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現在・過去・未来

粟谷明生 さん
●シテ方喜多流

粟谷菊生の継承と
そこからの飛翔

PROFILE
粟谷明生(あわや・あきお)
◆1955年(S30年)、東京生まれ。シテ方喜多流人間国宝、故・粟谷菊生の長男。父及び喜多実、友枝昭世に師事。59年『鞍馬天狗』花見にて初舞台。63年『猩々』にて初シテ。82年『猩々乱』以降、『道成寺』『石橋』連獅子、『翁』『安宅』『望月』『三輪』神遊等を披く。「粟谷能の会・研究公演」をはじめ、同世代にて「妙花の会」広島にゆかりのある能楽師を集め「花の会」などの立ち上げに努めた。

「粟谷能の会」を、従兄の粟谷能夫と主宰する粟谷明生さん。この会は昭和三十七年の十月に、能夫の父新太郎と明生の父菊生の兄弟で始めたもので、平成二十年で八十四回を数える。
人間国宝・芸術院会員でもあった喜多流の重鎮、粟谷菊生が亡くなって二年。「能〜粟谷菊生舞台写真集」「景清〜粟谷菊生の能舞台」と、明生さん自身が編纂された「粟谷菊生・能語り」も出版された。三回忌追善公演も済まされた現在の心境と、これからの展望を伺った。

●喜多実先生の教え

父の指導で三歳に初舞台を踏んだ明生さんは、小学生の頃から、先代喜多流宗家・喜多実に子方と仕舞の稽古を受けるようになる。

「少年期は同世代の仲間がいなかったこともあり稽古は一人、個人稽古でした。子方の稽古というのは、子方が関わる個所だけ教わります。
例えば『国栖』では“シテが最後に留拍子を踏んだら終わりだから、立ってシテの後に付いて帰りなさい”、とただそれだけ。途中で天女(ツレ)が登場し長い五節之舞を舞うなどとは知らされないから“あれ〜僕はまだここに居ていいのかな?”と不安になるのです。この不安が逆に緊張感を生むからよい、という教えだと思いますが、当事者には、やや酷な感じもします。それで息子には自分の経験から、曲全体の流れや舞台進行を説明して稽古しました」

 明生さんの最後の子方は『満仲』(観世流『仲光』)の幸寿丸、シテの仲光に斬られる役だった。「私の子方時代の終幕は斬られてオシマイ!」と笑って話す明生さん。子方は舞台上で横に倒れても頭を舞台に付けない、それが実先生の教えだったと語る。

「この間、久々に『満仲』がありまして、幸寿丸の頭が舞台に付いていたのを見て、実先生の言われたことの真意が判りました。

頭を舞台につけると楽なのですが、それでは子どもの身体にある緊張感が薄れ能の型ではなくなる、たぶんそう言われたかったのではないでしょうか。
太刀の扱いも同様で、太刀が長刀や他の太刀に絶対に触れてはいけないと教えられました。これも理由などは教えては下さらない。
しかし最近、カチャンカチャンと竹光のあたる音を聞くことがあって、なるほど、これでは太刀が凶器であるという力は伝わらないと判りました。実先生の教え方は理屈抜き、鵜呑みにするしかありませんでした。

しかし若い時分は鵜呑みが一番だと思います。納得出来ない、気になるということは、時を経て自分で考え答えを出せということでしょう。正直、正しく早く教えるほうがとも思いますが、やはり時間を掛けたものの強さでしょうか。あまり楽をしちゃいけないのかもしれませんね」 

 中学、高校に通う頃は喜多実学校で先輩と一緒に団体稽古を受けた明生さん。指導の骨格は型重視、厳しく身体の動きと精神を教えられたという。

「実先生の指導を受けた人たちは皆、型については充分鍛えられたと胸を張って言えます。稽古場では、腰を入れろ!肘をはれ!背筋を伸ばせ!フラフラするな!が先生の口癖でした。型をきちんとするというのは、実先生の元で習った者同士の共通の美意識で、その同じ根っ子が今の喜多流を支えていると思います」

その後、明生さんは友枝昭世を師と仰ぎ、直接教えを乞うてきた。もちろん、父・菊生が身近にいて指針になったのは言うまでもない。

●追善能『絵馬』女体と伝書

 粟谷菊生三回忌追善公演(粟谷能の会)で、明生さんは『絵馬』を女体という小書で演能された。喜多流の本来の『絵馬』は、後シテの天照大神が男神として現れ、荒々しく神舞を舞うが、「女体」は、本来の天の岩戸隠れに沿った演出となり、シテは女姿で小面をつけてスピードある神舞を舞う。小面の狭い視界で、早い神舞を舞うには修練が必要とされ、「女体」は喜多流では重い習いとされている。

「先人の女体を拝見してきて、神舞が天照大神の怒りを彷彿とさせるものが多かったと思いますが、父の舞台や話からは、女性らしい優しさ柔らかさを基調にしていたように思います。ですから自分もそのような感じで勤めました。女体は実はお囃子方にとって体力的にも技術的にもご苦労な曲なのです。
でも、そこを力を合わせてやると素晴らしいものが出来上がります。今回もお囃子方の心意気を感じ、気持ちよく勤めることができました。女体に限らず、よい演能には三役の理解と協力がなければ出来ないと思います。シテはこのようにやりたい、こうしていただけないかと真摯にお願いして、そうすれば相手からも、このようなやり方があるよ、こうしたらと返事がきます。こういうやりとりがまた楽しいのです。

ですから私的な会では、出来る限り三役の交渉は自分自身でしています。己の舞台は己で決める、決められない場合もありますが、己で決められる粟谷能の会を特に大事にしています」

明生さんは一回一回の能を大切にしてきた。能は花火のようなもので、二度と同じ舞台は出来ない。だから、その一度に全力を投入する。どんなに素晴らしいものでも、舞台で演じられたものは残念だが消えてゆく。だからこそ、書き留めて残していきたい。同時に、今昔を問わず、書かれたものを読み起こす作業が大事だと考えている。

「私は伝書を元に師や諸先輩からの教えを自分用の型附として書き残していますが、伝書にはいろいろな事が書かれていて興味が湧きます。我が家には喜多家九代目七太夫古能健忘斉と十代目寿山の伝書があり、それらを読むと書く作業の重要性を感じます。
伝書を読むには、変体仮名の勉強も必要になりますが、読めるようになると実に面白いのです。特に後半に書かれている心得がとても為になり面白い。こうすると大損とか、こんな型があるが名人の業也とか、未熟者はこうしろとか。読み手が幅広く解釈出来るものが優れた伝書といえるのではないしょうか

●「謡はホットに、辛(から)くだよ」

 喜多流は技が切れるといわれるが、型重視の稽古だったから、型が決まるのは伝統なのだろう。だが、なぜ謡の稽古があまりなかったのだろうと不思議に思う。“喜多さんは仕舞や舞囃子を見ているといいが、どうもお能になると・・・”と言われるのは謡の問題だったのではないかと、明生さんは謡の重要性に気づいていく。

四十歳近くなった頃、故観世銕之亟さんがご子息の暁夫(現銕之丞)さんと近藤乾之助さん、粟谷菊生、明生親子を誘い、ひっそり呑む会を設けてくれた。その時に銕之亟氏に“お父さんの謡を真似たら”と言われたという。

「四十近くなって、これはとにかく父の隣で謡うことが勉強だと気づきました。父は“謡を面と向かって習うなんてことはないんだ、玄人はそんなに甘くないよ、とにかく、上手の前や隣で謡って覚えるんだよ、芸は盗むんじゃない、盗むなんて悪い言葉を使っちゃだめ、黙っていただく”と言っていました。
父が六十歳半ば頃、丁度油の乗りきった地頭時代がやってきますが、その時から、私は父の前列で謡い、そして晩年に父の隣で謡えたことが肥やしになっています。先日、大倉会大阪公演で、一調一声『玉葛』を大倉源次郎さんとやらせていただきましたが、父ならこう謡うだろうな、こうだったな〜と思い出しました」

 「菊ちゃんの謡は浪花節的!」と言われると、菊生は「浪花節的で大いに結構だよ!」と言い返していたという。
明生さん自身も若い頃、父に向かって芸が臭くて浪花節的だと言って喧嘩になったこともあった。

「浪花節的、この言葉が誤解を招くのかもしれません。父の謡は情があり艶のあるものでした。父の口癖は“謡はホットに、辛く”、その言葉が今は頭から離れません。父の地頭に座る精神は、相手のために誠意を尽くし情で謡うということだったと思います。
舞台に立っている人のために、そして観客に喉が枯れても、体調が悪くなっても必死に謡う、そんな生き様でした。こんなお人好しの人はそうそう出現しないと思います。ですから義理人情に重きを置く浪花節的な人生だったのかもしれません。私が父を誇りに思えるのは、型も謡も出来た人だったからです。若い頃はそれに気づかなかったのですね」

 青い鳥ではないが、結局一番身近に学ぶべき人がいたということかもしれない。謡を語る時、単にシテの謡だけを評価しても意味をなさないという。

「先代観世銕之亟先生が教えて下さいました。“シテが出来、地頭が出来、後見も出来て初めて一人前の能楽師だよ。それが出来なきゃ能楽師じゃないと思うが、どう?”私の指針となる言葉です。

能をご覧になる方はシテの謡いを云々されますが、地頭、地謡がきちっと謡えてが大前提です。声は鮮明に綺麗に、音も正確に、囃子方への対応も出来て、尚かつ演者の雰囲気に合わせて作品を創り上げる、大変な仕事です。今喜多流の現場で補充しなくてはいけないのは優秀な地頭と地謡です」

●演能レポートの軌跡

 粟谷能の会のホームページ、粟谷明生のブログなど、その充実ぶりには目を見張るものがある。忙しい中どのようにして更新、投稿されるのだろう。

「ブログは書き込みが簡単なので楽屋内の情報を、粟谷能の会ホームページでは、演能レポートなどを書いています。現場の人間が書くことも良いのではと思いまして。書くことで発見があり、作品を改めて深く読み直す事も出来て、得をしながら楽しんで書いています。記録として残しておけば、五十年後には、この頃はこのように演じていたのか、この人がこんな事を考えていたのかと、こういう資料があってもいいかなと思います」

 これが明生さんの普及の形。以前は、演能レポートは舞い終わってから書いていたが、最近では演じることが決まると、あらすじから書き始め、メモをとる。この作業を通して舞台展開が見えてきて、疑問が出てくる。それに対応しながら書き直し、演じ終えて最終的な演能レポートが完成するという。

「だから、本音は自分のためにやっているのです。でも、粟谷能の会を観終わった後で、レポートを読むのが楽しみだとメールを下さる方が多くいらっしゃいます。自分の観方と演者の思いがどう違うか見てみたいと。それが面白くてまた舞台を観に来て下さる方も、いらっしゃいます。私なりの観客増員方法ですよ。」

粟谷能の会では、自分たちがやりたいものを演じられるが、必ずしも観客の入りがいい曲目とは限らない。自らの研鑚の場であり、プロとしての技量を観ていただく演能の場でもある。これを両立させていかなくてはならない。何年か後には『卒都婆小町』を演じたい。父菊生も「歳を取ってから演るのではなく、相応の若いうちに一度演っておくとよい」と話していたという。

「その前に『景清』『定家』ですね。父の演じた『景清』が強烈です。父と比べられたら堪らないが、そろそろ手がけておく必要があるでしょうね」

ツレ(人丸)を勤めた経験と地謡で見てきた様々な景清像を基盤に、自分なりのものをと、父を受け継ぎ、父を超える日を夢見る粟谷明生さんだった。


「粟谷菊生能語り」編纂:粟谷明生(ぺりかん社)
「能 粟谷菊生舞台写真集」編:鳥居明雄・吉越研(ぺりかん社)
「景清 粟谷菊生の能舞台」(ぺりかん社)

(平成21年上半期粟谷明生演能予定)
3月1日 国立能楽堂13時始
『安宅』延年之舞 粟谷能の会
SS 席 ¥12000 
S  席 ¥10000
A&B席 ¥7000 
C&D席 ¥5000  
学生料金 ¥3000

6月28日 喜多能楽堂12時始二番目
『雲雀山』    喜多流自主公演
当日券  ¥6000
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