粟谷能の会
粟谷能の会  »  『江口』は普賢菩薩の心 Welcome to 粟谷能の会. [Login] [Register]

トップ  >  粟谷明生の演能レポート  >  『江口』は普賢菩薩の心

写真「『江口』後シテ 粟谷明生 撮影 石田裕

『江口』は普賢菩薩の心

粟谷明生


 第80回の粟谷能の会(平成18年10月8日)は、祖父、粟谷益二郎五十回忌追善の催しとして、子である菊生、辰三、幸雄が仕舞を舞い、孫の能夫と私がそれぞれ大曲の『道成寺』と『江口』に挑み、一門全員が力を合わせ執り行うものでした。
 父菊生は会の番組の挨拶に、孫たち(能夫と私)が大曲を追善として勤めること、自分は仕舞と『江口』の地頭として舞台に立つこと、「八十五歳に近くなって父の五十回忌追善能に参画出来るということは感無量、無上の喜びであります」と、晴れがましさと嬉しさをつづっていました。
 その父が『江口』の申合せの前日に脳出血で倒れ、未明に入院、当日は病院のベッドの上で生死をさまようことになろうとは・・・・。
役者はどんな状況であろうと舞台を最優先しなければいけません。父の容態が気にならないわけがないのですが、この状況下で『江口』を勤めなければいけない私のことを察して下さったのか、ワキの森常好氏や囃子方の皆様(一噌仙幸氏、大倉源次郎氏、亀井広忠氏)、ツレも地謡も皆、心を一つにして父のいない舞台を盛り上げてくださる、それぞれの役者魂、舞台人魂を痛いほど感じました。そしてそれは舞台上の人だけでなく、観てくださる方々からも伝わってきて、まさに見所が一体になったような不思議な緊張感、胸打つものがありました。あの舞台を支えてくださった皆様にも、ここで厚く感謝、御礼申し上げたいと思います。

ここからは、いつもの演能レポートに入りたいと思います。
能『江口』の舞台となる、江口とは難波江(現在の大阪湾)の入口の意味で、昔、瀬戸の海を渡って来た人はこの江口で船を乗り換え、川舟で淀川を遡って目的地に行くという、水上交通の重要な地として華やかで賑わいを見せていました。鎌倉時代までは繁栄し、その後、次第に華やかさは消えていったようです。
現在、大阪市淀川区南江口には寂光寺があり、ここは境内に贈答歌を交し合った遊女・妙と西行法師の供養塔があることから、江口の君堂とも呼ばれています。以前、写真探訪(これは未公開)で訪れましが、静かな場所にあり、当時の賑やかな面影はまったく感じられませんでした。


写真 「寂光寺」 撮影  粟谷明生

『江口』は西行と江口の遊女との和歌贈答説話と性空上人が室の遊女を生身の普賢菩薩と拝したという二つの説話から構想されたものです。西行との贈答歌は新古今和歌集に載ったことで有名になりましたが、そこには遊女は妙と記載されています。一説には贈答歌はどちらも西行の歌ではないかとするものもありますが、能ではシテは遊女妙ではなく、江口の君とだけ謡われています。
いずれにしても、普通は僧が教える立場であるものを、僧が遊女に法を教えられるという逆転の発想が面白いです。女性は穢れたもので、女人成仏できないとされた当時の世相にあって、女性が僧に物申すという逆転場面は能の世界ではときにあります。『柏崎』では物狂いの母(シテ)が善光寺の女人禁制に対して「仏がそうおっしゃるのか」と住僧に抗議し、『卒都婆小町』のシテ・小町が卒都婆問答で僧を言い負かすなど、いくつかあげることができます。この逆転の発想が当時の観客にもおもしろく受け止められていたのではないでしょうか。

『江口』を演じるにあたって気になったことがいくつかありました。
まず遊女とはどのようなものなのか。私はすぐに映画「陽暉楼」のような遊郭にいる女性たちを想像していましたが、『江口』で描かれる女性たちはどうも少し違うようです。
『江口』を理解するには、世阿弥が描いた当時の遊女像で物事を考えないとわかりにくいかもしれません。故綱野善彦氏は以前、橋の会のパンフレットに遊女について、こう書かれています。
「近代、近世の遊郭の遊女のあり方から中世以前の遊女をおしはかってしまうのは大きな間違いである。世阿弥が昔を思い浮かべて描いた遊女は13世紀から14世紀のスタイルで今とはそのスタイルが違う。近世的、近代的な売春婦として単純に考えてはいけない。
つまり、遊女とは古くは一種の巫女、その職として芸能をする者であり、芸能者は神仏になることもあり、それが宮中との繋がりにもなったとも考えられる」と、あります。この状況下から、江口の君のような発想が生まれるのは不思議ではなく、歌舞音曲を業としながら集団生活をするひとたちと見るべきなのでしょう。

次に気になったのが普賢菩薩になる設定です。菩薩は仏陀になる前の悟りを求める者です。普賢菩薩は釈迦如来の脇侍で、智恵を司る文殊菩薩とともに、慈悲を司るものとして配されています。文殊菩薩が獅子に乗っているのに対して、普賢菩薩は白象に乗っています。私は今まで、菩薩は神仏そのものであると誤解していました。確かに神仏に近い存在ではありますが、まだ悟りまでは達していない、悟ろうとする修業の身です。
遊女が菩薩になるという、遊女を穢れた者とするのではなく、芸能をするものとして、芸能の価値を認めることで、神仏に近い存在とする考え方や設定は世阿弥の時代ならではの構想かもしれません。とりわけ普賢は美しいお顔なので女性の象徴のように思っていましたが、実は男性であるということなども判ってくると私の頭の中はまたこんがらがってしまい、あまり性別のことを持ち出しても意味ないとは思うのですが、まだ悟られていない身分であること、男性であることなどが、男性の能楽師たる私がこの曲に臨むにあたって取りかかりやすくなった要因のひとつということは事実でした。


写真  国宝普賢菩薩像 東京国立博物館蔵 ポストカードより

次にもう一つ気になったことは、演者として前場を里女や江口の君の幽霊という設定でなく、普賢菩薩そのものの心持ちで勤められないだろうか、ということでした。これは私の単なる思いつき、ひらめきなのですが、そのように演じたい、と稽古しながら思い始めました。
そこへ、幸流小鼓方の横山晴明氏から森田光風氏の「平調返の試問に答ふ」というお手紙を拝見させていただく機会に巡り会い、私のひらめきが満更大間違いでないことがわかり自信がついたのです。
お手紙の一部をここに引用させていただきます。
「西行法師と江口の遊女との歌問答の故事を前提として転倒迷妄の窮境(きゅうきょう)から、三途八難の悪趣に堕ちた遊女も、愛執の境涯を脱すれば忽ちに実相無漏の大海に棹さして普賢菩薩と現じ、白雲に乗って西方極楽浄土に往生すると云う一種の人生観を説いた幽玄極致の能であります。遊女が普賢菩薩であるといふ事は、説話で名高い撰集抄や十訓抄から材を求めたものであります。是に依って江口の仕手の本体を遊女―江口の君と観察してはなりません。即ち普賢菩薩であります。・・・・・・云々」
 この最後シテの本体を遊女・江口の君と観察してはならない、すなわち普賢菩薩なのだという言葉に力を得て、私は前シテの登場から終始、普賢菩薩という気持ちで演じられたのです。もちろん詞章を変えたり、変わるわけではありませんが、あくまでも普賢菩薩の心で、という精神性だけのことですが、私は能役者こそこの精神性を大事に演じなければつまらない舞台、空虚な舞台になってしまうと思っています。
 
森田流の伝書には、さらにおもしろいことが書かれています。能の骨子は五行によって成立され、五行とはすなわち、木、火、土、金、水、季節では春、夏、土用、秋、冬の五季、方位では東、南、中央、西、北の五方、色彩では青、赤、黄、白、黒の五色、調子では雙調、黄鐘(おうしき)、一越(いちこし)、平調(ひょうじょう)、盤渉(ばんしき)の五調子、音では角、徴、宮、商、羽の五音です。『江口』の小書「平調返」では、五行の四番目、平調と同列の金、秋、西、白、商が関係してきます。『江口』は「秋」の曲で、「白」象が、「白」妙の「白」雲に打ち乗って、「西」の空に行き給うと、一貫して五行の理にそって統一されていることが面白く、演じる手助けとなりました。これらは「能劇逍遥」横道萬里雄著(筑摩書房)にも記載されていますので、詳細はこちらをご覧下さい。
 

ここからは曲の最初から細かい演出について記していきます。
前シテの出は、常は「のうのう」とワキに呼び掛けながら幕から出ますが、普賢菩薩の心でと思い、現世の旅僧に悟らせるために、和歌を口ずさんでいるそばに、すっと姿を現す、そう思えるような演出として、ワキのサシ声の謡で静かに橋掛りに登場しているようにしました。西行法師の歌ばかりでは真意はわからない、「仮の宿りに心留むな」の歌も忘れてはいけないと諭すあたりの心は普賢菩薩の陰りが伺えられるようなものです。

後場は舟を橋掛りに出して遊女三人が並びます。シテを中央に、左右のツレを従兄弟の充雄と浩之に勤めてもらい、粟谷家一門全員が舞台に立てて、粟谷益二郎も粟谷菊生もきっと喜んでくれたことと思っています。ツレとの連吟「秋の水、漲り落ちて去る舟の」は、囃子方が道具を一時置くほどの謡の聞かせどころです。ここをどのように謡えたのかが気になるところではありました。

通常、ツレは序で地謡座前に移動して最後まで残っていますが、今回はシテが普賢菩薩になり白象に乗って西の空に帰るときにツレの遊女が舞台に残っているのは、景色が悪いと思ったので切戸口から退場してもらいました。舞台には旅僧たちだけが残るほうが『江口』の終曲としてはいいはずです。

今回は「干之掛」と「彩色」(イロエ)の小書付でした。「干之掛」は五クサリの序のあとに高い干の音から特殊な譜を吹く序之舞の特別演出です。一噌仙幸氏は『江口』という曲を吹いて下さいます。序之舞だけに留まらない能『江口』の全体の世界を吹いて下さる希少な笛方で、私の演能の大きな支えになっています。今回は初段オロシでは一噌流独自の「普賢の手」という特殊な譜も入れていただき、舞いながら序之舞の世界を堪能出来たことは大きな喜びでした。また後で「彩色」も入ることで常の三段を二段に縮小するという試みにも応えていただき感謝しています。
「彩色」は「序之舞」との繋がりを軽んじていけないと思います。『江口』の「彩色」は特に主張があるといいます。常はシテ謡で「波の立居も何故ぞ、仮なる宿に」と一息に続けて謡うところを「波の立居も何故ぞ」で一端切り、「彩色」の型が入ります。「波の立居も何故ぞ」と衆生への問いかけがあり、その仏の答えとして「仮なる宿に」とまた謡う、これが彩色の仕組みです。森田流の伝書には「彩色」があるものが本説である意が記されています。つまり彩色(イロエ舞)は遊女が徐々に菩薩に変化し始めるきっかけということのようです。詞章では「これまでなりや帰るとて即ち普賢菩薩と現れ」で一瞬のうちに普賢菩薩になりますが、その前兆のようなもの、それが彩色という位の高さを演出だと考えられます。

今回の「彩色」は舞台を静かに一巡するものながら、そこに変化の意識が込められるもので、破之舞のように、序之舞と同等、もしかするとより大事に扱われている二之舞と同じと思って勤めました。もっとも喜多流本来の彩色は働系統の途中に段をとる形式的ものです。型は大小前へ左回り正面乗り込み、右回り大小前、左右とありますが、これはあまり笛の精神性とは似合いません。近年友枝昭世氏がイロエ系の段なしの余韻を大事にする型を試みましたが、私もそれを真似て勤めました。
 終曲は「有難くこそ覚ゆれ」で幕に入るのが吉・徳ですが、今回は次の『道成寺』の最後が脇留です、同じ型が続くのは避けなければいけないので、敢えて橋掛りの三の松で留めて終曲としました。

面については、本来、喜多流は小面が決まりですが、『江口』のシテは遊女であり普賢菩薩にもなる程の高位の女性です。単に可愛らしいだけの小面では『江口』にはそぐわないです。観世流では増女を使用する時もあるようですから、小面のかわいらしさだけの表情には限界があるでしょう。
江口の君に似合う小面、凄いエネルギーを発散する力強い小面。残念ながらそのような小面は我が家にはありません。ならば小面の縛りを越えて、いっそ増女を使用しては、とも考えましたが、今回は披きでもあり、また流儀の主張である小面を使用する所以「なぞとき」もしてみたいと悩んでいましたら、その私の悩みを解決してくださるものと出会うことが出来ました。それは観世流・浅見家の名品の小面です。浅見真州氏とは日頃いろいろお話をさせていただいている間柄でもあり、また亡き父と真州氏とのお付き合いのお陰でもあり、今回貴重な小面を拝借させていただくことができましたことは、真に役者冥利に尽きます。この小面は絶品で私の『江口』演能の根幹となって力を与えてくれました、ここに浅見真州氏に感謝申し上げます。

父が倒れた日は嵐のように大雨の降る日でした。二、三日後の、粟谷能の会の当日(8日)は一昨日からの雨があがり、さわやかな秋晴れの日となりました。もう少し頑張って、この会が終わるまではという我々の祈る思いが通じたのか、あるいはさわやかな陽気のせいか父の状態も小康状態を保ち、何とか命をつないでくれました。会が終わって3日後、11日に力尽き帰らぬ人となりました。
父や新太郎伯父は、祖父益二郎が亡くなった後、一周忌追善能、三回忌追善能・・・と、祖父の追善供養といっては大曲に挑み、充実した会を催して、粟谷能の会を盛り立ててきました。私たちもそういう機会に思いのある曲を勤めさせてもらい、成長してきたように思います。「追善ですからこういうことをやらせてくださいと実先生(家元)に申し上げ、大きい会を催すお許しをいただくのよ。追善という名前を借りて、お客様にもたくさん来ていただいてね」と言っていた父のいたずらっぽい顔が思い出されます。
五十回忌といえば、追善供養も最後、死者が完全に神になるというおめでたいときでもあります。これが終わり、次は父の一周忌から始まるのかと思うと、輪廻を感じ不思議な気持ちになりました。「五十回忌で追善能もおしまい。種切れになるね。じゃあ、僕の一周忌からまた始めたらいいよ」と言いそうな父の顔が浮かび、なにか、粟谷能の会のために、ちゃんと計算して逝ったような気にさえさせられるのです。
父の死と遺志を思うと、父や新太郎伯父が取り組んできたように、能夫と私が先頭きって、それぞれの思いのある課題の曲、大曲に挑み、一門の者が一致団結して、粟谷能の会を継承し、盛り立てていかなければ、と心底思っています。
役者は常に光源体であるべき、どんなときでも輝いていなければいけないと思っています。父は確かに光源体であって、いつも輝いていました。もっと謡ってもらいたかった。駄洒落や面白話ももっと聞きたかった。今私は、一つの光が消え、闇があたりを満たしているように感じます。しかし、蛍が明るい昼間より暗闇の方が美しく見えるように、暗闇だからこそ光源体は光を放ち、闇があればこそ、その光り輝きが冴えるのだと、いま自分に言い聞かせています。
父のいない舞台で『江口』を勤め、こういう闇の世界だったからこそ、見えてきたものもある、と感じました。またそのように見てくださった方もおられ、随分と勇気づけられました。どんな状況でも、役者は舞台に立つ宿命をもっている、たとえ闇のなかでも役者は光輝いていなければならない、それがもし輝かなくとも、光る作業はしなければいけない、そう感じ教えられた披きの『江口』でした。
                   (平成18年10月 記)
プリンタ用画面
友達に伝える
前
『千寿』について
カテゴリートップ
粟谷明生の演能レポート
次
『黒塚』の白頭について