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ザ、チャレンジ「ナンバーワンよりオンリーワン

粟谷明生(あわやあきお)さん 喜多流シテ方
プロフィール
1955年東京生まれ。 
シテ方喜多流、人間国宝粟谷菊生の長男。
父及び喜多実、友枝昭世に師事。
3歳『鞍馬天狗』花見にて初舞台。
8歳『猩々』にて初シテ。
27歳『猩々乱』
以後『道成寺』『石橋連獅子』『翁』『望月』等披く
重要無形文化財総合指定保持者

「粟谷能の会ホームページ」の演能レポートを見ると、喜多流能楽師粟谷明生さんが、一つの曲に対していかに取り組んだかが詳細に報告されている。「演能に際し、曲の内容を自分なりに深く読み込まなくてはと思うのです。古い伝書に目を通し研究者、見識者の文献を資料に、師、先輩の教えを受け、また違う分野の方々からもお話を伺う。するとだんだん身体の中に溜まったいろいろな情報が溢れだし、構想がふくらみ徐々に自分のスタイルの能が固まりはじめます。それで6年前より、演能後に記録として感想手記を残す作業を始めました。時々面倒になりますが、自分のためと思って続けています。」三月の粟谷能の会の『殺生石 女体』では創作面(岩崎久人打)「玉藻」をつけ、白頭、緋長袴、狩衣の扮装で「カケリ」を取り入れた。妖狐という存在だけではなく、殺生石に込められた玉藻の前や石の魂を幾重にも重ねて演じられないかという思いがあったからだ、という。

友枝師や能夫が育ててくれた
今、能に没頭し、意欲的に取り組む明生さんだが、仕方なく能をやっていた時期があったという。
子方時代は、仕舞なども含め147番、数多くの舞台に立っている。
「当時喜多流に私と同じ年代の子供がいないこともあり、どんどん役がつくので、否応なしに舞台をこなしていかなければならなかったのです。」
そして中学生の頃、華やかな表舞台から裏方の仕事や囃子のお稽古へとシフトして、少し時間ができると能について考えるようになった。
「この時期はこの道がつまらなくなり、稽古が嫌いになった時期です。原因ねー。変声期の悩み、仲間がいない寂しさ、教え方への疑問などですねー。」

能に面白さを感じられなかった二十代。しかし心の隅には能は嫌いじゃないという思いがあった。そんな明生さんに折にふれて、能の面白さを語り続けたのは六歳年上の従兄弟の粟谷能夫さんであった。
「私を能楽師にとどめた一番の功労者は、従兄弟の能夫です。ふてくされた青年に諦めることなく、能の魅力を語り、説いてくれたお陰です。粟谷能の会で『黒塚』を勤めるとき、観世寿夫さんの『黒塚』は「月もさしいる」で下を見るんだ、型付通り上の月を見るだけでなく、能の演技にはいろいろと幅があるのだと聞かされドキッとした。あれがきっかけですね。」
そして父の菊生さんも心配していたのだろう。
「『道成寺』を披くときに、父がうちの子は君に傾倒しているから、君が『道成寺』を教えてくれと友枝昭世さんに頼んでくれたのです。友枝昭世師はお仕着せではなく、私の美意識を呼び出して、なおかつ最後にはこう思うよと、大きな幅で教えて下さいました。それからはまた能が楽しくなりました。」

課題は訴えかけの強さがある謡、舞
平成3年に、明生さんは能夫さんと「研究公演」を始めた。ずっと継承されてきた能の様式美、それを今、生きている者が自分なりに解釈し、新たなものに創造する努力も必要ではないか。そんな考えからだった。
「能楽師には人それぞれの時期に、挑戦しなければいけない課題曲や大曲があります。これらを自分の意志やそれまでの実績で演じられるように運ぶ努力がなくてはいけないと思ったのです。私がいやなのは上から降りてくる順番を何もせず待っているだけ、人が舞うと直ぐ自分もという考え方に慣れてしまうこと。自分の演能活動のあり方にいつでも納得していたいですね。舞台が能楽師の生き様ですから。」
 明生さんがいつも心がけている言葉に出会ったのも、このころだった。
「それはナンバーワンになるのではなく、オンリーワンであること。私自身、私でなければ出来ない、見られないという舞台をより多く勤められるようにと心がけています。そのための一つの作業として演能レポートを書いているのかもしれません。」

自分自身が一生懸命やったものが、流儀とか家に貢献できる。能夫さんとも芸の力が拮抗した中で、お互いに刺激しあい、確固とした味わいが出てこなければ次の粟谷能の会は強くならないと語ってくれた。
そして、能は謡と舞、七割が謡で残りが舞だと明生さんは言う。
「訴えかけの強さ、それを今の課題にしています。謡では、役が秘めている内的な意識や思い、それを自分の内に籠めて謡えるかということ。舞に関しては、流儀や各家に伝わる型付をなぞるだけではない、役者自身に存在感があり、その演者の身体から強い訴えかけが醸し出されるものでありたい。
そのような演じ手になりたいのです。」
今年の課題は、秋の粟谷能の会での『野宮』だという。
「『野宮』は本三番目物。劇的な内容で名文が盛り込まれています。今まで本三番目物は『半蔀』『東北』を演じただけ。本来は『井筒』を先に勤めた方がいいのでしょうが、難しいものを早く手がけておきたいという、私のわがままで・・・。今年の目標舞台です。」
これから稽古に入るが、原典となる源氏物語「賢木の巻」をもう一度読まなくてはならいだろう、そこの言葉が能の世界でどのように展開されているかなど、研究することはたくさんある。
「能は今の我々の生活文化につながるようなことがテーマでもあるわけで、演じ手はそれを解るように謡い、舞わなければ」という明生さんの「オンリーワン」の舞台を観たい。

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