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観世座で喜多流の『小原御幸』(シテ・友枝昭世氏)(平成17年7月21日)が公演された。観世座は観世清和氏が監修し、旧橋の会のスタッフが運営に携わっている。その観世座に喜多流が出演することに違和感を持つ方もおられるだろうが、優れた能楽師ならば広い視野で多様な演能があってよいのではないだろうか。もっともはめを外しては論外だが、能そのもののあり方や美を探求しようとする前向きな姿勢に私は賛同したい。

今回の配役はシテ・友枝昭世、法皇・梅若六郎、脇・宝生閑、内侍・狩野了一、大納言・友枝雄人に地頭は粟谷菊生。お囃子方は笛・一噌仙幸、小鼓・北村治、大鼓・亀井忠雄(以上敬称略)という豪華な顔ぶれであった。出演者は異流共演とNHKの公開録画という二重のプレッシャーがあったが、さすが名うての方々でそれぞれが持ち前の芸を惜しみなく披露し、私も地謡に連なり貴重な充実感を味わうことができたことを喜んでいる。



よい舞台・引き締まった舞台とは、優れた作品と優れた役者が必須だ。能も同様、シテ一人がいくら優れていても、その周りが劣っていてはその作品はもとより、時にはシテの技量さえも落としてしまう危険がある。三役をはじめツレ・地謡までが選ばれた一流の演者でなければ良いものは成立しない。当たり前のことだが、役者が揃うということは大変なことなのである。今回は役者が揃った感で申し分ないと思っている。特に法皇に梅若六郎氏を迎えたことで、ツレや地謡にまでよい波及効果があり、適度な緊張感が生まれた。地頭の父菊生も、いつもより気負って謡っているのが前に座りながら感じられた。流儀という枠をはずし、演者同士が力を出し技を競い合う、いわゆる「立会い能」といわれるものが効を奏し、結果、能がいかにすばらしい芸能であるかを証明する一番になったと、能に携わる者として誇りを感じている。

梅若六郎氏の謡は単に美声というだけではない。存在そのもののエネルギーはもとより、芝居・劇の領域の要素を含んだ謡に説得力あり、同業者として羨ましい限りだ。判りやすく言えば、5%の声量で100%を越える力のある謡になるということ、そこが私には魅力でならない。この謡にふれると喜多流の者はもっと謡に注意をはらわなくてはと反省させられてしまう。

後白河法皇が似合う能楽師は少ない。以前中尊寺白山神社で「銕之亟の会」があり、故観世銕之亟氏が父菊生を法皇にと依頼されたが、その理由が「あんな悪いやつはいない、あの悪役をこなせるのは菊ちゃんしかいない」であった。選ばれた父は、いいものやらどうやら……と、苦笑いをしていたが、正直私はあの時の父はそれほど似合っていると思えなかった。その後、広島で能楽座があり、父がシテ、観世榮夫氏が法皇をやられたが、これは衝撃的だった。

以前、演能レポートにも書いたが、これはもう拝見していて、法皇その人が憎々しく思えてくる。強い謡で強烈な自己表現がなされ、とてもお似合だった。これを超える人はいないだろうと絶賛したが、今回の梅若六郎氏はそれに拮抗していた。ごつごつした感じとは別な、ぬるぬるとした様な、貫禄とスケールの大きさを感じさせる後白河だった。これはもう、好きか嫌いかという個人の趣向ということになるので、これ以上は書かないでおくが、いずれも9月17日の14:50からNHKでテレビ放映されるので、是非このあたりも注意してご覧いただければと思う。

能『小原御幸』(観世流は『大原御幸』)は平家物語の灌頂(かんじょう)の巻を基に詞章もそのまま取り入れられている謡の名曲である。灌頂とは本来は頭に水を灌ぐ密教の儀式であるが、中世芸能伝授の際、奥義秘伝を授けることを灌頂といって、平家琵琶の伝授から生じたものである。平家物語では最終段の女院(にょおいん・建礼門院)の鎮魂を書きこんだ最後の巻の題となっている。

『小原御幸』は謡の曲で、シテの動きはまったくないと言っていいくらい少ない。最後に重い習の語りがあり壇ノ浦の合戦の有様を謡う。地謡は前場、後場と通して、それぞれの段を謡い分けなければならず、特にロンギの段、曲の段、最後の「今ぞ知る」に続く段は難しく、それぞれ心にしみる謡いどころだ。通常、語りの後のシテの「今ぞ知る」に続く地謡の「御裳濯川の流れには、波の底にも都ありとはと」の段が頂点となるが、今回は語りの前にある「まず一門西海の波に浮き沈み」から始まる地謡の曲(クセ)の部分にピークをもっていった感がある。平家一門の都落ちから西国での戦い、地獄道の体験談を騒がしくならず、品よくシテの心に突き刺すように謡うのが地謡の使命、役割だと私は思っている。ここをうまく劇的に謡い観客に女院の人物像を強くイメージさせることが出来ると、続くシテの語りが浮き立つのだ。

当日観世座より配布されたパンフレットに「エロスと救済」と題して水原紫苑氏が、平家物語では建礼門院が自ら六道の有様を語るのに対して、能の方は法皇が問う形になっていると解説している。
平家物語を読むと、女院は文治元年5月1日京都長楽寺にて剃髪して、お布施がないため先帝の御直衣を納めている。この御直衣は今でも見ることができて、幼い安徳帝のお姿を容易に想像させてくれる。そして女院は9月に寂光院に入るが、能『正尊』のシテ・土佐坊昌俊が義経に文治元年九月と空起請文を書き留めた、まさにその時である。それから一年後の夏、女院が静かに余生を過ごしているところへ、後白河法皇は御幸し、女院自らが六道の沙汰を語ることになる。

能『小原御幸』は法皇が一方的に女院から六道の輪廻の述懐を聞く形としている。歓迎したくない者の訪問を受け入れなければならない弱者の立場の悲劇がこの能のテーマになっているのではないだろうか。法皇は「どうだったのだ? 詳しく聞かせてくれないか?」といやらしく、すでに仏道に帰依している女院の心にずかずかと入り込む。己の立場を利用し興味本位に惨劇の思い出を引きずり出そうと問いかけるところに法皇の非情さの魅力があり、逆に女院の哀れさも法皇があることにより、より鮮明に浮かび上がる仕組みになっている。だからこそ、この法皇の役が『小原御幸』という作品の出来をも左右する最も重要な役と考えられるのだ。

能はしばしば史実通りではなく、作者の工夫がなされていることがある。例えば『八島』でも戦況の進み具合が違っていたり、このシテ(女院)の語りも同様で、必ずしも史実通りではない。
語りの「そのときの有様申すにつけて恨めしや・・・・。」は、壇ノ浦の合戦で戦況が不利になったので、ひとまず筑紫に帰ろうとみんなで相談し、薩摩の方がよいという緒方の案になったのだが、緒方は寝返り、潮も急に変わり薩摩へ落ちることが出来なく・・・・と読み取れる。しかし実際、緒方三郎はもっと以前、清経が入水する前に平家を見限っていて、この詞章は史実通りではない。謡曲の詞章を鵜呑みにすると史実を誤解するという危険があるが、しかし謡曲というものは、あえて歴史通りに創作しない作者の工夫があり、それが作品を純化させている、そこに芸能の面白さがあるようだ。鎌倉幕府ご用達の吾妻鑑が平安から鎌倉へと移行する歴史資料としては現在筆頭とされているが、それでさえすべてが真実かというと疑問もある、これはもう藪の中だ。

能楽の演者は謡本に書かれている詞章を第一として、そこからいろいろなものを読み取り創造して舞台を勤める、その作業があるからこそ能楽師という仕事は面白いので、この作業なしで、無神経に謡い型付け通りに動いていれば、きっとつまらなくなって、飽きっぽい私はもうとうに職業を代えていたかもしれない。様々な参考資料、関連するものをヒントに、作品の読み込み作業を私は重視したい。となれば後白河はやはり能の世界では悪役であってほしい。御幸して女院の話を聞いて、慰安のやさしい言葉を発して帰っては劇としての面白みはなく、凄みも出ず陳腐な作品になってしまうのだ。

『小原御幸』は登場人物が多く、法皇をはじめ、ツレの阿波の内待は藤原信西の娘、大納言の局は重衡の妻であり、シテを含めこの四人は花帽子を着用する。この花帽子は頭を布で覆う出家を表現するもので、この暑い7月にこの役を勤めることは皆避けたく、苦痛そのもの、まさに炎熱地獄なのだ。今回の放映をご覧になられる時にどうかこのことを頭の隅っこに置いておいて頂きたい。特に二人のツレは長い時間座っていて、耐えに耐え作品を作り上げている、それが地謡座から痛いほど感じとれたのだ。皆の必死な勤めが良い舞台を創ったと重ねてここで言いたいのである。

能『小原御幸』は後白河法皇はもとより、これら法皇とゆかりのある人びとが揃い、それぞれの生き様がからみあうドラマ。史実とは一味違う形で作者が創り上げた傑作だ。

蛇足だが、今回、地謡で不思議な体験をした。タイムスリップして平家絵巻物語の中に入り込んで浮遊しているような妙な感覚、一瞬なのだが味わった。正直、これを書きたくて筆をとったようなものだが、暑さで頭をやられたかと言われたくないので、ここで筆を、いやキーを叩くのを止めることにする。(平成17年7月 記)
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