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『求塚』を演じて 〜三人の苦悩を思う〜
                      粟谷 明生



一人の女が複数の男達に求愛され、返答に困って難題を課し果たした男を選ぼうとする物語はあまたあります。男達が難題を解決できずに退散してしまうのが竹取物語「かぐや姫」。

万葉集や大和物語をもとに作られた能『求塚』も一人の美しい女に二人の男が求愛するところは同じですが、男達が難題を解決したために起こった悲劇を描いています。愛された女はどちらとも選び得ず、川に身を投げ、愛した男たちも刺し違えて絶命し、そして皆、地獄に落ち苦しむ話です。一見純愛物のように思われる内容ですが、稽古していて、個人の好いた、好かれただけではない暗い背景、作品の奥深いところに三者三様の人間模様が見えてきました。作者は観阿弥か世阿弥かはっきりしませんが、近年世阿弥作との意見が有力とは研究者たちの判断です。

父の七回忌追善の粟谷能の会(平成24年10月14日)で、この奥深い作品『求塚』を披くことが出来たことは、感慨深いものがあります。
では、この能の奥深さ、背景とは何でしょうか…。一人の女と二人の男の素性や事情はどのようなものなのか、そこから探していきたいと思います。
美しい女の名前は菟名日処女(うないおとめ)。二人の男、小竹田男(ささだおのこ)は摂津の国の者、血沼益荒男(ちぬのますらお)は和泉の国の者。両者の菟名日処女への思いは愛とか恋とかだけでない、二人は単なる恋敵だけではない、もっと根深いものがあるのです。
それは土地の権力争いまでも絡む政治的な駆け引きがあった、と私は仮説を立て想像を膨らませ舞台に挑みました。



菟名日処女は、かぐや姫と違い裕福な豪族の家庭に生まれ育った可愛いひとり娘で、彼女を手中にすることは、即ち領土や経済まですべての利となる、そのため地元からは小竹田男、他国からは血沼益荒男が選ばれて、彼らは一族だけではない、国を背負っての使者の役であり、その使命を果たすために必死な覚悟と意気込みがあったのでしょう。それがもくろみと反して大事な女を自殺させてしまい取り返しのつかない事態になってしまいました。男たちは共に故郷に帰れなくなり、互いにその責任を相手に押しつけ啀み合い殺し合ったのだと思います。それは単に愛する人をなくした悲しみなどではない。火に燃える鶴ケ城を見て泣きながら刺し違えた純心な白虎隊の精神とは明らかに違うのです。憎み合い戦い抜いた挙げ句の相打ちです。




喜多流の伝書には「刺し違えて空しくなれば」の場面で、刺し違える型についての記載はありません。しかし先人たちは、「刺し」で少し前のめりになり「空しく」でのけぞるように後ずさる型をなさいました。これは十四世喜多六平太先生の考案ではないか、というのが楽屋内の話です。



この型は男同士の殺し合いの壮絶さを強調する、演者には難度の高い型です。今まで、引き分けひらき(前後一歩の移動)で処理していたものを、友枝昭世師のご指導もあって四歩前に出て、四歩あとずさりの大きな動きに変えて試みました。ご覧になられた方がどのように感じられたのか、お聞きしたいところです。



それにしても菟名日処女はどんな女だったのか、演じる前にいろいろ想像してみました。美しく可愛いことに間違いないと思うのですが、内面的にはどうなのか。いざ決断となると自分では判断能力が足りなく、優柔不断な一面を持つ女ではないか、と。もっとも女がひとりで判断出来る時代ではなかったと言われればそれまでですが。自己主張など考えられない、ただただ可愛い御姫様のような姿が連想されます。シテの詞章にはありませんが、鴛鴦を射止めた男の方を選べ、と指示したのは両親で、この指示も私の想像の根拠の一つになりました。



さて、舞台進行に合わせて話を進めましょう。
前場のシテとツレの出(登場)は一声ですが、本来は全員本舞台にて立ち並びで謡うように伝書に書かれています。近年、先人たちはこれは景色が悪いと避けられ、橋掛りにて謡うように変わりました。今回も同様に、ツレ二人を先頭に、シテが後から出てお互い向き合い橋掛りにての連吟としました。
国立能楽堂のように長い橋掛りはシテとツレの距離が遠く離れてしまうため、声が聴き取りづらく音が揃いにくくなるので役者泣かせです。特にツレが若年の場合、鬘をつけて耳を塞がれ、謡い声も面で籠もってしまうので聞きづらくなります。そこで今回は一声謡の後、サシコエの前に本舞台に移動する演出にしました。後日、ビデオやレコーダーで再確認すると謡も揃い、景色も悪くなかったので、それ相当の効果はあったと安堵しています。



春とはいえ未だ残雪のある生田川辺りの景色を謡う前場の前半場面はとにかく明るく、華やかに謡わなくてはいけません。『求塚』という曲の位の高さで、とかくゆっくり、丁寧に謡い、そして囃されていた時代がありましたが、これは作者の意図に反します。若菜を摘む場面は、後の暗い恋の告白と、明暗で対比させるために仕組まれたものです。その意図を外しては意味を失い演じ手失格と思います。

 

喜多流はシテの装束も面もよいものを選び、ツレはレベルが落ちるもので済ます、という風習、楽屋思考があります。私もそのようにすることもありますが、今回の『求塚』では、若菜摘みの女の一集団が皆同じように見える景色でありたい、と思い装束選びと着附の仕方を考えました。ツレの装束の付け方はいろいろあります。唐織を熨斗目付け(のしめつけ)にするか、肩脱付け(かたぬぎつけ)にするか、または腰巻水衣という選択肢もあります。今回はシテが孤立して妙に目立つのは嫌い、三人同じように見えるように、全員唐織の熨斗目付けの着流し姿にしました。



それでも能役者のスケベ心でしょうか、シテ一人だけが不思議となぜか際立つ、なにか感じさせるものが出せないかと、シテの面を「増女」に変えてみました。伝書にはシテ、ツレ共に「小面」と書かれていますが、三代喜多宗家宗能の「増女にても…」との資料が私の背中を押してくれました。
「増女」には「泣増」やその他いろいろな面が我が家にはありますが、「宝増(たからぞう)」の艶が似合っていると選びました。



演能後、「ワキの言葉の後にすぐにツレが謡い出したのが気になったが、あれは意図的なのか」とのご質問を受けました。
能では、問われた人が問うた者に答える、これが普通で当たり前ですが、『求塚』ではワキがシテに向かい「この辺が生田ですか?」と質問すると、ツレが「ここが生田と知らないなんて…」と謡い、シテの受け答えを遮るような構成となっています。これは珍しい特異な演出です。この特異を演者は効果的に見せる必要があります。そこでツレ役の息子・尚生と佐藤陽には敢えてワキの謡が終わると同時にかぶせるように突っ込んで謡うようにと指示しました。二人ともよく私の気持ちを理解して謡ってくれたことに感謝しています。


間語り 野村万蔵氏

さて後場になる前に、間語り(あいがたり)についてご紹介しておきましょう。
以前の演能レポート『求塚』(「友枝昭世の会『求塚』の地謡を勤めて―間語りから見えた男達―」参照)にも書きましたが、ここでも、シテ方は間語りをよく理解して作品を演じなければいけないと自戒をこめて言いたいと思います。
間語りはときに、シテ方の詞章にはないことも補って、物語をくわしく語ることがあります。
『求塚』の間語りは山本東次郎家の、血沼益荒男が死後も小竹田男に苦しめられているので旅人に刀を貸してくれと頼むと消えて、その後、血の付いた刀が残っていた、という長い語りがあり、私には鮮烈に印象に残っていて、作品の面白さを増し理解しやすくさせてくれると感じていました。本来、和泉流にはこの部分の語りはありませんでしたが、野村萬先生が観世寿夫先生の『求塚』のアイを勤められたときに、従来の語りではシテ方の語りと内容が重なるので横道萬里雄氏に新しく語りを創作して下さいるように依頼なさったとお聞きしました。少々長い語りになるので、今回アイをして下さった野村万蔵氏には大変ご負担をお掛けしましたが、この語りを聞くと作品の内容が一段と判り易くなると思い、今回やっていただけて感謝しています。



『求塚』はもともと宝生流と喜多流にあり、金剛流、観世流、そして近年金春流も復曲して現在五流にあります。
喜多流の演出の特徴は後場のシテの出にあります。「おお曠野人稀なり、我が古墳ならでまた何者ぞ」と太鼓の入る出端で謡い出す他流に比べ、喜多流のみ静かな習一声で「古の小竹田男の音に泣きし、菟名日処女のおき塚は、これ」と謡ったあとに「おお曠野人稀なり…」と続きます。この「古の…」と細々と痩女の位で引廻し(ひきまわし)で覆われた塚の作り物の中からの謡が難所です。どのくらいの声量でなら謡を届かすことが出来るか、ここが勝負になります。何を言っているのか聞こえないのも、また逆にうるさくなっても成立しません。ここは『景清』の「松門の謡」に共通するところです。「謡い声を固く凝縮しろ」と父の言葉が思い出されます。さて今回はどうであったでしょうか。



後シテの面は「痩女(やせおんな)」です。窶れ果てた顔立ちで、『砧』『定家』『求塚』に使います。『砧』の芦屋夫人は最後回向により成仏出来ますが、『定家』の式子内親王も『求塚』の菟名日処女も成仏できず、式子内親王はまた定家葛の匍う墓へ、菟名日処女も暗闇の火宅の栖へと帰ってゆきます。そこにしか戻れないのでしょうか。救われない終幕にいったい何を感じさせたいのか、作者の意図を見出したいのですが、答えはいくつもあるようにも、いや答えなどないかもしれない、それが能である、と思ったりもしています。能はやはりむずかしい、決して簡単なものではないようです。



「痩女」を使用する時は、その窶れた表情に合わせて、必死で前に歩もうとするも力のない重い足どりとなる特殊な運びをしますが、これを「切る足」と呼び、これも喜多流ならではの演出です。



さて、演じ終えて、私に何が残ったのか。
それは三人が皆、それぞれに思い、それぞれの行動をとったが、結果はよい方向には向かず残念なこととなった、三人が三人とも苦悩のなかにいるという苦い思いです。この苦悩、無念さは今の私にも思い当たり共感するところがあります。いろいろ手段を凝らし手に入れようとしても適わない、遮り邪魔だてするものがあって事をうまく運ばせてくれない、そんな風に悲観する時もあります。
小竹田男や血沼益荒男の気持ちがなんとなく判り哀れに思えてくるのは、自分に照らしているからかもしれません。



私は小竹田男や血沼益荒男を演じた訳ではありません。愛された菟名日処女を演じたのに、愛し、そして手中に納めたいと思う男たちの気持ちが充分過ぎるほど判りました。もっともこの程度の感想では、まだまだ『求塚』を演ったとは言えないよ、と父がどこかで笑っているような気もしています。       
(平成24年10月 記)

写真提供  
森英嗣  

最後の2枚 青木信二

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