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『安宅』延年之舞(平成21年3月)を勤め、演能レポート『安宅』を更新して月日が経ちました。演能後「延年之舞」についてもう少し調べたいと思い、お弟子様の宮地啓二氏に資料集めを依頼したところ、寛永寺・土谷慈得氏のご協力により、日光山・輪王寺や平泉の毛越寺からの資料を入手することが出来ました。そこでその資料をもとに未だ解明出来ずに気がかりだったいくつかの疑問点を調べ、解明したことを、ここに演能レポートの補足として書き記すことにしました。なにぶん「延年」自体が今は途絶えてしまったこともあり、資料も少ないので正確さに欠ける部分もまた私の推測もあることをご承知の上、お読み下さい。
また、ご意見や参考資料などがございましたら、お知らせいただきたくお待ちしています。

さて、その疑問点とは?
能『安宅・延年之舞』の弁慶が舞う男舞の中で踏む音をたてない「抜く足拍子」がありますが、この動作の根拠、意味合いがはっきりしません。
また我が家の伝書に書かれていた「イトクリ、ブモヨシ、サンソウ」のカタカナ記載もどのようなものなのか、気になっていました。

まず、「抜く足拍子」を解明する前に、「延年之舞」の「延年」とはなにかを知る必要があります。
「延年」は正確な起源は不明ですが、平安時代中頃より寺院にて法会の後に僧徒が余興として観者に見せた歌舞です。延年の字の如く、観者を楽しませてはその長寿を祈る芸能でした。その内容は、問答や乱舞など様々のジャンルから集まり成立したもののようで、その歌舞の舞の部分を特に「延年之舞」と呼んだようです。

(日光山輪王寺のパンフレット表紙より)

平成の今、寺院で「延年之舞」と称されるものがあるのは、平泉の毛越寺と日光山の輪王寺の二寺だけです。毛越寺は正月二十日、二十日夜祭として常行堂で、輪王寺は毎年五月十七日午前八時から大本堂、三仏堂にて見られます。
能『安宅』の「延年之舞」が、室町時代にどのような経緯で創られたのかは、知る術はありませんが、現在、毛越寺や輪王寺で行われている「延年之舞」が時代の流れや系統により幾分変化していることを差し引いても、現存していることは、能『安宅』の「延年之舞」を調べる上で、ひとつの貴重なヒントになることは確かです。

平安時代から室町時代まで、寺院では延年を願う舞が流行したようで、はじめは下級僧侶や稚児らによる余興程度のものが、次第に演じ手は、芸に熟達した僧達が中心になり、遂には、延年を専門的に演じる僧が現れ、それらを「遊僧」「狂僧」と呼びました。
「歌舞伎十八番」戸板康二著には、「延年」は若い稚児のソプラノと成人した僧のバスとの掛け合いで進行したと書かれています。
『安宅』の謡に「もとより弁慶は山塔の遊僧…」と謡われているように、叡山と弁慶、遊僧そして延年之舞と関連していくと、『安宅』に小書「延年之舞」が付随したのはごく自然の成り行きなのかもしれません。
能の作者は室町時代の人です。その創作背景には、その時代の政治、生活環境、宗教観があり、それらを基盤として様々な過去を思い浮かべ戯曲したことでしょう。「延年之舞」は室町時代までは盛んに行われていたので、それを取り入れることは容易だったはずです。しかし室町時代以降は「延年之舞」は徐々に衰退していき、江戸時代にはほとんど行われなくなりました。
そのため現在の我々は、特に延年之舞を舞う能楽師にとっては、「延年之舞」が想像しがたい遠い存在になりました。能楽師の私が能『安宅・延年之舞』を勤めるにあたって想像するものは、平安時代に誕生した「延年」とはたぶん異なり、また現存の延年之舞とも違います。
もっとも、そんなことはおかまいなし、能楽師は師の言われた通り、型通りを忠実に真似て舞えばいい、との指導もあるでしょうが、どうもこのあたりをはっきりさせたいのが、私の性分でして、どうにも抑えられないのです。

実はこの延年之舞を衰退させた原因の一つに、江戸時代の支配者層である武家階級が、能を手厚く保護したことが挙げられていることを知り、能楽師の私としては、何とも複雑な気持ちでいます。
「延年之舞」は古記によれば江戸時代初期以前までは「開口」「延年」「大衆舞」の三部から成り立ち、能でいう「延年之舞」は「延年」ではなく「大衆舞」ではないかと言われています。「延年之舞」は能の原型である猿楽との関連が深かったらしく、互いに影響を与えあったらしいのですが、その後、能が延年之舞にとって変わったことは間違いないようです。

(毛越寺の延年之舞 平泉・毛越寺判より「老女」)

さて、喜多流独自の延年之舞での抜く足拍子ですが、左手に持つ中啓を腰に当て、右手の数珠の持ち様は、毛越寺の老女の舞の腰を屈めた姿が似ています。老女は左手に中啓、右に鈴を持ち、舞は翁の三番叟の鈴の段を彷彿させます。腰を屈め、鈴を鳴らす動作は、田畑への種まきを表しています。能の型も種まきや田植えの真似であるようにも思えます。抜く足拍子は滑稽さを味わいとしていた一面もありますが、しかし一方でもっと格式ある芸能であったと唱える方もおられます。能楽師が弁慶役を演ずるにあたって、抜く足拍子は何かの真似もさることながら、演じる心の内側には窮地に立たされた弁慶がどのように義経一行を逃がすか思案する時間稼ぎとも、またはふと昔手慣れた動きが自然に顕れてしまったとも、との思いになりました。
いずれにしても、あの不可解な、音を鳴らさない足拍子の意味は、滑稽なしぐさ、余興的な要素であることと、正式な儀式的な動きという双方を演者は想像して舞うのが肝要なのでは…、というのが私の結論です。

(『安宅』延年之舞 足拍子 シテ 粟谷明生 撮影 石田裕)

次に「イトクリ、ブモヨシ、サンソウ」について、粟谷家蔵書の堀池家の伝書に『安宅』「瀧流之掛(たきながしのかかり)」について、次の通りの記載があります。

「落ちて巌に響くこそ」と下を巻差し開き、「鳴るは瀧の水」と小鼓頭にて流し打ち、この時右の方へ下を見廻し乍ら廻り大鼓前にて直ぐ右へさし、破掛男舞、この時は脇へ酌なし、「鳴るは瀧の水も」一遍。延年之舞は比叡山にて僧の舞うものなり。イトクリ、ブモヨシ、サンソウ 斯様の名ある舞の由。これは小鼓ばかりにて翁の様にタタホ ホホと打ち返す囃子入りも有り。衣の袖を雪かと思ふて、払えば月の陰 ササトツトト、と声をかくる。

これは私が「瀧流之掛」で勤めるにあたって参考にした書き付けです。
演能当初はこのカタカナで書かれた「イトクリ、ブモヨシ、サンソウ」が何を意味するのか解らずにいましたが、今回の資料の日光山・輪王寺(平成9年第64号)の「日光山の延年之舞」菅原信海氏著にその謎を解く記載がありましたのでご紹介します。
延年之舞は、僧家で大法会の後に行う遊宴歌舞の総称、例えば興福寺の延年については「興福寺延年舞式」によると、その順序は寄楽(よせがく)振鉾(えんぶ)弁大衆、舞催(ぶもよおし)、僉議(せんぎ)、披露、開口、射払、間駈 掛駈、連事(つらね)絲綸(いとより)遊僧(ゆそう)風流 相乱(あいらん)拍子・・・・云々、とあり、あのカタカナは延年舞式のひとつでありました。
昔の「延年之舞」は寺によりその進行、歌や舞、曲目などが異なり、各寺院の特徴を出していたかもしれません。伝書に比叡山とありますが、上記の興福寺の舞式の記載と同じようなカタカナが羅列されていたのは驚きであり、面白い発見でした。
今回伝書のイトクリはイトヨリ、ブモヨシはブモヨオシ、サンソウはユソウ、と記述の違いであることが判明しました。しかしそれらがどのような動きで、どのような歌、歌詞であったかは残念ながら資料もなく、たぶん解らずじまいになりそうです。いろいろ調べ、事が明らかになることもあれば、闇の中のままということもあります。
今回の「瀧流之掛」の記載に、このような間違いがあることや、また瀧流之掛のあとの「平調返し」の記載にも問題があると指摘し、この伝書を貶す方もいらっしゃいますが、しかしだから信用出来ない、役に立たない伝書と決めつけるのはいかがなものでしょうか。懐が狭いように思われませんか?

私は伝書とは清廉潔白、正しいことだらけ、ではないものもあると踏まえて読むようにしています。先人たちのいろいろなやり方や工夫がふんだんに書かれている伝書ですが、その内容は今やられているものと異なることもあります。
それらを読み比べる作業、これもまた面白く、いろいろと新たな発見があります。いろいろな型を知り、その記載された型で勤めたい気持ちになりますが、同時に鵜呑みは危険であるということも心得ていなければいけません。伝書とは、よく心して深く今に照らして読むべし、なのです。

伝書は書き付けともいい、その当時の人が自分や一門、後世の人のために、次回に演じる時に役立てば、と書き留めたいわばメモです。そのメモに少しの書き間違いがあったから、それがインチキで役立たずと決めつけてしまうのは、いささか勿体ない気がします。
伝書を読むことの出来る今の者の心得としては、その書き付けの中にあるものから創造する力を養うことです。そしてそれをふんだんに体現すること。
能役者はとりくむ曲に纏わるいろいろな情報の収集と常にそれを体現する技を磨いていることが必要です。

能楽師としてのすべてのスキルを持ち合わせ、尚更に書き付けのメモを読む、これらのことをして、観ていただく、この作業を演者は忘れてはいけないと今回も再確認出来ました。演能が終わるとどうしても、次の曲への作業にとりかかり、それまでの曲を振り向かない私ですが、今回演能後に色々な方のお力添えをいただき、改めてまた追加として演能レポートに執り掛かれたことは、やりっ放し性分の私に、初心忘るべからず! を教えてくれたようです。これももしかすると寛永寺さん、輪王寺や毛越寺のお力かな、とも思いましたが、やはり能楽師ならば、ここは武蔵坊のお陰としておくことにいたします。
                 (平成21年4月 記)

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