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演能レポート『雲雀山』について――現在物のドラマ性を追求――

喜多流自主公演(平成21年6月28日)にて『雲雀山』を勤めました。
当麻曼荼羅で有名な中将姫が登場する能は『当麻』と『雲雀山』の二曲です。
『当麻』は中将姫が弥陀の来迎を祈念し、弥陀称名の教えの尊さを唱う宗教色濃い曲ですが、『雲雀山』は幼い中将姫を危機から救い、秘かに養育する乳母のけなげな奉仕や忠義心を描いた曲です。

最初に簡単に『雲雀山』のあらすじと舞台進行をご紹介します。
横佩右大臣豊成公(ワキ)は身内の讒言を信じ、我が子中将姫(子方)を、雲雀山で殺すようにと、家臣(ワキツレ)に告げます。家臣は命に従い姫を雲雀山まで連れて来ますが、あまりに可哀想なので殺すことが出来ず、庵を作り姫をかくまいます。同行した中将姫の乳母(シテ)は、四季折々の花を摘んでは、人里に出て花を売って姫を養っていました。
前場は、ある日、家臣が乳母を呼び出すところから始まり、物狂能特有の短い導入部分により、山奥に住む主従の環境を描きます。
後場は横佩右大臣が狩りに雲雀山へやってきて、遊猟の情景、短いアイの鷹を放す場面が入り、その後、後シテが束ねた花を肩にして登場します。花売りの場面と身上話のクセ、続いて姫を思う心持ちでの舞(中の舞)、短いキリが終わって、シテが雲雀山に帰ろうとすると、ワキが呼び止め、局面は一変して劇的な親子再会となります。最後はでめでたしめでたしと祝言の心で終わります。

中将姫が捨てられ生活した所は、奈良県宇陀市の日張山・青蓮寺(せいれんじ)と和歌山県有田市の雲雀山得生寺(うんじゃくさんとくしょうじ)の両説ありますが、ワキの道行、狩猟の名所、交野の地から考えると前者のように思えます。


徳友寺の中将姫の墓

青蓮寺には、姫を助けた家臣、松井嘉藤太晴時とその妻の静野の墓がありますが、能『雲雀山』では個人名は明らかにされません。それはより観る者に想像を膨らます効果を狙った能作者、世阿弥の手法ではないでしょうか。

乳母は花売りまでして姫を養育し再帰を願いますが、その一途な献身的な思いは実の母親に勝るとも劣らぬやさしい慈悲心です。
喜多流謡本の曲趣には「シテは狂女ではなく、普通の狂女物に比べると類を異にするようであるが、幼君を守りつつ山から里に出て花を売る中年の女性という点から一種遊狂の風格を備えたものとして、カケリ、中の舞があり、狂女能に扱われる」と解説しています。この「シテは狂女ではなく」の文言は誤解を招きます。
現代、狂女というと一般的に気がおかしくなった状態、言葉は悪いですが、気が狂った精神異常者のように思われがちですが、能はそうではありません。
一途な思いや気持ちの集中を「狂い」と言います。ですから姫への一途な思いの狂女として勤めました。


雲雀山 前

今回シテを勤めるにあたって気をつけたことは、いかに乳母の風格を出せるか、です。姫を思う中年女性をどのようにしたらうまく演れるかです。乳母は君主豊成の命に逆らって姫をかくまい養う、気丈な女性ですが、姫を慈しむやさしい女性でもあります。やさしく、やわらかに、やんわりと、三つの「や」の柔和な身のこなしを意識しました。


雲雀山 後
最後の豊成との対面では、はじめは姫がすでに亡くなったと偽りますが、豊成の前非を悔いた真心に打たれ、豊成を信じ、庵の場所を教えます。このワキとの問答がひとつの山場、作品の面白さに点数をつけるとしたら大事なポイントとなります。どんなにそれまでをうまく見せても、このやり取りの謡が白熱したものにならないと観る者の心は動きません。謡の間のとりかた、声の張り具合、音の高低差など、対峙する能役者同士の謡の緊迫感が、父子再会というお涙頂戴ドラマには不可欠です。思わず涙腺を緩ませる、そう仕掛ける巧み技が演者に求められています。

今回ワキを、人間国宝の宝生閑氏がお相手してくださいました。雲雀山に帰ろうとする乳母に「おーい乳母待て」とかけるワキの声で、一瞬空気が止まり、緊張した場面転換となります。シテもそれにじっくりと応えて、温厚ながらも気丈な乳母として勤めたつもりですが、ご覧頂いた方々には如何思われたでしょうか。


曲見の面 作者不明 粟谷家蔵

今回の面は、粟谷能夫が新太郎愛用の「曲女(しゃくめ)」もあると薦めてくれましたが、以前から一度使いたいと希望していた、銘はないものの粟谷家秘蔵の「曲見(しゃくみ)」にしました。これは近くで見るとたいしたことのない面に見えますが、舞台に上がると、中年の憂いと強さを秘めながらも、何とも位高いお顔に見える不思議な面です。『雲雀山』は夏の季節の曲目ですが、装束は梶葉模様の無紅唐織にしました。秋のイメージですが、やや脱色した感のある色あいが山仕事や花売りをする乳母に似合うと思い選びました。


写真 唐織

最近、能の稽古をして気がつくことがあり、私の経験談としてお読み下さい。
喜多流の稽古は、謡は一度先生が謡い手本を示し、習う者は復唱します。そして次回まで覚えてくることとなり、必死の暗記が待ち受けています。そこに何が謡われているか、物語を理解し諳んじればいいのでしょうが、若い時分はもう鵜呑み状態で、ただただ音を身体に叩き込み覚えます。もっともそれが舞台に立ったとき一番役立つ稽古法であるのですが…。

また舞も、まずは仕舞、そして舞囃子とレベルを上げて稽古し、ツレ役の稽古なども加わり、ようやく能のシテの稽古となります。能の稽古に入るまでに、幾度となく仕舞や舞囃子の稽古が繰り返され、積み重ねを大事とします。
型を正確に覚え、基本姿勢や上手な型のこなし、技の体得は必須で、これを習得しなければ話になりません。

しかし所詮仕舞や舞囃子は能の一部分であって、充分稽古したからといっても能の物語を理解出来るわけではありません。
能を目指す者の陥りやすい危険な盲点は、覚えた、舞えるようになったと、そこどまりになることです。それで出来上がったと錯覚する、それでは作品とは出会えません。
自戒を込めて言えば、私も以前は例えば『雲雀山』なら舞囃子が済むと、その部分はもうそれで仕上がった、それでよし、とより深い読み込みはしませんでした。これではいけないのです。

例えば、今回もクセの仕舞所で「面影残すかほよ鳥の…」とサシ廻しヒラキシオリの型があり、鳥の鳴く声が中将姫の嘆き悲しむ声にも聞こえ、それが哀れに思える心持ちで動きます。以前なら、ここどまりです。

ではこの「かほよ鳥」、さてどんな鳥なのでしょう。
問われても以前ならば、「型をきちんと表現すれば、あとは観る側が理解して下さるから、そちらにお任せすればよい」という先人の弁をそのまま、代弁してすませていました。

しかし、それでいいのだろうか、演者が、実は判らずに…とはあまりに情けないではありませんか。総て、とは言わないまでも、自分の知らないでいることをできるだけ判明させ、舞い謡いたい、そう思うようになりました。

以下、少し調べたことを書きますが、もちろん観客の皆様はご存知であると思います。ここは未熟な能楽師の調べたこととお笑い下さりながら、お読みいただければと思います。

喜多流の謡本では、ひらがなで「かほよ鳥(かおよどり)」と記載されています。「かほよ」は能『杜若』に「顔佳花とも申すとかや」ともあるように、顔佳花は美しい花の意で能『杜若』では燕子花(カキツバタ)をさします。
「かほよ鳥」は顔佳鳥とも書き、辞書には「顔鳥(かおどり)」と同じ意、カホと鳴くのでカッコウのこと、また美しい春の鳥、かおよどり、とあります。
演者としては、ただ漠然と美しい鳥、と思うよりも具体的に郭公と知ることで、その鳴き声を想像することが出来ます。演者が知ったからといって、観る側にそれとはっきり違いが判るかどうかの確証は持てませんが、演者の身体から発散されるものが、演者が知っているのと知らぬのとでは何か違いが出るのではないでしょうか。郭公の声が姫の泣き声と重なると具体的に知ることで、乳母の心の悲しみの演技に幅、真実みが生まれる、私はそう信じたいのです。



雲雀山 後

つぎに霞網です。「霞の網にかかり、目路もなき谷影の」と地謡が謡いますが、恥ずかしながら、私はこの霞網自体を知らずにいました。霞網とは細い糸で縫った細かな網を垂直に高く張り小鳥を無差別に捕らえる狩猟法です。その網にかかった小鳥がまさに中将姫に見え、悲しみ哀れむ乳母の心がより深く理解出来ました。
このようにして、より理解が進み、演じる心に余裕が出来ることで、能のドラマを演じる心持ちが生まれる、そう信じています。

まことに気づくのが遅く恥ずかしい限りですが、これからは若い時に稽古して自分で勝手に出来上がっていると錯覚している部分にも改めて目を向け、能がなにを言いたいのかを知りたいと思います。

また、舞台進行のことで、一つ気になったことがありました。
それはシテが太刀持に対して「あら花好かずの人々や花好かぬ人ぞをかしき」(「花が嫌いな人なんておかしいわ」)と小馬鹿にして花を売ることを諦め、次の序の謡となり、場面が変わるところですが、ここがしっくり来ませんでした。
そこで他流を調べると「それなら花を買いましょう。で、あなたの事を話して下さいよ」と太刀持の言葉があり、それに応えてシテがそれでは…とはじまります。こちらのほうが自然で判り安いのですが、喜多流は敢えて、そこを削除しています。となると、そのような心持ちで演じなくてはなりません。花を好かない、やさしさや余裕のない人なんて相手にしないわと、太刀持に言いながらも自分自身に言い聞かせるように相手を無視して語り始める、ある種の狂いとしての演出が喜多流には隠されているのかもしれません。

『雲雀山』は現在物です。現在物はただ型附通りに動いているだけでは観ていて面白くないはずです。演者の芝居心が必須です。
能という枠のぎりぎり境界線内側で、『雲雀山』ならば、乳母の心境をよく理解し、観客が判りやすく想像し易い状態にもっていく、それが演者が忘れてはいけない責務です。
能役者はともすると型を埋める、型をこなすことで安心してしまいがちですが、そこに留まらず、演劇的に中身を埋めなくてはいけない。舞台人としての埋め方、そこを考える必要があるのでしょう。

10代20代を振り返ると、ただ間違えないよう、正確に、格好良く、それしか念頭にありませんでした。あのときは自分なりに一途に、それこそ狂いのように集中して取り組んできた、と自信はありますが、今50代に入ると随分曖昧にやってきたものだと恥ずかしさも覚えます。
能、能楽師はある時を経て熟成されてこそ、その味わいが彷彿される、これが結論です。

今、演じ終えて、『雲雀山』は若年ではなかなか手強い現在物で、悲しいかな中年になり経験を積まないと判らないことが多々あることを知りました。

私がこの子方を勤めたのは昭和37年に故喜多実先生と喜多長世氏のシテで二回(7歳)、そして39年お素人の井手玲子氏のと、合わせて3回です。


雲雀山 子方 粟谷明生

少年にとって、初めから最後まであの藁屋の中に座らされ、ほとんど扉が開かない閉鎖された空間はまさに中将姫や小鳥の心境で、辛抱と我慢のなにものでもありません。

今回はその辛い役を内田貴成君がよく我慢して演ってくださって感謝しています。きっと将来、彼が『雲雀山』のシテを勤める時に、自分の経験を生かしてくれることでしょう。


雲雀山 後

勤め終えて楽屋に戻り、先輩能楽師の方から「あきくんも『雲雀山』をやるようになりましたね」と言葉をかけていただきました。
その言葉の響きが、大空高く楽しそうに飛ぶヒバリの声のように聞こえました。この鳴き声は演じる者だけに聞こえる歓喜の調べなのかもしれません。
(平成21年7月 記)

写真 
雲雀山 シテ 粟谷明生      撮影 石田 裕
面 曲見 装束 唐織  徳友寺  撮影 粟谷明生
雲雀山 子方 粟谷明生      撮影 あびこ喜久三

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