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喜多流自主公演(11月24日、於・喜多能楽堂)で能『錦木』を勤めました。
最初に、この能のあらすじを記しておきましょう。
旅僧(ワキ)が錦木を持った男(前シテ)と細布を持つ女(前ツレ)と出会うと、男は僧に思う女の家の門に錦木を立てる風習を語ります。思う女が取り入れないため三年もの間、立て続け遂に命絶えたことを語り、その男の祀られている錦塚に僧を案内し、男と女は塚の中へと消えます。
(中入り)
男女のために読経する僧の前に、男(後シテ)と女(後ツレ)の亡霊が現われ、弔いを喜び懺悔物語を見せます。適わぬ恋でしたが読経のお陰で今宵一夜、女と盃を交わすことが出来て喜び、舞を舞う男の霊。
が、しかし夜明けと共に僧の夢は醒め、幻の男女はまた幽冥へと消え失せるのです。
前場は能因法師の詠んだ「錦木は立てながらこそ朽ちにけれ、けふの細布胸合わじとや」の和歌を中心に悲恋物語を語り、後場は機織りの模様や三年通いの有様を展開し、生前の恨みと死後に適えられた法悦の境地を男の舞で表現します。

世阿弥作『錦木』は男の女への恋慕執心を描く曲ですが、似た曲に『通小町』があります。百夜通いの九十九夜で果てる深草少将(『通小町』)に対して三年、九百九十九夜まで通う『錦木』の男の執心、『錦木』のほうが想う気持ちは上回るのですが、残念ながらその上演回数はあまり多くありません。その理由ははっきりしませんが、演じ手としての私の感触では、まず1時間半を越える上演時間と、演能者の適齢期が広くないことが上げられます。だれもが演者になれるかというと、なかなか難しいものがあるのです。力量と似合いの年令や容姿など、様々なものが揃わないと説得力に欠けるからではないかと思われます。力量面では、楽屋内の技芸評価の登龍門的な扱いの意識があることも否みません。能で男女の恋物語を展開する時に、どのように男の苦悩を表現出来るかがカギになり、それらが図られる曲と言えるでしょう。従って、あまり若年では表現できず、かといって、あまり老年でも似合いません。


それは前場のシテ・里男が直面で登場するからです。直面は、自らの生身の顔を役柄の「面」として舞台に出ますが、その風貌、容貌が観る側の曲に対する想像とイメージが重なればよいのですが、重ならない場合は難しいです。背中が丸まり頭髪も薄くなり、足どりも不安な高齢者では不似合いです。また逆に、どんなに容姿が端正な若者であっても、男の遂げられぬ恋を謡と舞で表現するには、果たしてどうだろうか、それには時間が足りません。
それほどまでに演者の適齢が表面化してくる厄介な曲だということです。私も58歳という年齢で勤め終え、この歳だから曲の理解度を高められたとは思いながらも、容姿的には少し遅かったようにも思えてなりませんし、まだまだ本当の男心が判っていないのかもしれないと、反省もしています。ただ58歳なりの『錦木』が演じられたのではないだろうかという満足も正直感じているところです。

さて稽古に入り疑問点が出てきました。なぜ女は男を受けいれなかったのだろうか。三年までも通ってくる誠意ある男性を。そして、そもそもこの女の素性、正体とはなんだろうか、まずここから解明することを始めました。

能には男女の恋物語を作品としたものが数多くありますが、親の介入で破談になる話には『求塚』『船橋』があります。いずれも、謡本の詞章だけでは真相が判らなかったのですが、『錦木』もまた同様でした。能は謡本の詞章だけでは作品の深いところを探れないかもしれません。時には間語りや出典、原典となる物語なども知る必要があります。
シテ方の能楽師はまず謡を覚え、次に型をはめていきます。それらを覚えると舞台に立ち稽古に入ります。稽古の最初に思ったこと、それは「一緒に謡っている前ツレがだれなのか?」でした。当初は気になりつつも、自分の動きだけで手一杯でしたが、連日の稽古をするうちに明らかにしたくなってきました。

前シテは後シテと同様、錦木を立て続けた男です。前場に同行する前ツレは中入り前に「夫婦は塚に入りにけり」と謡うので夫婦であることは説明されています。が、しかし三年通い続けた男は結局思いを遂げずに死んでいるはず、妻が一緒にいるはずがないではないかと、矛盾を感じてしまいます。この疑問は錦木悲恋伝説を読むことで解決出来ましたので、ここで簡単ではありますが、ご紹介いたします。

昔、錦木(にしきぎ:今の鹿角市十和田錦木)の地域は、都から来た役人、狭名大夫(さなのきみ)が統治していました。狭名8代目になる狭名大海(さなのおおみ)には政子姫(まさこひめ)というとても美しい娘がいて細布を織るのが上手でした。一方そのころ、近くの草木(くさぎ)というところに錦木(にしきぎ)を売ることを仕事にしている若者が住んでいました。錦木は、「仲人木(なこうどき)」とも呼ばれ縁組に使うもので、当時は男性が好きな女性の家の前に錦木を置き、その錦木を女性が拾って家の中に入れた場合は、結婚を許すという意味、との決まりがありました。

ある日、若者は市日のときに政子姫を見て、その美しさに惹かれ恋心を抱きます。翌日から毎日毎日、一日も休まず、政子姫の家の門の前に錦木を立てました。しかしながら、錦木は一度も家の中に入れられることはなく、家の前に立てられたままでした。そのたびに若者は草木へ戻る帰り道のそばの小川で、涙を流して泣きました。その川は、のちに涙川と言われるようになったということです。

一方、政子姫は、家の門の前に毎日立てられる錦木を見て、機織りする手を止め、こっそり若者の姿を見るようになっていました。そして、いつの間にか、政子姫も若者を好きになっていたのです。しかし、身分の違いなどで親は取り入れることに同意しませんでした。つまり、女、政子自身は錦木を売る農家の青年を拒否していた訳ではないのです。前場の夫婦は亡霊たちの化身ですから、ふたりが一緒に登場するにはそれなりの意味づけがあるということです。

前ツレは、能では政子と紹介されていませんが、細布を片手にかけて登場します。何故、女は白い布を、それも鳥の羽の付いた織物、細布を持っているのでしょうか。
錦木物語にはもう一つ重大な、結婚の約束ができなかった訳が書かれています。
当時、五の宮岳(ごのみやだけ)の頂上に巣を作っている大鷲が里に飛んできては子供をさらっていました。あるとき、若い夫婦の小さい子供が大鷲にさらわれて村人がとても悲しんでいると、ある一人の旅の僧が「鳥の羽根を混ぜた織物を織って子供に着せてやれば、大鷲は子供をさらっていかなくなる。」と教えてくれました。布に鳥の羽根を混ぜて織ることは非常に難しく、よほど機織りがうまくなければできないものでした。そのため、機織りの上手な政子は周りから機織りを依頼されていたのです。政子は、子供をさらわれた親の悲しみを自分のことのように思い、3年3月を観音様に願かけしながら布を織っていたのでした。その願かけのために、政子は若者と結婚する約束ができなかったのです。若者は、そういう理由も知らず、毎日せっせと3年もの間、錦木を政子の家の前に立てていました。そしてあと一束で千束になるという日、若者はすっかり衰弱し、門の前の降り積もった雪の中に倒れて死んだのです。政子は非常に悲しみ、それから2、3日後に、若者の後を追うように死んでしまいました。政子の父親は、2人をとても不憫に思い、千束の錦木と一緒に、一つの墓に夫婦として埋葬しました。その墓が後に錦木塚と呼ばれるようになったのです。

このように書かれ、なぜ女は男を拒んだのか? なぜ前ツレの女が鳥の羽の付いた細布を持っているのか? という私のなぞは解かれました。

能『錦木』の物語の大半は、男の女への恋慕の苦悩を描いています。
しかし、この曲は心底何を言いたいのだろうか・・・。我々は何を感じればいいのでしょうか。
 
『錦木』はふんだんに語られる生前の懺悔とその怨みが強く押し出される演出になっていますが、実は死後に結ばれた瞬時の喜びを伝えたいのではないでしょうか。
男にとって、死後であっても愛する人への抱擁、情交、その一夜の喜びは無上なのです。そしてその歓喜はそれまでの苦悩を盛りだくさんに見せることで、逆にひかり輝きます。能はその喜びを「舞」という手法で表現します。

喜多流の『錦木』の「舞」はあまり荒く激しくならないように舞う、という教えがあります。我が家の伝書にこのことについて興味引く面白い記述がありますのでご紹介します。
「この曲、舞の謡い吟和らかなる故、兎角(とかく)静かになる也、宜しからず。
随分早立ちたるを用ふ。舞の前より俄に早く成ることを嫌ふ也。 中略 
早立ちにても、にがみ無きは悪し、いかにも、にがみたるが宜し」
とあります。
「謡う音色が柔らかいから静かになりがちになるが、そうではない。気が立つ、心弾ませるような心持ちを持つこと。しかし、いきなり気が立ち弾むようでは荒くなるので良くない、疾き舞であっても落ち着きがなくてはいけない、落ち着きながらも強く疾き心で舞え」
と、細かく演者の心持ちが記載されています。

若者の歓喜をただ荒く激しいだけで終わらせてはいけない、円熟の舞を加味することでより観る者に想像力を膨らませることが出来る、ということなのでしょう。確かにそう納得して勤めるようにしましたが、正直白状すると、実は私の心は裏腹に、農家の若者であろうとなかろうと若者の情熱、恋慕は兎角激しく、時には少々乱暴であっていい、それこそが若さの象徴だから、強さに拘れ、疾きに拘れと、囁くのです。それはあたかも、だれかが私の心に囁くように響いてきました。

私が演じたかった男の霊の舞は、900回を越えて通いくたびれた頃の男の舞ではなく、心躍らせながら通いはじめた頃の男の舞なのです。今これを書きながらふり返ると、男を昔の自分に照らして舞っていたようにも思えます。あの呟く声は・・・、ふとあの錦木を運んだ若者の霊が58歳に取り憑いてくれたのかもしれない、などと・・・、こんな不思議な気持ちで演能を終えたのは、はじめてのことでした。

能の舞は5段(6ブロック)で舞うのが常ですが、今回、あえて3段(4ブロック)に縮めることによって、楽しく気持ちよいひとときが、瞬時にあっという間に消えてしまうというように演じました。そのつかの間の喜びと余韻を味わっていただけたら、この作品は、屹度作者も喜んでくれると思っています。           
 (平成25年11月 記)
写真協力 巻頭 前島写真店 その他 撮影 石田 裕
シテ・粟谷明生 シテ連・内田成信 ワキ・森 常好
文責 粟谷明生

 
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