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補巌寺(ふがんじ)の案内

この寺は初め光蓮寺〔律宗〕と言いました。
1300年代の終わり頃、改宗して大和で最古の禅寺・宝陀山補巌寺(曹洞宗)となりました。新しい宗風と了堂真覚(開山)の熱心な布教更に領主の十市が後援者となったことで、寺はどんどん大きくなり末寺孫末寺(所在地?奈良・京都・滋賀・広島・山口・島根・岩手)合わせて200余寺、寺領〔寄進田〕約70町歩となり室町時代は隆盛のうちに過ぎました。
1500年代の末戦国時代に入って、十市(遠勝)が織田信長と組んだ仇敵松永弾正(郡山城主)との戦いに敗れ滅亡、その時寺は丸焼きにされました。つづく豊臣秀吉の太閤検地で寺領も相当没収されたようです。
徳川時代にはいってこの辺りの領主となった藤堂高虎がここを祈願所としましたので徳川時代は平穏に過ぎたようです。
1800年代の中頃放火により本堂は全焼、続く明治の廃藩置県で藤堂家とも縁が切れ、更に廃仏帰神の荒波をうけて寺は息も絶え絶えの状況になりながらも、なんとか昭和まで持ちこたえました。が戦後の農地解放で根こそぎやられ、とうとう息の根が絶えました。
観世の祖と敬われている世阿弥は、当寺2代竹窓智厳に師事しました。世阿弥は能役者として又謡曲作家として、禅の精神「宗旨の参学は得法以後の参学」又「得法の後練り返し練り返し功を積むべし」を能の修行に採り入れ、一世を風靡しました。幽玄美の極致をひたむきに追求した世阿弥の能の世界には、禅の影響が強いといわれています。
世阿弥夫妻は当寺で出家しそれぞれ至翁禅門・寿椿禅尼と呼ばれ寺に田地一段づつを、寄進しています。能帳には至翁禅門8月8日の記述が有り、供養が営まれていたことが分ります。
寺の墓地には十市遠勝の碑およびその子孫と思われる上田家の墓・重臣等であったと思われる木村今沢渡辺家の墓があります。

伝説等  当寺は古老の言い伝えでふかんじと呼ぶ。
  当寺輪住5代奇翁異珍は南蛮人(ポルトガル?)で象をつれてきた。
  松永弾正は、先に当寺に火を放ち十市軍が救援に来た隙に城を攻め滅ぼした。
  味間は当寺が在ることで水の優先権があった。(溜池がない)
  明治以前は参詣人は履物を脱いだ。

異説   開山の年代=至徳元年


碑文
  世阿弥参学之地

ここ味間の補巌寺(ふがんじ)は 至徳元年開基の禅刹であるが 寺蔵の能帳に能楽の大成者世阿弥(ぜあみ)と妻の法名がみられ ここが夫妻の菩提寺で 遺著『花鏡』等に顕著な世阿弥の禅的教養は 当寺2代竹窓智厳(ちくそうちごん)らに就いて参学した結果と信じられる その事を解明したのは故香西精(こうざいつとむ)であり ここに世阿弥碑をと発願したのは故山本博之(やまもとひろゆき)であるが 両先覚の志も空しく光陰は過ぎた
 このたび 世阿弥の遺徳を仰ぐ者や地元有志が発起し 各界からの基金にもとずいて世阿弥の父の観阿弥没後満六百年 補巌寺開基満六百年の年に碑を建立した
歌舞幽玄能を確立して能楽の芸術性を高めた世阿弥の偉業の顕彰と 史跡補巌寺の異議の宣揚とを願っての建碑である
昭和五拾九年八月八日  補巌寺世阿弥碑期成会


副碑
この碑は 昭和57年冬以来の募金に全国各地の有志から寄せられた浄財によって建て
昭和59年の世阿弥忌の日に除幕した。加藤和光住職の時で題字は道元禅師直筆から集字し碑文は表章が選んだ。
補巌寺世阿弥碑期成会


世阿弥と補巌寺の関係解明の経緯
世阿弥直筆の金春禅竹宛の手紙の文中に「仏法にも しゅうし(宗旨)のさんかく(参学)と申すハ とくほう(得法)以後のさんかく(参学)とこそ ふかんじ2代ハ仰せ候しか」とあるのを香西精が目にとめふかんじは当寺ではないかと見当をつけた。それを聞いた表章が当寺え来て能帖を調べ至翁禅門(世阿弥)の名があるのを見つけた。その知らせをうけた香西精も当寺え来て能帖を調べ寿椿禅尼(世阿弥の妻)の名をみつけた。
世阿弥夫妻の法名が記載されていることによって手紙のふかんじは当寺であるということになった。
(一般的には補巌寺(ほがんじ)と読むので なかなか解らなかったらしい)
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