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広島県廿日市市のさくらホール主催の能公演を能楽座で承り、ぜひ能らしいものをという要望でしたので『小原御幸』を新年早々の1月13日に公演いたしました。シテの建礼門院は父・粟谷菊生、法皇は観世栄夫氏という異流共演、私は地謡を勤めました。
 父はこのところ、足に痛みがあるようで、幽玄な女物の演能はやめていました。父が若い女を演じるときは、面は必ず井関河内の小面が決まりで、この面は当家のものではありますが、誰も使わぬというルールが自然と生まれているぐらい、あの面に対しての父の愛着は絶大です。父の毎度の言葉、他の面を使おうとすると「浮気しちゃダメよ」と言われそうでね、というわけで60年来愛用してきたこの小面、実は3年ぐらい前に、もう女物はやらないだろうというので修理し、お蔵でお休みされていたのです。今回、父はこの小面に当て物(裏面に面のウケが良くなるようにつける添え物)をつけ、つくづくと眺め、「もう二度とつけることはないと思ったが、再会したなあ」とつぶやいて、感慨深げでした。
父は七十九歳、今年には八十歳になろうというのに、あの沢山の謡の文句を一つも間違えることなく勤めました。肉体そのものは若き建礼門院とは遠いはずですが、寂寥の中に凛とした風情と品格、まぎれもなく、そこに建礼門院が浮かび上がっている、寂光院『小原御幸』の世界がつくり上げられていると、父の役者としての偉大な力を感じてしまいました。
今回、観世栄夫氏が引き受けてくださった法皇役は、シテと対座する大変難しい役どころです。この役をこなせる能楽師は極めて少ないというこの言葉に異論をとなえる関係者はまずいないと思われるほど、この役のはまり役は限られた人なのです。前に先代観世銕之亟静雪先生が中尊寺白山神社で『小原御幸』をなさったとき、法皇は是非粟谷菊生さんで「後白河は菊ちゃんでなければだめ」とおっしゃられて、父が勤め異流共演となったことを思い出しますが、この法皇がはまり役になるかならないか、役者としての気持ちはなかなか微妙なものがあるのです。
それは法皇という人となりに関連します。つまり後白河法皇は建礼門院の舅に当たります。建礼門院は平清盛の娘・徳子ですが、後白河法皇の息子の高倉天皇の中宮になり、後に安徳天皇となる皇子をもうけます。しかし平家の栄華はつかの間。壇ノ浦の戦いで一門の者はほとんどが死に、子の安徳天皇も二位殿(清盛の妻)と共に海に沈みます。自らも続いて入水しますが、源氏の武士に助けられ都に連れ戻されてしまいます。その後は、一門の人々や安徳天皇を弔うために、尼となって大原寂光院に幽居します。後白河法皇はといえば平家と縁戚関係を結び、時の権力に取り入っておきながら、源氏が巻き返してくるや、平家追討の院宣を出し、平家を滅亡へと追い込んでいく、大変な策士です。孫となる安徳天皇を見殺しにすることさえ厭わなかった人です。
そんな後白河法皇が、建礼門院が侘び住まいする寂光院を訪ねるのですから、建礼門院の心中はいかばかりだったでしょう。しかも、建礼門院の姿を見るやいなや、壇ノ浦で生きながらにして見た六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の世界を語って聞かせよ、先帝・安徳天皇の最期を物語せよと迫る残忍さです。今は完全に弱者の立場である建礼門院は問われるままに、その有様を語りますが、静けさ、諦念の中にも、一瞬炎が燃え立ったのではないでしょうか。後白河法皇と建礼門院の間の緊張感、鬼気迫る場面です。ここを単に、幽居する嫁を慰めるために法皇がおしのびでやって来たと見るだけでは、『小原御幸』のすごさは理解できないわけです。
ですから、この後白河法皇という、策士であり、片や今様に凝って喉をつぶすほどの遊び人、聞かれたくない六道の様をほじくり出す神経の持ち主、この大変な悪役を演じるには、役者としてのスケールの大きさが必要です。それに直面という難しさもあります。ある貫禄をもった役者が法皇を演じるのでなければ、『小原御幸』は成り立たないのです。
今回の舞台について、父が「こんなにいい法皇はないなあ」と栄夫氏を讚えたところ、「悪役だからだろ」とかわしておられたそうですが、観世栄夫氏という法皇役者のすばらしさをつくづくと感じさせられました。七十九歳と七十四歳、朋友二人の意気のあった熱演を見ることができ、よい舞台になったと思いました。
大納言の局は若い大島輝久君、阿波の内侍は内田成信君が勤めました。二人とも異流共演という緊張の中で、よい謡を聞かせてくれました。特に内田君はこの役は二回目、初めてでは固くなるところを、二回目という余裕が見られ、かといって慣れず、異流の大先輩のお相手をするという緊張感でよい味を出してくれました。この役は花帽子をかぶり、ほとんど呼吸しにくい状態(これはシテも大納言も同じ)でずっと座り続けるつらい役ですが、立派によく勤められたと思います。彼の父・安信氏が昔はこの役のはまり役者で長い間やっておられましたので、ここにきっちりと継承されているなと感じました。
地謡は地頭が粟谷能夫、副地頭が出雲康雅氏で、私は能夫の隣、後列の端に座りました。父は私に『小原御幸』の地謡についてこんなことを教えてくれました。「観世流の地謡は、きれいな絵巻物のように美しく謡うが、喜多流のそれは、ただきれいというのではない、描かれているものがぐにゅぐにゅ動き始めるように謡うのだ」と。絵巻物の中にある炎が燃え立つように、劇的に謡ってこそ喜多流としての『小原御幸』が成り立つのでしょう。前半はしっとりした感じですが、後半の曲(クセ)の部分、後白河法皇に問われて六道の様を語る当たりはやや激した謡い方になります。そして最後、先帝の入水する様を語るシテの長い語りとクドキの後、地謡の「御裳濯川(みもすそがわ)の流れには、波の底にも都ありとはと・・・」は、ぐんとテンションが上り、音も甲高くなり大合唱となります。今回もこれまで肌で感じてきた父の謡い方を継承して、そのように謡おうと、地頭能夫を軸として皆懸命に謡いました。
『小原御幸』という曲は、一曲の中に舞が入らない珍しい曲です。室町時代には演能記録が見当たらず、初めは謡い物としてつくられたのではないかといわれています。舞がなくとも能が成立するということは、『小原御幸』全体が、強い訴えかけのある謡で占められているということです。謡が重要な『小原御幸』、これをいかに謡うか。私自身は中学・高校までは大曲のため、『小原御幸』の舞台には上がれませんでした。二十歳近くなり、伯父新太郎や友枝喜久夫先生の建礼門院を聴き、父の地頭の声を背中で聞き謡い、最近では研究公演で能夫が勤めたときに、初めて後列で地謡を謡わせてもらいました。『小原御幸』を数多く謡う機会があったこと、自分なりにさぐっておいたこと、謡い込んでこそ、建礼門院の悲しさや後白河法皇の怖さがわかってくるのです。名文に酔い、節使いに胸が高鳴り、心が張りつめてくる、こんなことを経験しながら、最近は謡の魔力に取り憑かれているみたいです。
終演し、やや放心状態、長い曲で謡い手も大変、役者もあの花帽子で苦しく大変だったとはいえ、父が元気で得意な謡を聴かせてくれ、しまい込んであったあの大好きな井関の小面をかけられて良かったと思うばかりでした。

面 河内堰 撮影 粟谷明生

(平成14年2月 記)

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