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小島誠様よりのご意見をいただいております。文末に掲載させていただきました。

粟谷 明生

 牛若丸(後の源義経)と西塔の武蔵坊弁慶の出会いの場といえば京都の五条大橋。昔は「京の五条の橋の上・・・」と小学唱歌で歌われたほど、国民的によく知られたお話です。豪傑弁慶が牛若と主従を結ぶことによって、後の義経の力を確固としたものにし、源平合戦の功労を支え、最後は頼朝との不和により追われる身をかばう立て役者になったことは、多くの人の知るところです。それだけに、牛若と弁慶との出会いは劇的でなければならず、それが五条大橋の立ち会いに結晶しているといえます。  今年の夏(平成14年8月4日)、山口県、野田神社での山口薪能で『橋弁慶』のシテ・弁慶を勤めました。この『橋弁慶』こそ、牛若・弁慶の五条大橋(実は現在の松原橋)での出会いを描いた作品です。子方の牛若は、息子の尚生(たかお)が勤めました。尚生は今年小学校六年生、そろそろ子方卒業の年ごろで、今回の舞台がおそらくシテと子方という配役では最後の親子共演となるだろうと思われます。野田神社には、昭和11年、旧長州藩主の毛利家が明治維新70周年を記念して建築、奉納した大変立派な能楽堂があります。そこで思い出になる舞台を勤めることができたことに今感謝しています。真夏の大変暑い日でしたが、薪を舞台よりやや遠くに炊くなど配慮していただいたこともあり、薪能独特のやりにくさ、煙や灰により演者の謡で声がむせんだり、装束が汚れるなどがなく、気持ちよく勤められました。薪の火が近いと演者には大変暑く、飛んでくる火の粉は能楽堂には危険でさえあるのです。
さて、『橋弁慶』という曲に戻ります。牛若と弁慶との劇的な出会いの場となった五条大橋。しかし、小学唱歌で歌われるお話と、能『橋弁慶』の内容には、多少のねじれ逆転現象があります。つまり、小学唱歌の方は『義経記』によるものと思われ、千本刀を集めようと刀狩りをする荒僧・弁慶が、あと一本で千本というときに牛若に出会い、打ち負かされ、これほど強い相手ならばと家来になり、主従関係を結ぶというものですが、能『橋弁慶』は、千人辻斬りをしている悪逆無道の牛若を、五条大橋辺りで成敗してやろうと、弁慶が出かけていくという立場が違う話になっています。アイ狂言が牛若に斬られそうになって、怖い怖いと逃げ惑う場面は、観客のそれまで判官贔屓として描いていた牛若像とはまったく違い、少し戸惑う場面ですが、狂言方の演ずる気弱な都の者が普通の間(アイ)の科白ではなく、狂言調で通すところはなかなか面白く、『夜討曽我』の間、大籐内(おおとうない)に似て理屈抜きで楽しめるところです。
では本当の歴史はどうだったのか。まず牛若の経歴をたどってみます。平治の乱で父の義朝が敗北し、母・常磐御前は三人の子供を連れ大和国に逃れますが、平家方に捕らわれ、清盛の取り調べを受けます。常磐の美貌や周りの助命嘆願により牛若は幼少(生まれたばかり)であることから、命は助けられ、鞍馬寺の覚日阿闍梨に預けられることになります。常磐御前は平家の稚児に笑われないようにと、牛若の好みに任せて唐絹を山鳩色に染めさせ直垂袴など贈らせたとの記載もあり、七歳の春には、母に暇を乞い、具足、刀、笛などを餞別に得て鞍馬に登山しています。しかし牛若は平家の稚児達と一騒動を起こし、別当の押さえや常磐の諫めで一応おさまるもののさまざまな事件を起こし、とかく暴れん坊の問題児だったようです。
十一歳ごろ牛若は沙那王と呼ばれ、僧正ヶ谷に通って大天狗に兵法を学んだといわれています。この話は能『鞍馬天狗』にもなっていますが、天狗に象徴される強い力が、平家討伐のために牛若に力添えを約束するというものです。天狗とは実は源氏の残党ではないかといわれ、鞍馬山に源氏の御曹司がいるなら、彼を育て、源氏再興をと密談していたのではないでしょうか。幼い牛若に平家の横暴や義朝の非業の死、源氏再興の願いなどを話し、源氏の無念を晴らすのだと教育したものと思われます。現に牛若は天狗に会ってからは学問そっちのけ、剣術ばかりに打ち込んで、ますます暴れん坊に磨きをかけていきます。
天狗の教育が利いてか、牛若は十五歳になると、父の孝養のために千人辻斬りの願を立てます。非業の死をとげた父の無念を晴らすためといわれています。千人斬りの相手は恨みある平家方の武士だけではなく一般町民にも及んだようです。それにしても千人とは大変な願だったと思われます。
このように見ると、歴史的には能『橋弁慶』が描くように、牛若の千人斬りのほうが信憑性があるように思えてきました。この作品が出来た当時の人たちも、このことは当然のこととして知っていて能として創作されたのではないかと思われるのです。義経が主人公の『義経記』では、極悪非道、暴れん坊の肩書きが牛若には不似合いなので、悪として千本刀狩りをする弁慶像をこしらえたのではないでしょうか。判官贔屓の日本人の体質に合わせ、義経の伝説はときに美化されている節があります。

実際 美男子と思われていた義経はそれほどでもなかったようで、平家物語では背が低く小柄で出っ歯の醜男と書かれ、また性格も梶原景時が義経の奇襲戦法の卑劣さ、身勝手さを頼朝に注進するほどで、戦法的にも問題はあったようです。例えば、壇ノ浦の戦で舟戦では船子に向かい矢を放つなど、当時はタブーとされていたことを平気で命令し勝利する、そんな傲慢な性格は幼少時代より持っていたのではないでしょうか。
また、吉次と奥州へ向かう途中、今の蹴上(地名・けあげ)にて平家の武士の乗る馬のはねた水が首途に水を差したと怒り、九人を忽ち切り倒す事件も起こしています。そういう気性の義経であれば、十五歳の千人斬りの願も、まんざらうそとも思えず、うなずけます。
しかし能をご覧になる時は、実際の歴史がどうであったかなどは、さほど問題ではないかもしれません。世阿弥が美少年で活躍した時代を考え合わせれば、かわいい美少年が舞台に出て、立ち居ふるまいが美しく、豪壮な弁慶の薙刀さばきと、それに立ち向かう華麗な牛若の太刀さばきが見られれば拍手喝采で、舞台とはそれでいいのでしょう。子方というヒーローと大人の弁慶のからみの妙味、すがすがしさを見ていただければよいと思います。小品でもある『橋弁慶』、それはそれでよいのですが、息子と一緒に勤める機会に恵まれ、少し調べてみて、能で描かれている牛若の千人斬りが実は事実らしい、父の孝養のため、源の家の人間としての憂さ晴らしとしてあり得ただろうと自分なりに納得できたのが面白い発見でした。
私自身、子方(牛若)のときに後場の一声で、「さても牛若は、母の仰せの重ければ、明けなば寺へ登るべし。今宵ばかりの名残りぞと、川波添えてたちまちに、月の光を待つべしと」と謡うところは当然意味も解らず、大きな声で朗々と勤めてきましたが、今回、息子に謡を教えながら、これはどういう意味だろうかと疑問が出てきました。詞章を読む限りでは、母の仰せが何であるか、夜が明けたら何故寺へ登るのかなど、理解できず、この子方の唐突な謡の持つ意味や重要性に気が付きませんでした。
これは観世流にしかない小書「笛の巻」にふれなくては解決できません。「笛の巻」では、通常の前場と様相がガラリと変わり、前シテが常磐御前、ワキが羽田秋長となり、ワキが牛若の千人斬りを常磐御前に伝えます。常磐御前は牛若を呼び、涙を流して悲しみ、弘法大師伝来の笛を渡して牛若を諭します。牛若は母の仰せに従い、明日にも寺へ登って学問に励むと約束して、今宵ばかりは名残の月を眺めて来ると出かけます。しかし実際には五条で月を見ると言いながらも、謡では「通る人をぞ待ちにける」と、最後の相手を待ち望んでもいるようで、後場の弁慶との出会いにつながっていくわけです。これが重い母の仰せです。
小書がない喜多流では、ワキは登場せず、前場でまずシテ・弁慶が出て、名乗ります。「さても我宿願の子細有るにより」と語り、北野へ、一・七日(七日間)丑の時詣で、今夜より十禅寺に向かうと述べます。この弁慶の宿願とは何であろうか。能『橋弁慶』が『義経記』によらないものとすれば「千本刀狩り」の願とは考えにくい、では何であろうか。そして十禅寺に向かうのはなぜか。観世流は五条天神に向かうとなっているので、こちらならわかるのですが、十禅寺となると不明です。未だ解明できないままこのレポートにとりかかっています。どなたかのご指導を仰ぎたいと思っています。
 また能では、二人は五条大橋で出会い、その場で主従関係を結ぶことになっていますが、『義経記』では、弁慶が五条大橋で一度負けて逃げ延び、翌日、清水坂で再会して、そのとき完全に打ちのめされて家来になります。能ではこの二回の戦闘場面を一場面に集約して表現します。「さしもの弁慶合はせかねて、橋桁を二、三 間退って(しさって)、膽(きも)を消したりけり」と、シテは橋掛りで膝を打ち、悔しがります。斬り込みが一段落し、その後にもう一度、「薙刀柄長く追っ取り延べて・・・」とかかっていく形になっていますが、これはもしかしたら、前段を五条大橋の場面、後段を清水坂の戦いと、二日間の戦闘を意識したものではと私は思います。
最後は、弁慶が降参して主従の関係を結び、牛若は弁慶を従え、「九條の御所へぞ参りける」で留めとなります。この九条の御所とは何を意味するのでしょう。九條の御所とは、常磐御前つまり母の住む御所を指しています。九條というのは常磐御前が義朝の妻になる前に、近衛天皇の皇后・九條院の女官をしていたことからはじまり、九條は常磐御前の代名詞のよう使われているのです。六条御息所が居所が変わっても、六条と言われたのと同じです。ですから、この曲の最後は、こんな豪壮の者を家来にして意気揚々と、母・常磐御前に報告に行ったことを暗示しています。しかし、暴れん坊の牛若を心配し、学問に専念してほしいと願った母・常磐は果たしてこの出来事を喜んだかどうか・・・。疑問です。
さて、弁慶を勤めるに当たって、面、装束をどうするか。型付には、前シテは直面、後シテは長霊ベシミ又は直面とあります。『橋弁慶』は現在物で前シテと後シテは同一人物、後が亡霊になるわけではないので、前が直面で後に面をつけるのはいかがなものかと思い、両方とも直面で勤めました。後の面「長霊ベシミ」を、兜についている顔当ての心持ちのように書き物にありますが、私はどうも不自然に感じしっくりしません。最近では、高林呻二氏が伝書通り後に長霊ベシミをかけて長範頭巾で勤められましたが、私は直面で勤めました。
伝書に、長霊ベシミ、長範頭巾とありますが、「面つけないときは衆徒頭巾の心なり」とあります。衆徒というのは叡山(比叡山)の僧兵のことで、衆徒頭巾は叡山の頭巾のこと、つまり袈裟頭巾です。今回は直面に袈裟頭巾の選択で勤めました。
もう一つ気になるところは前場の初同(地謡が最初に同吟するところ)です。「神変不思議奇特なる、化生の者に寄せ合はせ・・・」では、通常、シカケ・ヒラキの型付ですが、地謡が謡うところとはいえ、五条方面に行くと牛若という強い者がいて危険だから行かないでください、都が広いといってもこれほどの者はありませんという、太刀持ちの言葉に合わせてシテがシカケ、ヒラキをするのはそぐわないという意見もあり、私も今回は大袈裟なシカケ・ヒラキを控えてみました。
それにしても、勤めてみて弁慶という役を演じることの難しさを感じました。『橋弁慶』は小品ですが、そこにはどっしりとした弁慶像が浮かび上がらなくてはいけません。しかしあまり重々しくなり過ぎても、この能の妙味が損なわれます。淡々としてこの曲の弁慶らしさが出せればよいのですが、それはなかなか至難の技。ある年齢を重ねる必要があると思う一方で、あまり歳の弁慶が登場してはこれまたおかしく思えます。淡泊過ぎても、やり過ぎてもいけない良い加減とは? 弁慶らしく勇壮で重厚感がなければいけないが、お能の枠組からはみ出してもいけない・・・。『安宅』での弁慶でも感じた、能の世界ぎりぎり限界での演技、その難しさを、今回も充分感じました。最近耳に残る「人は一度味噌臭くなれ」の言葉が脳裏をかすめ、一度やれるだけやってみようと今回は非難を覚悟で臨んでみました。結果には多々あり、それだけ難しいことを再確認しています。
『橋弁慶』のシテは弁慶ですが、子方の牛若の役も重要で、シテに匹敵するほどの役どころです。尚生は六月の喜多流の自主公演で、シテ・粟谷能夫と『橋弁慶』に出る機会がありました。それで、能夫にせっかくのチャンスだから、親子で共演できる機会を持ったらということで、一年半前から話が進み、今回の舞台が実現しました。
子方の稽古は、子方の指導者が、理屈抜きにここではこのようにと型を教え込み、子方も繰り返し覚えていくもので、シテとは申合せ一回で舞台に臨むというのが通例です。そのため指導者が教えたことと、シテの型が違っていたりして、子方はかわいそうに面食らうこともあるのです。六月の自主公演のときは、能夫が「こういう曲は稽古のときから子方とやって、一緒に舞台を創っていくのがいい」と言い、何度も稽古をさせてもらいました。「一緒に創りながら覚えていく」、このような稽古ができたのがとてもよかったと思います。自主公演では私は地謡を謡い、子方の指導も私の役割だったので、シテとの稽古のときから参加して、まさに創りあげていく体験を三人でできたことを私は喜んでいます。
特にこの曲は、シテと子方の斬り込みが一番の見どころで、そこはやはり一人では稽古しにくいところです。相手が攻めてくるから受け、引けばこちらが攻めるという呼吸が大事ですから、相手あっての稽古が重要なのです。
 斬り込みでは、互いの刀を触れず、合わせる寸前のところで止める勢いと気迫が大事と教わってきました。弁慶の薙刀も牛若の刀も竹光ですから、もし触れたら、そこには鈍い木材の音が聞こえ、金属のような鋭い音はしませんので、やはり触れずに表現する、これが第一の鉄則でしょう。能夫との稽古のときも、尚生は「ただ太刀を振るだけではなく、薙刀と当たるギリギリのところでしっかりと止められるように力を込めて」と注意を受けていました。細かい指導のおかげで、能夫のときも私のときも、子方として気迫のこもった斬り込みができたと思います。
尚生は子方の最後が近づいています。能夫と丁寧に稽古を重ねることができ、二度目の今回の舞台は暑い中ではありましたが、適度な緊張と余裕を持って無事勤めることができました。揚げ幕が降り、鏡の間で尚生と終演の挨拶をしたとき、私はこの子の役者としての一つのページがめくれ、今まさに一つの時代が変わろうとしていると感じ、少し寂しいような、また嬉しいような不思議な気持ちになりました。我が子を見ながら、共演の喜びと共に時間の過ぎ去る早さを痛感し、私にとっても尚生にとっても、良い思い出の舞台となったと、心に刻んでおきたいと思いました。 

(平成14年8月 記)

橋弁慶 シテ 粟谷明生 撮影 野田神社
橋弁慶 シテ 粟谷能夫 撮影 あびこ


私も今回、みちのく明生会で橋弁慶を謡い、この能に対する興味が湧いてきたところでした。先生の演能レポートを読み、大変興味深く拝見したのですが、弁慶に関する点については私も少し考えたところがありましたので、以下、私なりに頭の整理を兼ねて書き出してみようと思います。あくまでも仮説ですので、史実誤認等ありましたらお許し下さい

まず、この能には、登場人物からすると当たり前ですが、実は一言も書かれていない主題として、打倒平氏という主題があると思います。牛若の母常盤御前は、平治の乱で義朝が殺された後も、平清盛の寵を受け、かつその側近と再婚したと言われています。従って、母常盤の美貌ゆえ命を救われたとはいえ、父義朝の仇である平家方から生活の保証を受けていた牛若は、自身の置かれた立場の矛盾に悩み、その発露として千人斬りという異常とも思える行為に駆り立てられた、と考えることができます。「義経記」と異なり、牛若が千人斬りをしているという状況は、より彼の苦悩を際立たせているのではないでしょうか。

一方、この能のシテである弁慶の装束が直面の場合「衆徒頭巾」であること、「宿願の仔細」があって「十禅寺」へ向かうことは、彼が天台宗、叡山の僧兵であることを象徴していると考えます。当時の叡山は、必ずしも常に平氏と敵対していたわけではないのですが、強力な院政を敷いた白河法皇ですら手を焼いた言われるほどの、一大反権力勢力だったわけです。平家物語巻一には、鹿ヶ谷の陰謀が発覚するなど、物語の全ての始まりである治承元年(1177)、叡山の天台座主である明雲僧正が法皇の不興を買い罷免されるという事件があったとき、宗徒が「十禅寺」へ集まり会議を開いた、とあります。

弁慶がいかなる目的で「十禅寺」へ向かったのか、「宿願の仔細」はどのような内容なのか、答えはここに隠されているような気がします。叡山と京を結ぶ線の中間の山科にある十禅寺は、いかにも衆徒が集まって鹿ケ谷のような打倒平氏の密談をしていそうな場所、というイメージを喚起させる単語として使われているものとも想像できます。(十禅寺近辺の地図)作者はおそらく、登場人物に直接的に打倒平氏を語らせるのではなく、弁慶が反権力側の人間である象徴として「衆徒頭巾」「十禅寺」という記号を効果的に配しているのではないでしょうか。

こうして考えてくると、ロンギの部分で結ばれる主従の「契約」が、いかなる性質のものであったのかが良く理解できます。源氏の残党ではない衆徒弁慶と、まだあどけない牛若が、打倒平氏という共通の目的を持っていることを悟り、固い絆で結ばれるというストーリーは、平家物語に登場する「十禅寺」「衆徒頭巾」という記号を介してこそ、室町時代の観客に自然な形で受け入れられたのではないかと考えます。

小島 誠(2002.9.17記)

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