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平成20年3月2日粟谷能の会で『邯鄲』傘之出を勤めました。
私の『邯鄲』の初演は平成元年、今は解散した妙花の会でしたが、今回19年ぶりに「傘之出」の小書で勤めました。

傘を扱う小書は宝生流に柄の長い傘をさす「長柄」と、通常の笠を被る「笠之次第」がありますが、双方とも傘を持つ、被る演出に留まり詞章などが替わることはないようです。
喜多流の「傘之出」は詞章が替わるなど、いくつかの工夫があります。
今回はそれらを中心に述べてみたいと思います。

傘の演出については、廬生(シテ)の出身地・蜀の国(四川省付近)や邯鄲の里(河北省)が雨の多い土地柄であるからと唱える説もありますが、現地を知る方の話しでは、逆に雨が少ないところと反論しています。いずれにしても、地謡の詞章「一村雨の雨宿り」をもとに、九世健忘斎以前の先人の発想であることに間違いはなさそうです。

喜多流の「傘之出」は左手に傘をひろげ持ち、腰に唐団扇を差し、右手に数珠を持ちゆっくりと登場します。急に降ったり止んだりする村雨という悪天候での傘をさしての登場は、人生どのように生きるべきかを考えながら、羊飛山の高僧を尋ねようとする青年廬生をうまく演出し、この傘は格好の小道具となっています。


シテの次第は通常、常座で謡いますが、今回は橋掛りにて次第や道行を行い、本舞台を宿、橋掛りを宿までの道中として区分けして演じてみました。長い橋掛りの国立能楽堂だからこそ効果も上がると思い試みてみました。
その成果が気になるところです。
道行が終わり、着き台詞の「いまだ日は高く候へども」は、傘之出では「また村雨の降り来たりて候ほどに」と替わります。
女主人(アイ=野村萬斎)に案内を乞い、傘を手渡すと、「傘之出」の前半部分の演出は終わります。後半も演出が替わりますが、このあとはあらすじを追いながら、私の感想を交えてご紹介します。

中国、蜀の国の廬生という青年は仏道を信じながらも、ただ茫然と暮らしている自らの現状を悩んでいて、楚の国羊飛山にいる高僧に教えを乞うために旅に出ます。
蜀から楚へ向かう道中に邯鄲の里を通るのはいささか方向違いです。

なぜ遠まわりをする必要があるのか・・・。
能楽師が能を演じるのに、歴史的な矛盾や、詞章の誤りなど些細なことは気にせず、舞い謡うことだけを考えていればよい、との声が聞こえてきそうですが、やはり気になっていました。
「能・中国物の舞台と歴史」(中村八郎著)に「楚に至らんとして北行するが如し」という戦国策の中の故事の引用とあり、この説明でいまは納得しています。

女主人の案内で、中に通されると問答となります。女主人は、かつて仙人の法を使う人が置いていった邯鄲の枕という不思議な枕があり、これで寝ると夢を見て悟りが開けると薦めます。廬生は一睡することにして、作り物(引立大宮)の一畳台に上がり、噂の邯鄲の枕で眠れることを喜び床につきます。
伝書にこの伏す型の際、目を閉じる事、と記載されていて、ここからが役者にとっても夢の世界が始まる訳です。

「一村雨の雨宿り・・・」の初同で、シテは寝る格好となり、同時に勅使(ワキ=宝生閑)が輿舁を二人連れて登場します。勅使は廬生を見つけると、近づき中啓でパン、パーンと一畳台を叩いて起こします。この打つタイミングの間と、その叩く姿勢の美しさ、宝生先生のは抜群で、夢の又夢の中の序幕式の位を創り上げて下さいます。

今回、宝生先生は日頃見慣れない下冠(げかん)を付けての登場でした。私自身は冠着用の事を知らないまま舞台に出ていましたので、舞台でその姿を拝見したときは、一瞬目をみはり、本当の夢心地の気分を味わってしまいました。

盧生は楚国の王位を譲られることになり、御輿に乗り王位の気分で来序が奏されます。
今までの庶人・廬生が寝ていた一畳台の寝所は宮殿と代わり、王位についた廬生の前には舞童(子方 狩野祐一君)を先頭に大臣(ワキツレ)がずらりと並びます。雲龍閣や阿房殿のすばらしさ、銀の山、金の山を築いた庭の壮大さを謡う地謡の中、シテは普段の方角の西を東と見たり、東を西と謡い、わざと方角を変えて謡います。この辺りは夢の世界である一つの演出でしょう。
即位して五十年が過ぎると、大臣は千年の寿命を保つ仙境の菊の酒を捧げようと、舞童に酌を薦めます。
廬生は喜んで受け、栄華の絶頂を極め、自らも舞を舞います。

話は脱線しますが、この子方を私は9回やっています。
はじめはシテ友枝昭世氏で7歳の時(昭和37年)、そして最後は喜多実先生(昭和40年)のおシテでした。9回の内4回が後藤得三先生で、先生がいかに『邯鄲』がお好きだったかがわかります。そして今、その先生の書き付けを読ませて頂き演じていると、歴史の深さと時の移り変わりの早さに感慨深いものを感じています。


話を戻します。
シテの喜びの舞は、狭い一畳台の上で楽(がく)と呼ばれる中国物に使われる舞です。
シテにとってここが最大の難関で技の見せ所です。
当然一畳台から落ちるような事故があってはいけませんし、作り物の四本の柱に唐団扇が当たったり、勿論、身体も柱に触れてはいけないのです。
そのため慎重になりがちで、動きが小さくなってしまうことがありますが、それでは帝のどっしりとした風格が表現されず、シテ失格となります。
この楽の速度はゆったりと位高く、が心得です。
小書の時は盤渉調(ばんしきちょう、笛の高い調子)で奏すこともありますが、盤渉になると調子が乗りすぎてしまう傾向があり、私はそれを嫌います。あまりリズムに乗り過ぎないために普通の楽で勤めることを事前にお囃子方(笛・松田弘之氏 小鼓・鵜澤洋太郎氏 大鼓・柿原弘和氏 太鼓・観世元伯氏)に説明し、納得して頂きました。
本番はその効果が発揮され、適度な良い位で囃して下さいました。
ここで改めて四人の方に感謝を申し上げます。

この楽には途中三段目に空下り(そらおり)と呼ばれる特殊な型があります。
台より左足を落としますが、何もご存知なくご覧になられた方は、誤って落ちのたでは? と錯覚され、一瞬ひやっとされる場面です。
この空下り、現在二通りのやり方があります。思わず台より踏み外し下界に落ちそうになるのを、足をさっと上げて踏みとどまる速度ある型と、なんとなく下界が気になるので一寸下りてみようかなと、じわっと恐る恐る足を下ろす、ゆったりタイプの二通りです。

我が師・友枝昭世氏は前者がお好みでそのスピード感は絶品です。見ている者が皆、思わず息を呑むような切れのある素早い動きが特徴です。
私も初演の時はそのようにと真似てみましたが、今回は敢えて後者のゆっくりな型で演じてみました。
私が子方時代に見てきたものは後者が多かったのです。

ここに空下りについて面白い書き付けがありますのでご紹介します。
「虚下りノ事、別ニ訳ナシ。古ノ名人コノ所ニテ、臺ヨリ下ルル様ニ到セシ故、太鼓刻(きざみ)上ゲタル時、シテ足ヲ引キタルヲ見テ、太鼓中頭ヲ打チタル、名人ノ楽ニ出来タルガ形ニナリタル也。是等ノ事、常々有ル故此能ハ習ノ能ト考可、云々。」

つまり名人が落ちてしまった時、太鼓が中頭(打ち方の名称=ちゅうがしら)を打って一区切りつけるようにした。誤って落ちても、名人だとそれが一つの型として成立する、このようなことは、たまに有ることだ、云々・・・というわけです。
なるほどそんな事情だったのか・・・。物事の起こりを知ることは大事ですが、かえって知らない方が良い場合もあり、これはその一例ではないでしょうか。

空下りが済むと、台より下りて舞台で颯爽と舞い始めます。
「若い時分はどうしても勢いがつき荒くなるのでその辺りの塩梅が判ってくるには〜、どうも50歳辺りを過ぎてからでないとだめかな〜」と、父の言葉が思い出されます。

今二回目を演じてその言葉の重みを感じています。
なんだか嬉しいやら、一寸寂しいやらと複雑な思いでいます。

かくて時間が過ぎていくと、目の前に見えていた四季折々の美しい風景や宮殿、延臣は皆ことごとく消え、シテは作り物に向かい勢いよく走り込んで、伏した姿勢を作ります。
いわゆる「飛び込み」の型です。そして、勅使がやったと同じように、今度は女主人の中啓で叩く音で起こされ、50年の栄華の夢は覚めます。

「飛び込み」については伝書に記載はありませんが、私が知っている限りでは飛び込みをしない『邯鄲』は見たことが無く、近年これが普通となっています。『道成寺』の鐘入りや『石橋』の舞など危険が伴う緊張する曲は何曲かありますが、この飛び込みもその一つと言えます。

夢から覚めた廬生はすべてが夢かと茫然として、世の無常、どのような栄華も一睡の眠りの夢と同じで虚しいことだと悟り、枕こそが我が人生の師匠であると感謝し、望みは適えられたと喜んで帰ります。

『邯鄲』の飛び込みから悟りをひらくまでの最後の場面がクライマックスで、この曲のメッセージが込められている大事なところです。演者は飛び込んだ後、微動だにしないで伏していて、そして起こされた後も、ゆっくりと呼吸を乱さずに起き上がります。この静かな動きが演者にとって、もっとも体力と気力を使うところです。

動き廻った身体は疲れていますが、それを表面に見せない体力。
安座しながらの回想場面、その小さな動きの型がぎこちなかったり、生な動きとなると観客の夢を覚ましてしまいますので、ここは気力を集中して粗相しないようにと心掛けます。ですから演者はここまでの気力と体力を計算に入れておかないと、最後がだめだね、と言われ失敗してしまいます。

最後のロンギの謡は特にむずかしいところです。
茫然とした力の入らない回想のはじまりの「廬生は夢覚めて」から地謡とのやりとりがはじまり、脱力感のある落ち着いた感情からどんどん盛り上げていきます。悟りを開くまで、謡も徐々に高揚していき、調子、張り、乗り、など細かい謡の技術力が必須で、素人弟子もまた玄人でも中々うまく謡えず苦心するところです。ここを上手く謡えれば一人前、とも父は話していました。

シテ謡の「南無三宝、南無三宝」は気を込めて謡いますが、やかましくなっていけないのでむずかしいところです。下手に謡うと、本当に悟れたのかな?と楽屋内から皮肉が聞こえてきます。

終曲は、そうか迷いから脱しようと私が求めていた師匠とはこの枕なのか、と地謡も声を張り謡い、この世は夢! と悟り帰郷する廬生です。

通常は「望み叶えて帰りけ〜り〜」と上音で終曲しますが、傘之出では「帰りけ〜り〜」を下音に下げて謡い留めます。
更にこの留めで終わりにせず、まだ続きがあるのが「傘之出」の後半の演出です。
ここに手付の一つをご紹介します。次の通りです。

「アイ さあらばお傘を参らせ候べし、ト傘ヲ廣ゲ渡ス、シテ始ノ如ク左手ニ差シ、近頃祝着申して候、ト謡ウ。アイ 又こそ御出で候へや、ト留メル、夫ヨリ入ル」とあります。
父のメモには「替ニ 唐団扇ハ枕ノ上ニ置キ、傘右手ニ受ケ帰ルモ有リ」とあります。

伝書通り左手で処理すると、帰り際に傘をシテ柱にぶつけるため、防御策として右手に持つ工夫がなされています。
今回私は勿論父のメモ通りにしました。

そして今回の小書の焦点、アイの言葉の入る位置の検討です。
大蔵流のアイはシテが橋掛りに入った後ろ姿に声を掛けます。
私はこの後ろから声を掛ける演出こそが「傘之出」の効果を上げると考えます。父が、アイに呼び止められたら少し心持ちがあるんだ、そこが大事、と話していたのを思い出しました。
先人の工夫の一つだと思います。

私の知る限り、和泉流はシテの祝着申して候の後に、すぐにアイの言葉が入りアイはアイ座に戻ってしまいます。これでは「傘之出」の効果は半減してしまいます。
今回、野村萬斎氏にお願いして、「また、重ねてお参り候へや〜」をシテが橋掛り二の松辺りへ行くところでかけてもらい、シテはその言葉を聞いて、少し止まり、また静かに帰るやりかたで演じてみたい、と相談しました。

すると予想しないお返事が来ました。「以前後藤先生からのお申し出で、そのようにしたと書き付けにありましたので、それは問題ありません、それでお相手しましょう」と、快く承諾して下さいました。

私は常々、能の世界で伝書通りに再現することは伝承芸能としての基本でそれから外れることはいいことではないと思っています。しかし、ただ伝書の記載通りに動いていれば安心とばかり胡座をかいているようでは、現代の能としては、いささか陳腐な芸能に成り下るのではないでしょうか。
今に生きた演出、演劇性を充分に考慮し発揮しないと、能の生命力は失われる危険性があると危惧します。

『邯鄲』「傘之出」に新たに手を入れ改善しようと意気込んでみたものの、見事先人たちもその挑戦と工夫をされていることを、萬斎氏の話から知りました。新規工夫と唱えていたことは手前味噌で、もう既に先を越されていていたのでした。
私が変えてみせた、という夢は消えましたが、過去に同じ工夫をしていた先人があったことは私の本音からするとうれしいかぎりで、少しねじれながらも、気持ちは晴れやかです。

演能後、傘之出の演出とは、何ですか? とご質問を多数受けましたが、私はこのように答えています。アイが「また、重ねて参り候へや〜」と声をかけ、それを聞いたシテが、少し止まり静かに帰る演出、それをどう見るかはご覧になられた皆様、またこれをお読みになった方々のお一人お一人のご想像でよろしいのではないでしょうか、と。

例えば、
「また来て下さいね」
「もうわかったから、いいよ、来ることはないだろうよ」

あるいは、
「また来て下さいね」
「えっ、もしかして、また来ることになるのかな」

また、
「また来て下さいね〜〜、一度ぐらいじゃだめなのよ、屹度あなたはもう一度来るよ〜」

などなど、アイとシテの役者の心中からは、いろいろなものが読み取れると思います。
この心の内面を、どのように想像させるかが「傘之出」の面白さです。

今回、この場面を大事に納めたいと思って、囃子方や地謡にはアイが舞台から下がるまで、大鼓・小鼓は道具を持ったまま、床几にかけたまま、地謡も扇を持っている姿勢のままで、待機してもらうようにお願いしました。
本来、終曲したら囃子方は道具を置き、すみやかに床几から下りて道具を片付け、地謡も謡い終わったら扇を置くのが習慣であり、それは間違いではありません。

しかし、余韻の演出としての「傘之出」がなされている時、それを邪魔するようなものはいただけません。想像しやすい環境を最大限創るのは、演者側の勤めではないでしょうか。
特別な演出を、またこのように工夫して新たに勤めたいという時、シテであろうと演者は真摯にお相手の方々に頭を下げ、お願いをしなければ折角の志しも努力も水の泡です。

過去に、シテが橋掛りを静かに帰るところ、何ともいえぬアイの言葉の間、その空間の演出の最中に、大小が音をたてて床几から下りて道具の片付けをはじめ、地謡が足を直しながら扇を置くなど、後味が悪い場面を何回か見たり経験してきました。
自分が演るとき、あれはいやだ、と思っていました。
いま改めて、囃子方と地謡に今回のご協力のお礼を申し上げたいと思っています。

廬生の悟りについて、梅若六郎氏がキリについて興味深い言葉を残されています。
あの文句「悟り得て、望み叶えて帰りけり」に送られて幕に入るたびに、「人間って、こんなに簡単に悟れるものなのか」と思ってしまう、と。私は初演からつい最近まで、そのように思ったことは一度もありませんでした。ただただ舞うこと、謡うことで終わっていました。梅若氏の言葉の感性の鋭さに驚くと共に、憧れを感じます。
確かにそうだな、それもあるなと。
実は私はその言葉を思い出しながら橋掛りを運んでいたのですが、ご覧になられた方は、どんな想像をされたのでしょうか。
(平成20年3月 記)

写真提供 粟谷明生

『邯鄲』
シテ 粟谷明生 (平成20年 粟谷能の会)
その1、その4   撮影 石田 裕
その2,5     撮影 あびこ喜久三

『邯鄲』
子方 粟谷明生 シテ友枝昭世 (昭和37年 五流協会能) 撮影 不明
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