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 SPAC能楽特別鑑賞講座(平成12年2月26日)の『頼政』では、父の体調が突如悪くなり私が急遽代演する事となりました。急な代演というのは、技術面(謡=言葉、型=動き)の心配もさることながら、曲に取り組む心の準備に時間がないため不安が付きまといます。あわただしく舞台に向かう中、繰り返し謡や型の確認をし、その短い時間で集中して、どう演ずるかを見つけださなくてはなりません。

しかし当日の観客は予定されていた演者を期待し、代演者では少なからず失望しています。その負の要素を背負って舞台に立つことは、どんなに心を込め精一杯勤めていてもやりづらいものがあります。

今回の『頼政』は静岡県舞台芸術公園内、楕円堂という小さな円形劇場で現代劇、小劇場用の空間で行われました。壁、柱も黒いうえに照明が暗く、ほとんど真っ暗な中、シテやワキにスポットライトが当たり、演者が浮かび上がるような演出でした。(通常能の世界ではスポット照明は使用しません。これは面の中に光が入ると演者の目が見えなくなる為です)。
 
もちろん橋掛りも四本柱(舞台を支えている笛柱、ワキ柱、シテ柱、目付柱の四本)もありません。最初この舞台を見て驚きましたが、それよりも増して、プロデユースをなさっている観世栄夫先生に「いったい、どこから舞台に出て、どのようにワキに呼びかけたらよいのですか」とお聞きすると、「ここは扉が沢山あるから、どこからでも好きなところを開けて出てよ」とのお返事で、尚仰天してしまいました。

常の寸法(普通の能舞台は三間四方)ではない変形の狭く暗い舞台は、面をつけて演ずる側にとって、全くいい条件とは言えず演じにくい難しい空間です。

しかし、観る人の意識や息づかいなどが、直に伝わってきて、舞台と客席が一体となる小劇場ならではの魅力はこういうことか、とわかる気がしました。全体の舞台効果について、地謡の人達から、いつもと違う空間の面白さがあった、能舞台でないところでそれなりに充分成立していたと聞き、表現方法にはいろいろな可能性があることを、再発見できました。

  『頼政』を勤めるに当たって、初演に出来なかったことを思い出しました。後シテの頼政が宇治川の橋合戦の模様を再現する場面は、地謡が宇治川の急流を謡いあげる中、決められた型をしっかり演ずれば、よい見せ場となりますが、難しいのは、前シテの老人がワキの旅僧に名所教えをする前半部分です。

ワキの「名所旧跡を教え侯へ」に対して、シテは「卑しき宇治の里人なれば〜」名所旧跡など知らないと、ひねくれた答え方をします。そのうち喜撰法師の庵はどこか、槇の島、小島が崎はどこかと次々と聞かれていくうち、平等院のことをなかなか聞いてくれないことに苛立ちはじめます。そしてついに自分の方から、宇治の名所といえば平等院ではないかといって案内し、頼政が自害した扇の芝の説明を始めます。この何でもないようなやりとりの中に、頼政の思い通りにいかなかった一生や、この世への執心が象徴的に表現されなくてはつまらないと思います。

頼政の辞世の句は「埋もれ木の、花咲くこともなかりしに、身のなる果ては、あわれなりけり」です。平治の乱では源氏でありながら、平清盛につき、源氏方の滅亡を見ながら、生き延びるという複雑な立場でした。それ故か武勲を積んでも思ったように認められずなかなか昇殿を許されない不遇、以仁王(もちひとおう)に謀反を勧め、諸国に散らばる源氏に平家追討の令旨(りょうじ=王、皇族の出す命令)を発しさせ、共に挙兵するが、直ぐに亡ぼされ、自らも平等院で自害する不運、これだけのことを見ても辞世の句の通りの生涯です。自分の人生へのやりきれなさ、もどかしさ、鬱屈した情念、それがこの世への激しい執心となって成仏出来ずにいます。そういう頼政を思うと前半の名所教えの苛立ちも解っていただけると思います。

「何故自分が一番聞いてほしい平等院を聞かないのか」という焦れ(じれ)を大袈裟にならず、しかし観る人にほんのりとわかるように表現できたらと思うのです。

そして七十五歳とも七十七歳ともいわれる老人が何故以仁王を唆し(そそのかし)挙兵したか。不遇の身をかこちながらこれまでじっと耐えてきたのですから、本来なら動かぬはずです。しかし事を起こしてしまったのは、息子仲綱が平宗盛に、はずかしめを受けたからです。宗盛は仲綱の愛馬「木の下(このした)」を所望しますが、仲綱は断ってしまいます。父頼政はこれを聞き仲綱をなだめ愛馬をさし出させますが、時既に遅く、わがまま宗盛は「木の下」の尾とたてがみを切り、尻に「仲綱」の焼き印を押して放ってきます。戻ってきた愛馬の哀れな姿が、頼政にはきっと自分自身にもまた源氏一統にも見えたのではないでしょうか、遂に自らの怒りの心に火をつけてしまいます。能ではこの馬の話しからを間(アイ)狂言が語ります。

私はここを聞くのが好きで、地謡の時先人の上手い語りに心ときめかせたものです。今これを後シテで演じる心の高ぶりや怒りの基盤にしています。それにしても子供の喧嘩に親がでるのは愚かということになりますが、親になってみるとこの気持ちがわからないでもなく、ちょっと考えてしまうところです。我慢を積んでいる人にとって、自分より身内や家名をけがされたことが発火点になることはよくあることで、頼政も武門の恥をそそがんと奮い立つわけです。しかしこの事件は引き金であって、謀反の原因のすべてでないことは明らかです。今までたまりにたまった頼政の感情の爆発なのです。

もとよりこの反乱、清盛に漏れ知られ、情勢はたちまち不利となり無念の最後となります。この数々の鬱積した不運を頼政という人間像につつみこんで演ずるのが、能『頼政』です。
  『頼政』の面は[頼政]という専用面(その曲にのみ使用する)を使います。専用面があるものは他に『景清』『鬼界島』『山姥』『弱法師』『蝉丸』『一角仙人』『猩々』でこれらの曲を一面物といいます。その面でなければならない強い特徴があり、[頼政]は目に金属が工作されていて、この世の人ではない、修羅の巷での強い怨念を表した面といえます。ですから後シテ(頼政の霊)は老人といえども、老人らしくとは演じず、只ひたすら強く強くと演じるのが心得となっています。

修羅能でシテが老人であるのは『実盛』と『頼政』の二曲だけですが、実盛が六十数歳で写実的老体の演技を求められるのと対照に、頼政は七十七歳でありながら年齢を超越した強い執心を描いたところに作者世阿弥の思いがあるようです。成功者『頼朝』では、世阿弥も描かなかったでしょう。能の世界ではこの世に強い思いが残っている者を選んでいます。その選ばれた人々を演じ思いを伝えることが能楽師の喜びではないでしょうか。

2000/4/24 記

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