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『野守』を舞って

16年3月24日、囃子科協議会にて『野守』の舞囃子を勤めました。
「囃子科協議会に呼ばれたら一人前だ」と父がよく口にしていました。
つい先日、観世流の野村四郎先生とお話した時も、やはり同じように仰っていたのを思い出します。昔は初めて囃子科協議会に出演依頼されたら後は祝杯をあげていたと聞いています。それほどシテ方には名誉なことなのです。

この会は、以前は年4回第三水曜日の夜の公演と決まっていましたが、最近は昼間の公演もあります。囃子科協議会は流儀の違う舞囃子が3,4番と狂言一番、そして一調があるときもありますが、最後に能が一番という番組です。出演依頼については、父のツレは別にして、初めて個人的に依頼を受けたのが平成8年、ちょうど40歳の時で『御裳濯』(みもすそ)の舞囃子でした。次に平成12年『女郎花』の舞囃子、今回は3回目となりました。

喜多流では『野守』の仕舞は位が高く難しいものとされていて、先代宗家喜多実先生は中、高校生の時分では手がけることをお許しになりませんでした。当時どうしてなのか疑問を抱いていましたが、その理由は能を勤めて判った次第です。

私の『野守』の披きは厳島神社の御神能でした。その時、小鼓の横山貴俊先生に後シテについてご注意を受けました。「キリ能でありながら、大嶺の雲を凌ぎからの小のりは『野守』独特のリズムがある、あれは土着民族のものです。それらしく謡い舞わないといけません」と。忘れらないお言葉でした。

私としては気や力を抜いて勤めたわけでもないのにと当時は納得出来ず、深い意味が理解出来ませんでした。後に、軽快な動きが面の小ベシミや曲趣とうまくかみ合わなく映ったのではないかと、この曲はどっしりとした重みが必要であると知りましたが、その演技法を体得するにはそれからかなりの時間がかかりました。

その後粟谷能の会にて「居留」の小書で再演いたしましたが、とにかく『野守』は動きが激しいので、『鵺』同様あまり年を経てからの演能は敬遠しがちです。「居留」は最後に塚の前で飛び安座して奈落に落ちる様を表し、残り留めになります。『石橋』の留めと同じ型になります。この時の『野守』居留は当時、三役や他流の仲間たちと稽古し再考したものでした。これについては阿吽の稽古条々にもそのうち記載したいと思いますが、能を作り出す喜びを仲間と分かち合いながら楽しく過ごし、私にとって貴重な体験となったのです。



写真『野守』居留 シテ 粟谷明生 
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