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○一調一声が得意だった

―『井筒』のあとに、一調一声の『玉葛』を一部分ですが聴いていただこうと思うのですが…。小鼓が曽和博朗(ひろし)さんで謡が菊生さんです。

山崎 とても面白いと思いますよ。やっぱり菊生さんは舞う人なんだね。自分が舞っているからリズムがものすごくいいんですよ。謡い屋さんに謡わせるとああはいかないんですよ。菊生さんは謡いながら舞っているね。だからとても面白いよ。僕なんかが聴いていると、舞台が目に浮かんでくるよ。

明生 一調一声は囃子方が打つ手組に合わせて謡うわけです。拍子に合っているところも、合わないところも、囃子に合わせ音の幅や高低差でふくらみをつけて謡う、しかも、今山崎先生が仰ったように、聞いている人がその情景が思い浮かぶよう…というのは、なかなか至難の技なんですね。

山崎 今回の一調一声は小鼓と謡ですね。小鼓に合わせてシテも一人で、リズムにはずれないように謡わなくてはいけない。ところが今言われたように、拍子に合わないところが難しいんです。ここに気持ちを込めて謡わなければよい一調にはならないんですよ。拍子に合わないところは自由に謡うところだけれども、そこをいかに気持ちを込めて膨らませて謡うか、これが一調の謡い方のコツなんですね。だから意地悪く言えば、これを聴くことで、その人がわかっている人かどうかがわかるくらいなんですよ。

明生 曽和先生との一調一声をNHKで収録するとき裏話がありまして…。リハーサルのとき、曽和先生が「菊生さん、どうしますか? 一回やっときますか?」と聞かれ「そうだね」と言ってお二人は別の部屋に行かれて申合わせをしたんです。
それで父が戻って来たときに「どうだった?」と聞くと、「まあ普通、とんでもない手組はなかったよ」と答えてくれて…。さて本番が無事終わって父が楽屋に戻ってくると「やっぱり博ちゃんは本番で違う手を打ってきたよ」と言うのです。
「博ちゃんは、馴れが嫌いでね。だから最後のところで申合とは違う手を打ってきたよ。でもな明生、僕もそうくるだろうなと覚悟していたからね」と、今でもその時の父の顔、克明に覚えていますよ。
なんでも、この録画はまずは曽和先生が先に決まっていて、NHKが「謡い手はどなたに?」と曽和先生に聞かれたら、「粟谷さんでお願い」とのお返事だったとか。これはNHKから聞いた話ですが…。

山崎 それもいい話だよね。馴れちゃダメなんだよ。いつも真剣勝負だから、一調一声というのは。だから面白いんだよ。何度もリハーサルやっているのをそのまま聞いても面白くもなんともない、緊張感がないよ。お互いに真剣勝負でぶつかってやるから、こちらにも伝わって来るんだよ。

明生 『玉葛』の「あかぬやいつの寝乱れ髪、結ぼれゆく思ひかな」というところ、幸流の鼓は「流し」といって、最初にチ チ チ チ チと干高い音の連打で始まり、次第にポン ポン ポンと音色を変えて連打するところがあるんですね。ここを小鼓への配慮なく無神経に謡うとダメなんですね。相手が楽しんで打ちたい気持ちを汲んで、ゆったりと邪魔にならないように、打ちやすいように、そう謡うのがよろしいようです。
 基本的には一調一声は一対一でするのですが、主人公、主役は小鼓なんですね。シテはそれを補うように、楽器奏者を盛り立てるように謡わなければならない、向こうが楽しく好きなように打てるようにしなければ、と父はよく言っていました。
だから、「あーかーぬ」というところは、向こうはたくさん打ちたいのだから、サラリと短く謡ってはダメで、そういうことを心得えておけよ、とよく言われましたね。

山崎 一調というのは囃子方のものなんですよ。囃子方が主人公なんだ。舞台の真ん中に座るのが囃子方。謡い手はそれに謡いかけるわけですよ。そのためには囃子方を生かさなければならないのね。そういうところが菊生さんはうまかった人なんですね。だからみんな、菊ちゃんに謡ってくれ、とオーダーが殺到したんでしょう。

明生 お囃子方の方では、父とか梅若六郎(現・玄祥)先生
だと心配しないですむ、好きなように打っても合わせてくれるといって歓迎されていましたね。僕みたいな新米は、お相手から「おい大丈夫か、こう打つからね、外すなよ」、なんて言われたりしてますからね(笑)。

山崎 そういうものなんだよ。あくまでも楽器が主だからね。だから能の地謡と一調一声の謡は全然別のものなのね。だから経験を積んでいないとダメなの。菊ちゃんのように海千山千の人でないと、囃子方は安心できない。だから菊ちゃんはよく囃子方に頼まれたんだね。

明生 囃子科協議会の調べによると、今まで一調一声の出番が一番多かったのは父だそうです。「菊ちゃん、なんでそんなに出ているの?」とは北村治さんのお言葉ですが。
結局、頼んでもみんな嫌がるのを、父は嫌がらなかったからでしょうね。私は嫌ですが…(笑)。

山崎 そりゃ嫌がるさ。それから囃子方の会というのはお素人さんが打つんだよね。それを打ちやすいように謡ってあげなくちゃならない。それには彼はとてもいいんだよ。

明生 プロの会でないときは苦労すると言ってましたね。お素人さんの中には謡に関係なく自由勝手に打つ方もおられるわけで…。それをハイハイとうまく無傷のように謡い終えて、「ああ、よかったですね。お上手、お上手、なんてお上手が言えるのは、僕と六郎さんぐらいだよ」と言っていましたよ。お弟子さんたちも失敗していてもわからないから、「先生、次回もまたやります!」となるんですって(笑)。
 一調や一調一声はみんな敬遠しがちなのですが、父は相手がどう打ってくるか分からないスリリングな感じが好きと言って、頼まれれば必ず受けていましたから。
で、「一調を謡う時の心得とか、コツはどうしたらいいの?」と聞いたら、「経験と馴れ」ですって。


○好きな曲『鬼界島』

―最後に菊生先生のお能を、名演と言われている舞台を見ていただこうと思いまして、

明生 菊生と言えば『景清』でしょう? 『景清』『弱法師』などが父のお得意十八番でしたよ。これに関わる話ならばいくらでもありますよ、裏話がね。

―すいません。『景清』と『弱法師』は放送に支障ある言葉がありまして、違う曲でお願いします。それで『鬼界島』を取り上げてみたいのです。先生がお好きでしかも工夫されたところがあるということで。2000年の舞台映像がありますので、これでお願いします。
 『鬼界島』は伝書に残っていない、というようなことが、明生さんのホームページに記載されていたのですが、先人のみなさん、そして菊生さんそれぞれのご工夫されていることがあるようでしたらお聞かせいただきたいのですが・・・。

明生 九世・喜多健忘斎の伝書には『鬼界島』と『草紙洗小町』の二曲についての記載はありません。それ以前の伝書にはありますよ。でも『俊寛』となっていて観世流に近い型みたいです。『隅田川』も『角田川』と書いてあったり。それらを全部整理したのが健忘斎なのでしょう。この我が家の伝書は私が知る限りでは、高林家と我が家の二家にしか残っていないと思います。家元のところにも以前はあったようですが戦争で焼けてしまった、と父は申しておりました。ですから貴重な伝書です。もちろんこれは祖父益二郎が手に入れて書家に写させたものですが…。昔の弟子は修行した後に、先生から写しのお許しをいただいたそうで…その写しなんです。
 そこに、今言った二曲がないのはどうしたわけなのか、幕府から何か言われたのか、他流からの何かの影響があったのか、それはもう全然分かりません。
 たぶんその後、時代を経て、十四世喜多六平太先生が流儀を再興され、この曲をなさって、現代やっている原型を創られたのではないだろうか、と言われています。それを実先生も継承されてと。といっても、実先生はあまり『鬼界島』をお好きではなかったので、あまりおやりにならなかったですし、弟子の稽古でもあまり細かなことは仰らなかったみたいですね。『鬼界島』は友枝喜久夫先生や新太郎伯父、父などが、六平太先生はこうやっていたという教えでやられていました。今は我々がそれを受け継いでいます。

―『鬼界島』はあまり多くは上演されていなかったのですか、それを六平太先生がやるようになってやるようになった?

明生 昔のことは判りません。ただ他の流儀と比べるとあまり多くは上演されていなかったかもしれませんね。でも父たちの時代は結構多くやっていました。やはり名人の先生の舞台を見て憧れて、いつか自分もあのように!と皆様やりたがったのではないですか。
六平太先生が『羽衣』が好きとなると直弟子たちも『羽衣』をやりたがる。先生が『井筒』をあまりやらないと、みんなもあまり・・・というようにね。

―菊生先生は『鬼界島』お好きだった?

明生 好きでしたね。父は非常に好んで『鬼界島』をやっています。上演回数もすごく多いですよ。

―伝書に記載されていないので、ある程度自由にできたのですか? 
菊生先生の工夫みたいなところもあったと聞いていますが。

明生 六平太先生からの教えに自分なりの工夫を重ねていったと思います。
『鬼界島』はシカケ・ヒラキ、サシ・ヒラキとか、左右して上羽して拍子をポンと踏んで・・・というような舞の型はありません。『小原御幸』もそうですが、謡が中心の曲ですので型らしき型はないのです。だからこそ役者の創造性が能そのものに反映され、それが充分許される特異な曲目と言えます。

山崎 この曲は能としての型がないので、あれが能かなと思うほど、非常に不思議な曲で、むしろとても演劇的。能というのは型というものがあって、個人が出せないカテゴリーがあるわけね。この曲のように型がないものは、能であるという核をもって演劇にならないように作る、これに難しさと面白さがあるんですよ。『鬼界島』のような演劇的なものはヘタをすると芝居になってしまうんです。芝居のセリフが謡になっているという違いはあるけれど、芝居になりやすい。だからこういう曲はやらないよという人も多いんだ。こんなの能じゃないと言う人もいるし。だけど、こういうものを能的にやるのも面白いという人もいる。

―菊生先生はその考え方だったんですね。

明生 そうですね。

山崎 菊生さんという人は、こういう能らしくないものを、能のカテゴリーの中にちゃんとやろうというところがあったのね。あの人、割合無造作な人ではあるけれど、非常に緻密にものを考える人なんだよ。一見素朴そうに見えて、何も考えないのかなと思うと、そうじゃなくて、非常に緻密に考えるんだね。僕は長年付き合ってきたから、そこがよくわかるんだね。非常に細かいですよ。

明生 父は、六平太先生の型をベースにして、歌舞伎の初代吉右衛門さんの「俊寛」がよかったから、それを取り入れて、自分なりのものを作った、と言っていました。
 最後の場面、迎えの船が成経と康頼(ツレ)を乗せて出て行き、俊寛だけ島に取り残されるシーン。この映像では両手を上げていますが、以前は片手でした・・・、とにかく、手をあげて船の行方をずっと見つめているシーンです。そのあと正面向いて少し下を見て右足一足をぐっとなんとも言えない力で後ろに引き下がり終曲となるのですが、その一連の一型で一人残された絶望感を表現するのです。そこを、吉右衛門さんの芝居を見て、右手をずっと上げてどんぐりまなこで船の行方を見つめているところ、そこが気にいって、それをいただいたんだと言っていました。最後には片手でなく両手をあげて、あーあーとか、お〜い、という嘆きの絶叫を無声で表現する、そう私は解釈していますね。

山崎 ずっと手を差しのべて船を追う、それだけで表現ね。船が遠くにいってしまった悲哀、一人取り残された悲壮感を、じっくり見せてくれる。能なんだね。ところがこれが芝居になると、歌舞伎なんか、船が遠くに離れて行くと俊寛は岩によじ登り、それがまわり舞台になって動いていって、船が小さくなっていく・・・そこまでリアルにやるの!と思うほどリアルなんだよ。能は、ただ船が静かに帰っていって、俊寛は手を差し出すだけ。これだけで孤島に一人残された悲哀が舞台全体に広がっていき、観るものの涙を誘うよね。お能はよくできているよね。

明生 それから、ツレの成経と康頼が二人で「痛はしの御事や、我等都に上りなば、よきやうに申し直しつつ、やがて帰洛は有るべし、御心強く待ち給へ」と謡うところがあります。「あ〜、かわいそうに。私たちが都に帰ったらとりなしてやりますから、心を強くして待っていて」と慰めるわけですね。ここをしんみりと、かわいそうという同情の気持ちを込めて謡いましたら、父が「お前らはそんなにしんみり謡うんじゃない。だいたいお前らは僕のこと、俊寛のことなんかそんなに心配していないんだよ。さらっと謡ってくれ。そうするとその後の僕の、“帰洛を待てよとの”の謡が利くから」と言うんです。
お前らが「痛はしの」なんてしんみり謡うと全然引き立たないじゃないか、と怒られたことがあります。ツレはツレらしくサラッと、内心はそんなこと思っていないけれど一応言っておくよ、ぐらいの気持ちで謡う心得ですね。そうするとシテはやりやすい、という事なのですね。

山崎 それはいい話だよ。

―それは腑に落ちる芸談ですね。なるほどなるほど。これは鑑賞のポイントにしていいですね。

山崎 こんな風に菊生さんは工夫しているんだよ。菊生さんは『鬼界島』が好きだったし、事実よかったよね。明生くん、喜多流としては今、『鬼界島』はあまり出ない曲なの?

明生 いいえ、出ています。喜多自主公演でもここ何年かで数回は出ていますし。
何となく能役者の力量が試される曲目ですね。

―それはなぜ?

明生 いくらシカケ・ヒラキだけを上手くやって舞っても、演じる心みたいなものを取得していないと本物ではないのです。能は一見なにも演者がしていないように見えるかもしれませんが、表現力が大事でそこで勝負しなければならない世界です。いろいろな曲や役を経験することもそれを得るための過程なのです。
『鬼界島』は立派に舞をこなすだけでは手も足も出ない曲です。まず謡が上手でないとダメですね。本当に説得力ある謡、涙が出てくるような謡ですが、それが発声できないといけないのです。私の型付には細かなことなどはあまり書いてありません。そういう意味では若年や未熟者には手に負えない曲と言えて、まあ四十代後半ぐらいになって、ようやくそろそろ演ってみたら?と言われる曲なのです。

山崎 このシテはかなり難しいと思うよ。菊生さんは好きだったらしいが、何回やっている? 僕も何回も観ているもの。

明生 そうですね。地方の公演も含めると、正確な数字はちょっと判りませんで、すいません。地方公演では、というよりどこでもそうでしょうが、日本人ならばこの曲は結構受けますね。わかりやすいし、お涙頂戴というの日本人好きなのです。

山崎 情が深い内容だしね。

明生 それから、シテの面は「俊寛」という専用面ですが、父はいつもアラブ人のような彫りの深い面を使用していました。決して品があるとはいえない独特な顔です。
俊寛僧都といえばいくら島流しになっているとはいえ、それなりの位のある人のはずですから、この顔でいいのかなと思うのですが、父はいつもそれを気に入って使用していました。
父は頭に花帽子をかぶるんですよ。位が高い僧ですから普通は沙門帽子なのですが、父は絶対花帽子。我々はこの花帽子に慣れてしまったせいか、これを見ると喜多流の俊寛だなという気がするのですが・・・。あの花帽子はシテにとっては呼吸がしにくい、苦しい被りものなのですが…かならず花帽子。父も年をとってからはきつかったと思うんですけどね。

山崎 花帽子は喜多流だけかな?

明生 ウーン、どうでしょうか。判りません、六平太先生のお好みなのかな〜。

山崎 僕は沙門でいいと思うけどねえ。

―花帽子にするのは何か?

明生 知りません。六平太先生がつけていたのを憧れて、かな?
みなさん花帽子、花帽子って仰いますよ。
伝書にないわけですから判りません。ただ喜多流でも沙門でなさる人もいますし…。

山崎 沙門が多いですよ。

明生 その面の話ですが…。彫りが深くてギスギスした感じのお顔をしているんですが、花帽子をかぶるとそれが大分隠れてしまい、独特のお顔になるのです。それが気に入っていたんですね。

―そういう、ご自分がなさった『鬼界島』について、菊生さんのメモとか覚書、型付みたいなものはあるんですか?

明生 ないですよ。父は書きません、ですから私が書くように、反抗精神ですね(笑)。


○創造と継承と

―それにしても、九世・健忘斎の伝書には興味ありますね。それを見せてもらえますか?
我々一般の人間は、そういう能楽の演出ブック、演出帳というのは興味があります。
能楽師の方はこういうものをご覧になって演技を伝えていらっしゃるのかなと思うのですが、一般にはそれがなかなかわからないものですから。これを一度見せて、その中に『鬼界島』が書かれていなかったということを示したいのですが・・・。

山崎 あんまり見せたくないやねえ。

明生 それはサービスしますよ、いいですよ。

山崎 一種の型付だよね。

明生 父はなんでも健忘斎の伝書があるからいいんだといって、ほとんど書き留めたりせずに、それを頼りにしてやっていました。自分の工夫は口で語るばかりで・・・。友枝先生のところにはこの伝書がありませんが、友枝喜久夫先生はご自身がやられたことを細かく書いておられて、それが次の世代の友枝昭世氏がご参考にされているようです。
観世流の銕仙会ならば、華雪先生が几帳面に細かく書き残されたものがバイブルみたいになっていて、それを現代の方々が読まれているようですよ。だから銕仙会の人はその華雪メモが重宝だとお聞きしていますが。

山崎 昔の喜多流は、名人・六平太が何かやろうと思っても、自分のところには型付がないわけです。それで九州から来た友枝に「これやったことあるか」「やりました」「そうか、ではやってみろ」と言ってやらせて、それを見て、全部作ったという話がある。
 家元なのに『石橋』をやっていなかったんだな、六平太という人は。ところが素人の弟子で偉い人がたくさんいたから、今度お前の家で『石橋』やらせてあげるからと言って、それを写して、今その型が家元のところに残っているという話だけどね。本当かウソかわからないけれど。それぐらい型付がなかったんだよ。

明生 関東大震災と第二次世界大戦で二回焼けていますから。六平太先生が二回も焼けちゃしょうがないよ、と言っていたという話があります。
喜多流は外様大名が庇護してくれていましたからね。福岡の黒田 熊本の細川、秋田の佐竹、安芸の浅野、そういう遠いところの大名のところに伝書が残っているわけです。
震災の後、落ち着いたころにそういう遠方の弟子に伝書を持ってこさせて写したようですが、それも戦争で焼けてしまったんですね。

―九世の伝書は喜多流で残っているもので古いほうですか。

明生 九世というのは喜多健忘斎といって、喜多流の中興の祖と言われている人です。
江戸時代後期の人ですけどね。このころは観世大夫も宝生大夫も若かったので、健忘斎が能楽界を牛耳っていて、とにかく優秀な方だったということですね。面の目利きでもあったようです。健忘斎以前の伝書もあるにはあるのですが、現代にマッチしないというか、あまりや役に立たないものが多いのです。
 健忘斎の伝書は曲目ごとに文章が連なっていて、この時はこうすると書いてありますが、最後に、こういうことをすると大損なりとか、これは未熟者はやらぬことなりとか、この型は吉とか、そんな書き方をしています。健忘斎がどういうことを言おうとしたか、その行間を読むことが大事で、またそれが楽しいのです。
 父はもっぱらこの健忘斎の伝書をベースにしていましたが、そこに必ず菊生流を加えるんですね。だから創造と継承ということをよく言っていました。伝統芸能は継承が大事、それは当然ですが、決められたことをそのままやるのではなく、自分で考え、工夫して、創造して行くことが大事ということですね。こういう役者魂が大事なんだということを、父はいつも言っていました。
なにか新しいことを私たちがすると、「今青い鳥をさがしているんだね、そう捜すことが大事、青い鳥が本当は身近な我が家や当流にあるということを、他人が教えてもだめなの、自分で捜して、自分が納得しないとだめなんだよ…」と。

―山崎先生も最後にひとことお願いします。

山崎 僕はこうみえても喜多流を習っていたんだよ。僕の先生は高林吟二さんでね。
で、菊ちゃんと僕は九歳違いだけどね。僕が高校のときに一緒に遊んでいるんだよ。家が近くだったから。有ちゃん、有ちゃんと、よく僕のところに来てくれてね。長いつき合いだったからね。菊ちゃんは「私は次男だから」ということをよく言っていたね。次男だから長男を立てて出過ぎたことはしない、だけど次男としてやるべきことはいろいろあって、ちゃんとやったんだ。喜多流や粟谷の家を支えるということね。次男としての苦労もした、その半面、次男だから割に自由に創造できる面もあったのね。非常に楽しそうに能をやっていたよね。

―山崎先生の方が菊生先生より年上なんですよね。



写真 左 粟谷明生と山崎有一郎 録画後

p>山崎 そう。今年僕は96歳ですよ。もう能楽界で私より年上の人は誰もいなくなったね。
六平太先生や実先生、古い人の能を観ている人がだんだんいなくなってきたね。
 飯田橋3丁目にあった舞台なんか知らないでしょ。僕が最初に稽古に行ったのはそこだったんだよ。僕が初めてそこに行ったのは5つか6つの頃のことだよ。11月の終わり、雪がちらちら降っているときだった。その舞台のそばに木田建設事務所というのがあって、それは僕の親父の知り合いの事務所なんだ。僕の弟が生まれるときで、僕と妹がその木田の事務所に預けられることになって、飯田橋で人力車に乗ったんだ。「木田」といったのに、「喜多」と間違えて、喜多の舞台に連れて行かれてしまったんだよ。入ると右側が応接間のようになっていて、六平太先生と奥様がおられてね。僕がお二人にご挨拶をするとどういうわけか入れてもらってね。それで晩になって、八時、九時になる。「坊ちゃん、お腹すいたね」「はい」と言ったら鍋焼きうどんが出てきたんだよ。奥さんたちも困ったと思うよね。布団も敷いてくれてね。翌日になって親父が飛んできて六平太先生にぺこぺこ頭を下げているんだ。何でお辞儀をしているんだろうと僕は思ったけれど、それは喜多と木田の間違いだったんだね。この話、僕はほうぼうで書いているけれどね。六平太先生との最初の出会いですよ。そのあと、稽古に行くようになったんだね。
 その時分は喜多さんには伊藤千六、福岡周斎とか、高林吟二とかそうそうたるメンバーがいましたよ。あとで喜多流の幹部になるような人たちもね。そういうことを知っている人はもういなくなっちゃったんじゃないかな。

―そういう話をまた今度いろいろ聞かせてください。今日はありがとうございました。

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