅亡に荷担した男、もしかしたら政略的にその人の妻にならなければならなかったかもしれない間柄の人に語るわけでしょ。こんな演劇はないよ。だから三島由紀夫もそのすごさを言っていると思うよね。

能夫 語るというより語りをさせられるわけでしょ。

笠井 そう、させられるという感じ。ある種サディスティックな感じね。もちろんそんな生々しいものではなくて、もっと練れた、ある種透明感のある謡にはなっているけれど、芯にはそういうものが織り込まれているんだよね。

能夫 それはわかりますよ。だから『小原御幸』はやはり謡といおうか、語りといおうか、それが課題で、ずっと続くんですよ。あんなに舞がない、型がないものはないですよ。全部、謡で勝負しているというのは。

笠井 そうだよね。ところで喜多流では、シテの建礼門院は床几にかけないよね。

能夫 うちの場合は下に着座しているね。ずっと床几にかけることはない。

笠井 これまで喜多流のを見たことなかったから、ちょうっと違和感があった。作り物の引き回しを降ろしたときに、さーっと世界が開けるでしょ。そのときシテは床几にかけていないと・・・。観世も最後には床几から下りるんだけ れども、それをもちろんへたに入水するのに合わせたとするのは安易だと思うけれど、そうではなくて、あの場面で床几にかかってあそこを語るというのは、平家一門の滅亡という大きなスケールの事柄を語るという格の問題でもあるし、国母であった建礼門院であり、同時にある種のさらしものになっているという感じもあるしね。

能夫 床几にかけることによって?

笠井 そう、床几にかけることによって。もっと小さくなってボソボソとつらい思いを語ってもいいのだけれど、後白河法皇と床几と床几で相対してやらざるを得ない、さらしものになる質みたいなものを、ある官能性というか、それよりむしろ痛みとギリギリのところの緊張感。つまり語りだけで、環境が変わらない中で表現しなければならない難しさだよね。三鈷の会で観世銕之亟さんが『大原御幸』の語りをやったでしょ。

能夫 あれはすごくよかったね。忘れられないですね。

笠井 あの語りは銕之亟さんの到達点の一つだと思うの。銕之亟さん自身が『大原御幸』の語りは背筋がピーンとなってさらし者になっているという感じがないとということを言ってらっしゃいました。また、そういう芸でしたよ。やっぱり、そういう負荷のかけ方みたいのものが、ああいう作品を成り立たせるわけで。それは語りの技術だけではない・・・。

能夫 心ですよね。思いというかね。やっぱり覚悟してやっているつもりだけれど、難しいね、語りというのは。自分ではメリハリをつけて謡っているつもりでも、聞いている人には全然そんなことが伝わらなかったり、反応がなかったり・・・。

明生 本当に難しいですよね。もっと露骨にやった方がいいのかなとか・・・。 かといって踏みはずしてもダメだし・・・。

能夫 やり過ぎと言われてしまうし。

笠井 ギリギリのところ。

明生 そこのラインというか。半分、自分の世界より半分足を踏み出したと思うぐらいかな。

能夫 そこを出かかると、反発するバネが働くね。自分の中の美意識というか、何かあるんだよ。出ようとするとバーンとはね返すものが。

明生 やろうと思うだけれど、昔言われた実先生のお声がクーッと聞こえたりしてね。

能夫 そういうことはあるんだよ。最近それは大分少なくなってきてはいるけれど・・・。

笠井 それが吹っ切れる瞬間に、彩りが出る、豊かになるということはあるだろうね。

能夫 先生の声が大事ということもあるし、それとどう折り合っていくかだろうな。

明生 最近梅若六郎さんの『大原御幸』を拝見しまして、地頭は、山本順之さんでしたが、観世流はあまり気張って力づくでは謡われないですね。うちのは絶叫しすぎなのかもしれませんが、クセ「これぞ真に修羅道の」のところ、張り上げて謡わないと納得出来ないのですが。多分笠井さんは、我々のは前面に声が出過ぎといわれるかもしれませんが、内に込め過ぎても伝わらない気がするんですが。「御裳濯川(みもすそがわ)の流れには」のところなんて、張り上げて、身体が疲労していくのがわかるような感じでまず謡って、自然と涙腺をゆるんでくるようでないと、もちろん舞台人が生で泣いてはだめですが、やはり私の中では張り裂けるものがないと『小原御幸』とは認めたくないなというところがあって。我々、喜多流としての謡の限界なのか、絶叫マシーンのように激しく謡うところにまずいないと安心出来ないんですが・・・。

笠井 でもね、ただ絶叫でもダメだと思うな。あそこは地謡が強く内面にこたえるように謡って、シテがどういう風に謡うか、位置の問題でしょ。

明生 位置の問題。でもあそこの地謡は張り上げ、謡い上げるエネルギーが支えにないといけないんじゃないかなと、

笠井 そこは謡い上げるだけではダメなんだよ。やっぱり内側に耐えているものがなければ。

明生 内向し過ぎていたのでは・・・。泣けないな。

笠井 泣いたことがいいともいえないし・・・。むしろ涙も出ない程の悲痛さ。

明生 成程ね、涙も出ないか・・・。クセの上羽の後と御裳濯川はやっぱりジーンとくるものがないと・・・。私の『小原御幸』とは認めたくないというか、そんな感覚が・・・まだ幼稚なのかな・・・。

能夫 語りというのは永遠の課題だね。そして、語りということもそうだけれど、『小原御幸』というのは心のドラマって気がするよ。心のやりとりができるということが重要だし、それがやりたかったんだよね、僕は。シカケ、ヒラキで表現するだけでなくて・・・。

笠井 それと、『小原御幸』という曲は、法皇役がよい役者でないと成り立たないということがあるね。

能夫 そうですね。この間の菊生叔父の『小原御幸』での栄夫さんの法皇は強い謡でね、ああ、なるほどこれだなと思いましたよ。

明生 私もホームページ(演能レポート 粟谷菊生と観世榮夫の『小原御幸』)にも書きましたけれど、これがまさしく法皇だなと思いました。

笠井 榮夫さんは役の位置が理解出来ていて、しかもそれを表現出来る役者ですから。

明生 父が「榮ちゃんの法皇、やっぱりいいなあ」と言ったら「悪役だからだろう」と言われてね。

笠井 それはそうなんだよ。あのいたぶり方、ちょっと危ないものがあるもの。

明生 あの時の榮夫先生の法皇は本当に強くて、人物像が出てきて。物語、能の舞台をきっちり創られているし。

笠井 彼の演技力は群を抜いているかも。ひとはけで世界が描けてしまう。彼は演劇的には回り道もしてきたから、それが彼独特のすごい表現力になっていると思うな。能役者たるものは学ばなければいけないと思う。

明生 独特のね。後白河法皇というのはあの曲では絶対なくてはならない役でしょ。映画でいうといい脇役。しかも悪役。後白河法皇のはまり役というのは特別にあるんじゃないかな。私は、はまりたくないけれど(笑い)。

笠井 他にはまり役は・・・なかなかいないね。観世流の中を見ても。

明生 喜多流にもいませんよ。

能夫 いないね。

笠井 『小原御幸』で描かれる世界は平家物語の最後、いわば圧巻でしょ。能は平家物語の中からいろいろなものを摂取して、修羅能というものを創った。これはすごい功績だと思うんだ。能役者が能の技術を使って、あの物語を消化したときに非常に豊かなものを描き出してきたわけだよね。『小原御幸』では語りが大事というけれど、平曲だけの語りではダメなのね。能という仕掛けの中での語りであるから世界が何倍も豊かに美しく残酷に描けるんだよ。能という様式の財産、これは大きいと思う。

能夫 その意見には賛成ですね。

笠井 『小原御幸』の世界を成り立たせるためには、その前の修羅能の世界がなければならないし。

能夫 修羅能を通ってきてからというのは確かにありますね。そして『小原御幸』は語りで世界を描く、演技はしないといっても、ただ立っているだけではないですから。心のメリハリといおうか、心の交流はすごくしているわけですからね。

笠井 それと同時に、本三番目物の舞を消化しておくことも必要でしょ。ほとんど動きのない、非常につらい時間を持続しなければいけないあの世界を通っている人でなければできないわけですよ。だからああいう物ができるというのは財産だと思うな。できる人は数限られている。
 能夫さんのあの舞台には、成熟してきていた語りの段階が、さらに次の段階に行ったなという感じがした。まだその先があるとは思ったけれどね。

能夫 舞がない、語りや謡だけの世界、そういうものを一つ経験できたといううれしさはありましたね。

笠井 そして、『小原御幸』をやったという流れの中で『朝長』があったのでしょ。

明生 能夫さんは、ずっと『朝長』、『朝長』って言っていて、いつやるかを計画していましたからね。

笠井 結局、『朝長』はその何年後でしたか。

能夫 『小原御幸』が平成八年で、『朝長』が平成十年だから、二年後ですね。僕が四十八、九歳でした。二年しか経っていないんだね。『小原』ができたから次が考えられたということなんだろうな。

笠井 本当にそうだよ。『小原御幸』を通ったのが『朝長』に結実したなと。『朝長』に対する思いはいつか『阿吽』の「年来稽古条々」(『阿吽』九号参照)でも書いていたね。親父さんの稽古に参加させてもらいつぶさに見て、すごい、格好いいと思い、憧れたというようなこと。そして実現するまでにはある時間の経過が必要なんだ。やはりあの曲は四十代後半ぐらいにならないとダメなのかという気もするね。

能夫 そうかもしれないなあ。あの頃というのは、自分でも変わろうと思っていた。思い切らなくてはならない時期だというそういう意識はすごくありましたね。

笠井 そういう時期って大切なんだよ。

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