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研究公演つれづれ(その八)

研究公演 第8回(平成9年11月22日)
能夫『景清』と明生『采女佐々浪之伝』について

粟谷能夫
粟谷明生
笠井賢一

『景清』について

明生 第8回研究公演は能夫さんの『景清』と僕の『采女佐々浪之伝』、そして父が舞囃子『船弁慶』を勤めてくれました。

能夫 そうだったね。僕の『景清』は明生君の要請があってやったような気がするんだけれどなー。それですごいプレッシャーを感じてやった覚えがある。その前にいろいろ事件があったから・・・。

明生 今、『景清』はうちの父が十八番みたいにして勤めている。それが、もし父が具合が悪くなって代演者を立てなければならなくなったときに、粟谷能夫、明生と言われたらどうなのか。そのときにまだ二人とも披いていないので、できません・・・では情けないではないかということで。そうしたら、ある人が40代の『景清』、50代の『景清』、60代、70代があっていい、何回やってもいいのだ、40代の『景清』があったっていいのだからと・・・、能夫さんは早く披かなくてはね、やらなきゃ駄目ですよと言ってくださったんです。あのとき、能夫さんはあまり乗り気ではなかったですよね。その前に、大阪は阪神大震災の事件があったりして・・・。

能夫 そう、あの『景清』の前はいざ代演となったとき、対応できなかったんだよね。

明生 一度父が病気でシテを譲る形になってしまいましたね。これでは駄目なのだと思いまして。我が家のマイナス は自分たちの責任で補わなければいけないのですが、実際できなかった。このことを一つの材料にして強く感じさせられました。それで自分たちにお灸をすえなくてはと思って、それで能夫さんには絶対に早めに披いてと言ったのです。能夫さんは、もうちょっと後の方が良いとか、研究公演でない方がとか、いろいろと考えもあったと思うけれども、とにかくやろうということになったのです。もう、とやかく言っている状況ではないというのは能夫さんもわかってくれて、「そうだな。まずいな。じゃあ、やろう」ということになったと思います。1回披いておいて代演となるのと、代演が自分にとってお披きになるのとでは全然違いますからね。私は『砧』で代演したのがお披きになるという経験をしたので、そのことは切実に感じます。1度披いているのと、それがお披きというのでは、本人はもちろんのこと仲間の見る目というか意識も違いますから。だから能夫さんに「ここは是非とも『景清』をやっておいてほしい」と言ったのです。

能夫 そうだったよね。そういう仕掛けをしてもらったおかげで、僕もスムーズに『景清』に入って行けたんじゃないかと思う。そういう面では感謝しているよ。僕も『景清』という曲には憧れがあったし、自分がやるときはこんな風にやりたいという思いもあった。『景清』の場合は二度、三度やらないといろいろなことができないかなと思ってもいた。感情が高ぶっている景清もあるし、その感情を抑えて表現する景清もあるだろうし、いろいろな『景清』があるでしょ。過去にもいろいろな『景清』を観せてもらいましたが、みんな違いますよ。友枝喜久夫先生のも違う、菊生叔父のも、新太郎のも違う、昭世さんのも違う、実先生(先代喜多実宗家)のも違う、そういういろいろな『景清』を観てきましたからね。それらの中で一番印章に残っているものの一つは、先代の銕之亟さんが、友枝喜久夫先生の『景清』を観て、「信じられない。あの調子で景清をやるとは。でもすばらしい」と言われたことですよ。

明生 あの調子というのは?

能夫 高いんだよ。つまり謡い方がトランペットなんだ。普通だったらテナーサックスでしょ。でも友枝先生はそういう謡い方をなさった。観世流では絶対考えられないと、でもそれが景清になっている、そのすばらしさを銕之亟さんがおっしゃったわけ。役に対する喜久夫先生の心のストレスが彷彿してくる感じ。あの時の銕之亟さんとの会話をすごくよく覚えているよ。

笠井 銕之亟さんの『景清』は観たことある?

能夫 残念ながらないんですよ。

笠井 それはいいものでしたよ。

明生 観世流は、喜多流みたいにはあまり『景清』をやらないのではないですか。

笠井 そんなことはないよ・・・。

能夫 うちの流儀はすごくやっているものね。

明生 どうしてなのでしょう。

能夫 でもこのごろは少し下火になっているかな。友枝昭世さん、塩津哲生さん、香川靖嗣さんぐらいのところまでで終わっている・・・。

明生 その世代も一応やっているけれど、そう何回もということはないですね。新太郎伯父はたくさんやっているし、うちの父は、もう十八番でずっと続けていますし・・・。

能夫 若いときからずっとやっているね。

明生 長いですよ。

能夫 年をとってから『景清』をやろうという人は多いけれど・・・。で、僕がやるときどうするか。お能というのは いろいろなやりようがあるんだという、銕之亟さんの言葉が重く響いていて、明生君がこの場を設定してくれたことだし、まずは基本的な『景清』をやっておかなければと思ったね。恩愛のドラマというか人情味あるところもやらなければならないし、景清の若きころの源平合戦の武勲を語る仕方話もしっかりとやらなければならないし・・・。うちの流儀はここのところがことにね。

笠井 運動量多いからね。

能夫 菊生叔父やうちの親父から、昔の人にこういうことを教わったとか、いろいろ思い出話を聞く機会があったからね。親父が作った型とか、でもそれはやらなかったけれど。この道の先輩から聞いておく、見ておいてもらうということは必要だと思う。

明生 『景清』というのは「松門の謡」といって、シテが作り物の中で最初に謡う大切な謡がありまして。「松門、ひとり閉ぢて、年月を送り・・・」というね。ここはみんなそれぞれ、各個人個人で全然違いまして。伝承とかいって伝承になっていない(笑い)。

笠井 節づかいが違うということ?

能夫 強吟のところを和吟で謡ったりと、もう・・・。

笠井 えーっ、流儀の中でそんなに違っていいの?

能夫 違う。でもそれでいいんじゃない。

明生 昔、NHKのラジオ放送があるとき、実先生が、習いものの『安宅』や『景清』などは絶対放送してくれるなといっていらしたのですが、うちの父、NHKの柳沢さんに「何か十八番はありませんか」と聞かれて、『景清』って答えたものだから、それが放送されたのです。でもそれを聞いたからといってみんなが真似できるというものではないのですが。

能夫 できないんだな(笑い)。

明生 父は、これで全国の人の謡が菊生の「松門の謡」になったなんて喜んでいましたけれど、そうはいかない・・・。理解できないですよ、ああいう謡い方は。

能夫 「松門の謡」は難しいよ。僕の『景清』では笛は一噌仙幸さんにお願いしたのだけれど、「松門のアシライ」をやってもらったのです。これについてはあった方がいい、なかった方がいいといろいろ意見はあるのだが、僕としてはあの場面で、景清の孤独とかいろいろな感情を表現するときに、何かひと風、吹いておいてもらった方がいいのではないかという思いがあった。そんなものはいらない、直に肉声で入っていくべきだという人もいたけど、僕はああいうものに憧れを持っていたから。仙幸さんの思い、世界みたいなもので、ある程度雰囲気を作ってもらうというか、舞台を築いてもらわないと、とても松門なんて謡えないという、これが僕の立地条件なんだね。道行が終わって、さあ松門というには勇気がなかった。親父なんか、我を出したいというか、自分がすぐ出ていきたい方だったから、そんな世界作ってくれなくとも、オレがやるんだというエネルギーみたいなものがあった。ある種職人というか、そういう良さもわかるのだけれど、僕としては・・・。

笠井 両方あった方がいいね。

能夫 選択肢があった方がいいじゃない。僕の考えでそうしたんだけど、でも昔はこういうことほとんどやらなかったね。

明生 昔はあまりやらなかったですね。

笠井 笛は森田流? それとも一噌流?

能夫 両方あるでしょ。でも本来は森田流かな。一噌流はこちらから言わないと・・・。でもみなさんやっていらっしゃいますよ。

笠井 大五郎さんもやっておられましたよ。力のある人のアシライならいいけれどね。僕は忘れもしない。銕之亟さんが青山の銕仙会でやったときに、アシライがひどかったの。こんな松門のアシライならいらないと思っていたら、銕之亟さんの謡がすばらしくて、それを凌駕するものだった。そのアンバランス、忘れられない舞台だった。松門のアシライをするときは、笛の人間がどれだけその曲の内実を吹いているかということだよね。と同時に音色が悪くても思いを入れて吹いていますでは無効だからね。音色が自由になり、且つ曲が本当に身にしみてくるように吹けなければ・・・。

能夫 ある力強さもないとね。柔らかいムードだけでなくて・・・。

笠井 この三人で話すとき、語りとか謡の重要性がしばしば話題になったと思うけど、『景清』でいえば、孤独感をどう表現できるかということになると思う。つまり、あれだけの武士が敗残の老兵になって、しかも今や乞食となって芸で身を売っているわけですよ。その人間がどういう謡を謡うか、その孤独感をどう表現するかという、それが課題でしょ。

能夫 そう。わかりますよ。

笠井 僕は『景清』はそれに尽きると思うんだ。人を感動させるとしたらそこだと思う。老年になるとみんな、若いとき、自分の最盛期のときを思い出して・・・、それがその人にとって花なわけですよ。ところが、それが確実に失われている。失われているのに、昔、オレはこうだったよと言って嫌われている老人はいっぱいいるわけじゃない。そこに娘が来て、そんな惨めな姿を見せたくないから追い払うわけだけど・・・。そこはすごくリアリティあるところなんじゃない、根源的な人間の持っているものじゃないかな。それを平家物語の中で最もドラマチックに描いているわけでしょ。しかも芸能者というものの位置、盲目の人たちが意志固くしてやっているという側面もある。『蝉丸』だって、盲目の琵琶法師を蝉丸という高貴な人に託したというところがあるでしょ。世阿弥の時代、芸能は乞食の所業と言われた、芸能者は卑しめられていたわけですよ。今は芸能人は偉くなっているけれど、所詮、芸能者というのは芸を売って人様から銭をもらって口を糊しているわけだから、その無残さね。それは無残さであると同時に豊かさでもあり得る。人間の極限の体験を語り、表現することは、鎮魂の行為であり癒しでもあるわけだから。そういうことを身にしみてやることもできるし、人情劇という側面からやってもいい、『景清』はいろいろな側面からできると思うんだよね。でもまず、過去を思い出すことの無残さみたいなものを永遠の課題として描くということがある。『隅田川』だってそう、母親の子供への永遠の思いの深さを、普遍性をもってあれだけ書かれたら、それを表現するのは、それはもう男子一生の仕事と言っていい。『景清』もまたしかり。『景清』の喪失感の深さ。能が世界に冠たる芸能であるのは、やっぱり喪失感をここまで深く表現しているから。他の演劇では喪失感の表現をここまで深くしないもの。死者のまなざしの深さみたいなものね。死んでもまだ残る妄執の深さ、永遠の地に幽霊となって現れ、その思いを言い続ける、これは単なる怨念というものでなく、そこに普遍的な思いがあるからでしょう。それが他の芸能と違うところだと思う。

能夫 なるほど。

明生 よいお話ですね。今の話が今回のメインですね、たいへん面白くためになりますよ。

笠井 銕仙会や銕之亟さん、栄夫さんの『景清』を観てきて、やっぱりいいと思うし。僕は演劇人として強い刺激を受けた。

明生 観世流と喜多流とでは景清像みたいなのは違いますか。

能夫 観世さんは着流しですることが多いでしょ。

笠井 大口も両方あるけれど。基本的には着流しかな。

能夫 着流しで座っているんだよね。敗残というか、それを受け入れているというか。宝生さんは浅葱の大口履いていますね

明生 そういうのを履くというのは、よくわからないですけど・・・。

能夫 僕も昔はわからなかったけれど、今はなんとなくわかるような気がするよ。だって白だと武士っぽくなるじゃない。それが水色だと斜陽というか日が斜めから当たっているというような、崩れているような感じが出るじゃない。白だと逆に言えば強烈すぎるでしょ。

笠井 白は戦闘的な、闘っている感じになるね。

能夫 二十代のころはわからなかった。当時はみんな白の大口で黒の水衣でしょ。でも六平太先生も萌葱でやっていたこともあるからね。

笠井 着流しはないのね。

能夫 着流しはない。喜多流は型が多くそれも強さを出したい、心のわき立ち具合とか、癇癪も起こしたりと、いろいろ型としてやるから、床几に掛けていないと・・・。

明生 観世さんはあまりそういうことはしないのですか。

能夫 多少、情景描写的にはするけれど・・・。

笠井 やるけれど、だけどそんなにはしないから。

明生 観世さんの『景清』を観ていないんだな。

笠井 体の中にドラマを起こさせる芸をする人はそういませんよ。それができるのは先代の観世銕之亟(静雪)さん、栄夫さん、今の観世銕之丞さんだね。孤独感の深さを表現できるのは。栄夫さんの『景清』はとても良かった。栄夫さんの能の中には、今の観世流の人たちがどんなに逆立ちしたってできないものがありますよ。それは育ちもあり、かつ演劇人として他の仕事をしてきたこと、言葉に対する感覚の鋭さ、それは誰もが到達できていないところのものですよ。そこのところをきちんと学んで欲しいと思います。

能夫 それはねえ。この間の『小原御幸』の法皇をやったとき、それはすごいということがよくわかりましたよ。

笠井 今『小原御幸』で法皇ができる役者、誰がいるかな? いないでしょ。そういうことを考えてほしいと思う。栄夫さんの『景清』は本当によかった。あの孤独感、喪失感を表現する力、しかもそれがすごく適確なの。つまり・・・。

能夫 最後のところでしょ。「景清これを見て、物々しやと夕日影に、打ち物閃かいて、斬って掛かれば堪へずして、刃向いたる兵は、四方へぱっとぞ逃げにける」というところ・・・。

笠井「四方へぱっと」というときに、栄夫さんの演技でまわりの敵の兵士たちが、どよめいて後じさりした姿が見えた。

能夫 黒澤明の映画だな

笠井 本当に空気が変わった。これは観世流の型だとか、喜多流の型とかいうことを越えて、景清という役の内実が表現されていたから、栄夫さんがぱっととやったときに 、その瞬間に生涯忘れ得ないその時の興奮と戦場の世界が今ここにまざまざと再現された。戦場の空気が変わる、はっとまわりが構えて後ずさりする空気が伝わってくるの。

能夫 それは僕、黒澤の映画を見ていて感じたことがありますよ。影武者だったかな、織田と武田の騎馬軍団が戦っていて、映像は武田方の大将たちが何人か立っているところを追っている。戦闘場面は映っていないんです。そして、その大将たちが高台から戦闘場を見ていて、二、三歩後ずさりをするんです。その映像を見て、ああ武田は負けたんだなというのを観るものは想像し理解する。ああ、黒澤という人は能を飲み込んでいた人だし、喜多六平太のファンだったし、だからそういう描き方をするのだと思いましたよ。大将たちがオーッと後ろに下がる映像だけで、騎馬軍団が鉄砲に打たれ、バタバタと馬から落ちているというような戦場の大パノラマが見えてきたもの。戦闘場面は一つもないのに。

笠井 能は常にそういう表現方法じゃない?

能夫 だから、そこです、勉強になったのは(笑い)。

笠井 そこを体現できる役者かどうかが勝負じゃない?

能夫 ここのところはまさにそうなの。

笠井 合戦の場を再現するところは、景清にとって生涯一回きりのことですよ。それも娘が訪ねてきて、別れる直前に、青年期の絶頂のときを再現するわけ。老年になってただ一回やるのだという、その覚悟みたいなもの、凝縮した力、そういうものが能にはあると思う。観ている人も、うちのじいさんがどう無惨に生きて死んでいったかをすごくリアルに見ている。普通の生活者が言うに言われぬ痛みを持って生きている、能が上等な演劇という人もいるかもしれないけれど、上等とかというより、そういう人間の根源的なところにさわっているかということだよね、芸が。そのために型がある、その型を生かしていかないとね。

明生 その型を生かす力というのがすごく必要だなというのが、特に喜多流にはありますね。型自体のよさに寄りかかっているような気がします。たとえば今私が『景清』をやろうとしたら、父は「ここはこうだぞ」と目で見える動作の秘訣を数多教えてくれると思います。それはそれで有り難く幸せなことなのですが、でも私たちぐらい、いやだな、もう46歳か!この年齢になると、そういう動きはずっと見てきているから、ある程度はわかると思うのです。だから「些細な動きはいいよ、他のことを」と言っても、「ここの足の下がり方が違うんだ、ここに心得がある」とか「こうすることで型がよく見えるようになる」と教えてくれるだろうと想像つくわけですよ。これはある面では助かり感謝することですが、ある面では反発するところでもあって、そうすると片方では能夫さんに向かっていって、いろいろ議論したり教えてもらったりということに、でも能夫さんのところではどうにもならない実質的なところになると、また父の方にと。私は両方あるからいいですけれど。喜多流はどうしても型一辺倒になっていて、こういう風に下がって、こうと、まずこれができなければ駄目! というのがあるから・・・。

能夫 それがある程度ベースですからね。

明生 喜多流には他流にないいい型もある、だからそれらが大切だというのはわかるのですが、その先に行かなくてはというのが、うまく言えないけれど先程の笠井さんのご指摘通りと思うのです。『道成寺』でも『景清』でも、そこに伝わる型の伝承に安住してしまうというのがね。流儀のあり方の問題なんですけれど。

能夫 そのことは大切なことですよ。僕の『景清』は四十代でさせてもらったわけだけど、ホップ、ステップ、ジャンプといおうか、五十代、六十代、七十代と段階を上げていき、僕の『景清』を作っていきたいと思いますね。

『采女』について

笠井 さて、ここらで明生さんの『采女』に入りましょうか。『采女−佐々浪の伝』というのは、新しい何かをやっていくという最初のものだったのではないですか。これまでの曲の見直しをするというような。

明生 曲の見直しという意味ではこれが最初ですね。これをしたから『柏崎』なんかも取り組むことができた・・・。

笠井 だから『采女』がある意味ではあなたの出発点になったし、演能レポートを書き始めるようになったのも、これからでしょ。

明生 そうですね。そのあとすぐ『砧』を代演しなければならなくなったりして、笠井さんにもいろいろなことをお聞きして、自分でも考え、そういうものを自分の中にどんどん取り込んでいこうと思い始めていました。書くこと以前に、そういう見直すことを始めたのが私にはすごくよかった。

能夫 そして、そういう自分の足跡を残すことをやってきた・・・。

笠井 プレッシャーを感じながらね。

明生 暁夫(現観世銕之丞)さんが青山で『采女』をやられたとき、拝見したのですが、先代銕之亟さんが「今日のような、てんこ盛りの『采女』、これもいいんだよ」とおっしゃったんです。私が「先生が式能でやられた美奈保之伝の方がいいのですが」と申し上げたら、「それもそうだけれど、このてんこ盛りね、いろいろなことがたくさん詰まっている、普通の采女もやっぱりいいんだよ」と(笑い)。

笠井 そういうものもないと絶対駄目ね。

能夫 いろいろなものを通っていないとね。

明生 いろいろなものをやらなければ駄目なのだけれども、私の『采女』は研究公演で取り組むのだからという意識がありました。私が勤める前に能夫さんがちょうど例会で『采女』やっていたのですよね。ごく普通に、まっとうに。それで私に伝書にはこう書いてあったよと、いろいろなキーワードみたいなものを教えてくれたのです。本来こうなっているけれど、こういうやり方もあるとか、それで私の冒険心がくすぐられたみたいです。

能夫 出発点だな。

明生 そう、出発点。実先生の「小波の伝」というのがあって、佐々木宗生氏がやられた時、私なぜか録音して持っていたんです。聞いてみるとちょっと気になって触りたくなってしまって。

能夫 実先生がご高齢になられてから、ご高齢でもできるような形に直したというようなものだったけどね。

明生 それで、「小波の伝」をよく練って、自分なりの新しい試みを入れてみようとして、一年間というもの、これにかなりかかりきりになりました。伝書にあったキーワード「采女一日曠れ也(はれなり)」がヒントになり、入水自殺した采女も功徳により成仏でき、水の世界からこの世の世界に現れて、その喜びを舞うのだ、能『采女』はその晴れやかな一日を表現するのだと感じたのです。成仏できた晴れやかさ、極楽浄土に向かっていく美しい様、それを表現したいと考えました。装束も緋の袴にし、面も創作面を使用するなど工夫をして。それで小書も実先生の「小波の伝」を、あえて実先生の創作当初の名称「佐々浪之伝」とさせてもらいました。(くわしくは『阿吽』No.5の項、あるいは演能レポートの項参照)。

能夫 あの小書からも明生君の意気込みが伝わってくるよ。

明生 演出家もそうかもしれないけれど、演者もそうなんで、何か巧みたくなる。巧む心がなくなると駄目になるということは確かなんですよ。何も巧まずに、形式にのっとっていればいいものが生まれるという言葉を真に受けていると、現状より一歩も前に進まない。いつも何かを考え巧むというのは難しいかもしれないけれど、それをやっていかないと、自分自身が足をすくわれる感じがするんです。下の世代がどんどん上がってきているのですから、うかうかしてられませんよね。

笠井 明治の名人たちは、そういう形式にのっとってやって、そこで淘汰されていった。下手な人は能楽師として残っていないからね。現在はそういう時代ではない。淘汰されるということがない。だからその中でいかによい能楽師になるかが問題だよ。寿夫さんは、そういう時代を見据えていたから、他の演劇にも出て行ったし、本を読むこともしたし、世阿弥を本気で読んだからね。型だけやっていたらそんなことする必要ないわけだけど。

能夫 精神が必要ということだね。

笠井 作品を読み直すこともやる。世界的な演劇のレベルで、何がよくて、能で何が表現できるかを探ったわけだよ。それはそういう知性を働かせてやったわけでしょ。それを寿夫さん以降やっていないとしたら災難だよ。寿夫さんは五十三歳で死ぬような芸をやったんだから、それは死ぬような内圧をかけて舞台をやったんだから。

能夫 俺はその年になったけどまだ生きているよ(笑い)。

笠井 寿夫さんは短い人生だったけれど、実に多くの感動と影響を与えたからね。だけど僕はいつも言うように先代の銕之亟さんのように、六十代になって透明度のある謡と演技を見せてくれたという、そういう生き方もすばらしいと思うんだよ。あの透明度は寿夫さんの53年の生涯ではできない、五十三歳ではできない、そういう演技でした。だから、役者の生理というか、役者の時間はもうしようがないね。

明生 だから長生きしなければいけないということもありますよね。ところで私、今度、来年の秋の粟谷能の会(十月)にもう一度『采女』をやるのですよ。研究公演の反省も踏まえて、もう一絞りしたのです。序之舞をもう少しコンパクトに再考してみてはと。

笠井 普通のフルコースはやっていない? 一度やってみれば・・・。

明生 フルコースをやっていいというならやりますが。通常の『采女』をしっかりやると二時間はたっぷりかかりますから、なかなか難しいですよ。粟谷能の会の三番立で通常の『采女』を出すのはきつい。だからなかなか機会に恵まれないのです。でも研究公演でやりっぱなしというのも気になって、あのときの反省材料もあるし・・・。今度は囃子方を一噌流、大倉流、葛野流と前回とは変えて試みてみようかと思っています。

笠井 僕にとって浅井文義さんの舞台で一番良かったのが実は『采女』なのね。寿夫さんの十三回忌追善能だったと思う。二時間十分とか二十分かかったかもしれない。青山でやったから、座って観ている方もつらい。辛抱比べみたいなものだったけど、でもやっぱりよかったよ。彼の中の思い、つまり万能を一心につなぐという思いみたいなものがグーッと出てきてね。地謡も良かったし。彼の序之舞のよさもすごく出たしね。そこに全部凝縮したという感じ。長かったけれど、これが本筋だなと思った。美奈保之伝も悪くないけれど、なにかテーストが薄くなってしまう。二時間十分〜二十分やって、いろんなものをやって、序之舞で純度が高くなって・・・、ああ、こういう世界かと納得できるものがあった。あのときの追善能は、浅井さんが一番若輩なんだよ。だけど先輩たちにひけをとらない、いや浅井さんのが一番良かったと言っていいぐらいだった。それが中堅の恐ろしさだよね。今浅井さんがそのときの先輩たちの年齢になっているけど、あのときの『采女』を越えるのは大変なことだと思う。若輩者が大曲をやるときのテンションの高さ、それがとてもよく出ていた。

能夫 テンション、そういうことはあるね。

笠井 それは本当に輝いていたよ。

明生 だから、いつも目標を持っていないと駄目なのですね、能楽師はいや能役者は。

笠井 長いものをどこかでやっておかないと駄目だと思いますよ。能というのは万能一心につなぐというか、不合理なものを一心につなぐ力技があるじゃない。

能夫 うーん。でも『采女』をやる場はなかなかないですよ。

明生 贅沢ですよね、そういう場があるというのは。一度やる機会があったとして、一生のうちにもう一度舞えるかといったらそうはない。そういうのは悲しいなというのが、私のあがきみたいなもので・・・。

笠井 でも、その『采女』以来、明生さんは一曲一曲丁寧にやり出した、見直しもするし、そこで考えたことを書くようにもなった。

明生 そうですね。

笠井 そういう、大きなエポックメーキングになった曲ということですよね、『采女』という曲は。

能夫 研究公演の第八回でそういうことを始めて、明生君の今日があるわけですよ。

(平成14年6月 於 割烹千倉)

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