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粟谷明生

 平成十一年春の粟谷能の会で『安宅』を披かせていただきました。息子(尚生)と『隅田川』をはじめ『安宅』や『望月』を勤めることは私の夢でもあり、その夢の一つずつがかなっていくことは無上の喜びです。
 今回『安宅』を演じるに当たっていくつか気になったことがありました。一つは四十三歳という自分の肉体が弁慶になり得るかです。歴史的にはおそらく都落ちしてゆく弁慶の歳は四十代前半ぐらい(義経は二十九歳)ですから、ちょうど今の私に合っているのでしょうが、能の舞台として考えると、この年齢は少し不安です。それは『安宅』のような直面ものには演じる役者が醸し出す味わい、風格というものが非常に大きなウエイトをしめるからです。

シテ方は面をつけることで、その役に入りますが、その面の力に助けられることが大きいのです。たとえば老人を演じるにしても、身体や声が少々若くても、尉の面をつければ、不思議にそれなりに見えてきます。面には偉大な力があります。しかし直面ではその力を借りることができません。身体から発する力をもとに風格を添え、自分の顔自体も面だという意識が必要になってきます。
役者は舞台でその生き方が滲んで見えてくるようでなくてはと解っているのですが、粟谷明生という人間の武蔵坊弁慶を安心して見ていただけるようになるには、まだまだ時間がかかることで、これはなかなか難しいことです。

能『安宅』は弁慶の思慮と沈着な行動がいかに主君の危機を免れさせたが主題です。構成は能本来の要素(謡と舞)と芝居(劇)的要素を取り混ぜた形になっています。その芝居的な部分をいかにこなすかが、大きな関門でした。

『安宅』は形式的には中入りのない一段でできていますが、都から安宅の湊までの道行と関所手前の作戦会議までの一場、関所におけるワキとの問答から、最後の勤行、勧進帳の読上、主君打擲と実力行使にて通過を成し遂げる見せ場の二場、関所通過後の休憩、関守の来訪、酒宴饗応と遊舞、一行の逃走の三場と、それぞれ場所を別にした三場構成となっています。能の定型の一場と三場の間に台詞を中心とした劇的な色彩の強い二場が入っているとみてよいでしょう。

私が苦心したのは第二場の言葉が多い部分、歌舞的要素の無いところでした。ワキとの問答、勧進帳を読み上げるくだり、ワキとの激しい型どころはややもすると、やりすぎのお芝居になってしまったり、また逆に演者の自己満足に留まり、何も観客に伝わらないことになりがちです。

謡本をただ読み上げるだけでなく、いかに劇としての真実味ある台詞を謡えるかが重要です。勧進帳の謡は難しい節扱いや拍子当たりだけに気を取られていたのでは駄目ですし、あまり感情が入りすぎるのも、また劇のレベルに達していないのも考えものです。ワキとの問答も台詞の中に運び、音の高低、張り押さえ、詰め開きを入れ、問答の緊張感を聞いてもらわなくてはいけません。

能の世界でできうる限りの表現をしながら、お芝居にならぬギリギリの境界線の内側で感情の起伏を観客に伝えることがカギとなります。境界線を越えてしまえば能ではなくなり、歌舞伎座や他の劇場で演ずるものと何ら変わらないものになってしまいます。勧進帳という名で歌舞伎のほうが一般に知られていますが、歌舞伎より前に生まれそのルーツとなった『安宅』。能本来のもっている味わいがあるはずですから、それを大事にして演じたいと思いました。 

最後に、これは子方のころから不審に思っていたことですが、「一行はどうして通れたのだろうか」「なぜまた関守がやって来たのか」ということです。このことを自分なりに整理し、舞台作りに生かしたいと考えました。

私の考えている富樫像は山伏を容赦なく殺す冷徹で、単に役目に忠実な地方役人というものです。ワキとの問答の末、最後の呪詛の行に入り、「明王の照覧計りがとう、熊野権現の御罰と当たらん事」(不動明王がご覧になってどうお思いになるか、熊野権現の御罰は当然)と凄みますが、富樫はここで山伏を殺したことの恐ろしさを感じ「問答無益、一人も通し申さじ」と頑なだった態度を換え、勧進のために通るなら勧進帳があるはず、それを読むようにと軟化します。中世の宗教観で、山伏という修験僧をむやみに殺すことは神仏の罰が当たることだと感じ、目の前の山伏の迫力にも気圧されたのでしょう。勧進の責任者・俊乗坊重源の後ろにある仏や朝廷の存在も恐れたはずです。

一旦は通すことになりながら、強力が義経に似ていると呼び止められると、弁慶は「強力を止め笈に目をかけ給うは盗人ぞ」と逆にいいがかりをつけ、武力をもって富樫を圧倒し押し通ってしまいます。通れたのは決して富樫の情けなどではなかったと、私は思うのです。また、「最善は聊爾を申し」と非礼を詫び酒を持参するのも、当時の宗教心厚い中世社会では当然の風習であったでしょう。

今回は、このような解釈で演じたいと思い、ワキ、ツレの人たちに、富樫像や、通り抜けたのは山伏の武力や迫力であること、当時の宗教観などを説明し、協力をお願いしました。全員殺されるかもしれないが何としても通るぞという意志と緊張感を、最後まで立衆各自に貫いていてもらいたかったのです。

今自分を振り返ってみるに、諸先輩の『安宅』の子方を経験し、高校生で初めて立衆に参加して大人の仲間入りができ、最近では父菊生の主立衆を数回、そして今回シテをやらせていただいたことは大変幸せだったと思います。長い月日をかけ、いろいろな立場で演じながら、その時その時に思ったこと、感じたことが自分の中でたくさん沈殿していることに気づかされました。『安宅』はそれらの蓄積の大切さを感じさせられた一曲でした。一つの舞台の作成に今までの経験が生かされて良かったと思います。

(平成十一年三月)

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