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『枕慈童』について

粟谷明生
寒くなると七輪に季節の焼きものを乗せて食べることがありますが、松茸など焼いて一杯いただくのは至福の時です。その七輪には謡本が貼られていて必ずそれは『枕慈童』の詞章です。不老長寿を祝うおめでたい曲であるからなのか、真意のほどはわかりません。ご存じの方がおいでならばお教えていただきたいと思います。
この曲を観世流は『菊慈童』といい『枕慈童』はまた別な曲としてありますが、喜多流は『枕慈童』のみです。

平成18年4月16日の厳島神社御神能で久しぶりに『枕慈童』を勤めました。
『枕慈童』は50分程の中入のない短い小品ですが、喜多流では青少年期の修行過程に一度は勤めておく初級者用の秋の曲です。
あらすじは、酈縣山の麓から不思議な霊水が出ていることを知った魏の文帝が勅使を向かわせます。勅使は菊の花の咲き乱れる山中の庵に一人の少年を見つけ尋ねると、周の穆王に仕えていたが今は菊水の霊薬により700年の齢を保っていると答えます。帝から授かった経文を菊の葉に書き写してその下露が谷川に流れそれを飲んで不老不死となったと謂われを教えます。少年慈童は菊の酒に酔い舞楽を奏し君の聖徳を讃えて山路の仙家に帰っていく、と非常に単純な物語です。

『枕慈童』は『楽』を舞うことが主です。
一般に『楽』を舞う曲は狭いところで舞うことが多いようで、たとえば『唐船』『邯鄲』などは最たるものです。舟の舳先や一畳台の上で舞うという至難の技を要します。
『天鼓』・『竹生島』女体・『月宮殿』なども皆一畳台が置かれ、大小物の楽『富士太鼓』『梅枝』も正面先に鞨鼓台が置かれます。
『枕慈童』は藁屋と一畳台という二つの作物が本舞台に出るので極端に狭くなった舞台で、狭さを感じさせず、リズムよくゆったりと大きく広く舞って見せるのが技ということになります。
私の稽古法は面をつけてわざと一畳台になにも挿さずに、また藁屋(塚)は台輪といわれる四角い木枠だけで視界の悪さを強調して稽古します。視界が悪いと見当がつきにくくなりますが、繰り返しの稽古で徐々に慣れていきます。

実際は一畳台には大きな菊の花の束が左右に一束ずつ挿され、大小前にも目標となる高さのある藁屋か塚の作物が置かれるのでさほど問題はないのですが、狭いところに慣れておくこの練習方法はこの曲を習得するのに欠かせない手法だと思っています。

では、慈童はなぜここに住み700歳の齢を保ったのでしょう。
それは慈童が穆王に寵愛を受けながらも誤って王の枕を跨いでしまったたからで、本来ならば死罪になるところを特別のご寵愛により遠流(おんる)の刑に処せられ山に捨てられたのです。

「能・中国物の舞台と歴史」(中村八郎著)には、慈童が捨てられたところは今の河南省南陽府内郷県の東北にあると記されています。私のお弟子さんが現地中国人に尋ねたところ「河南省南陽市西峡県の菊花山がそれで、そこに出る水を飲めば長寿を得ると今でも伝えられている」と説明されたそうです。西安から東へ黄海に向かい南京とのほぼ真ん中の距離にあると思っていただければいいでしょう。

周の皇帝穆王は西域への大がかりな旅行して遂に天竺まで行き霊鷲山にて釈尊に会い法華経の四要品を授かったといいます。穆王は中国に帰りこれを秘して世の誰にも伝えようとしなかったのですが、慈童が遠流になるにあたって深く哀れみ普門品にある経文を与え毎朝この文を唱えよと授けます。これが二つの偈(謡では四句の偈)「具一切功徳慈眼慈衆生、福寿海無量是故応頂礼」です。
慈童はこの大事な経文を忘れてはいけないと思い菊の葉に書き付けますが、その菊の葉の下露がわずかに流れる谷水に滴り落ちて霊薬となります。慈童はこの水を飲み長寿となり700年経っても少年の容姿のままであったのです。

「太平記」に慈童は名を「彭祖」と変えて魏の文帝にこの術を授け、それより帝は菊花の盃を伝えて万年の寿を願ったと、これが重陽の宴の始まりだと記されているようです。
実はこの文帝は「三国志」で有名な曹操の子「曹丕」のことであるといわれています。すると周の穆王から数えると1200年となり、慈童の700歳とでは500年の年の違いが出てしまいますが、その辺は能の世界の曖昧な部分ですませておいたほうがいいようです。あまり言及しないでおきます。
『枕慈童』は演者としてはさほど深い思いを入れて舞うような曲ではありません。淡々と「楽」を舞っておもしろくみせる芸尽くしの曲です。捨てられた悲しさや恨みなどは毛頭ありませんから、とにかく軽快に楽しく、少年らしく「楽」をお見せできればいいのです。ご覧いただく方にも少年が遊舞を舞う曲を楽しんでいただけたらと思います。

今年は珍しく桜が少し残っていて、そのためか屋外はまだ寒く風が吹くと手がかじかむほどの天候でした。大勢の地謡の参加を得て今回の御神能が無事終わり、この御神事が継続されたことを嬉しく思います。
演能後に中国新聞のインタビューを幸雄、能夫、私と3人で受け、厳島神社での御神能の歴史や経緯を話すうちにまた宮島の魅力を再認識し感慨深いものがありました。宮島出身の祖父粟谷益二郎から息子の新太郎、菊生、辰三、幸雄兄弟、そしてそれぞれの息子たち4名で三代に渡り奉納活動が継続出来ていることへの自信と責任を感じ、奉納という場のすばらしさ、歴史の重みを大切にしたいと思いました。

御神能は『翁』からはじまり五番立です。私たちには毎年この時期が年の初め、お正月という気分で気持ちを引き締めています。
海に突き出た能舞台で、陽の光を浴び、風を受け、潮の香を背にした最高のロケーション。能の本来の姿、屋外能という基本形を再確認出来るこの御神能は私の演能活動の基礎であり、これを土台に現在の屋内能をより充実していきたいというのが私の思いです。
           (平成18年4月 記)

写真 『枕慈童』シテ・粟谷明生  撮影 石田 裕
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