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『六浦』を勤めて
平淡ななかの閑雅な風情

京浜急行逗子線に六浦駅がありますが、これは「むつうら」で、能『六浦』は「むつら」と読みます。舞台となる称名寺は六浦駅の近くではなく、金沢文庫駅から歩いて行ける距離で、大きな池に橋がかかる浄土庭園を持つ、景色のよい大きなお寺です。能『六浦』を喜多流自主公演(平成26年11月23日)で勤めました。
能『六浦』の季節は秋。都の僧が相模国(今は武蔵国とも)に下り、六浦の称名寺に立ち寄ると、あたり一面錦秋の景色であるのに、一樹だけ紅葉しない楓を見つけます。不審に思っていると、女性が現れ、昔鎌倉の中納言為相卿(ためすけきょう)が、紅葉した楓に感激して歌を詠んだため、楓は感激恐縮して以後紅葉しなくなった所以を語り、実は楓の精であることをあかし消え失せます。夜、旅僧が読経しているとふたたび女は楓の精の姿で現れ、僧に仏徳を感謝し、四季彩る草木の美しさを語り、夜遊の舞を見せ、夜の明ける前に消え失せます。

僧に救済を求めるでもなく、ただ報恩のための舞台展開は、純正の鬘物の定型ではありますが、やや削り過ぎと思えるほどシンプルな内容となっています。為相卿は、藤原定家の孫で歌道冷泉家の祖となる方で、詠まれた歌は「いかにしてこの一本に時雨けん、山にさきだつ庭のもみじ葉」です。山々がまだ紅葉していないときに、この一樹だけが紅葉色深く類無き美しさだったため、それを愛でて詠まれたものです。

能には草木の精を主人公にした曲が数多くあります。昔から日本人は草木に精霊が宿ると信じ、草木を愛で信仰してきたのでしょう。今は理解しにくい設定も自然に受け容れられていたものと思われます。春は桜の『西行桜』、秋は柳の『遊行柳』、両曲とも面は「石王尉」をかけ老人の姿となります。一方、伊勢物語に絡めた杜若の精を描く『杜若』は、若く美しい女性の設定で、『芭蕉』の精はやや地味な扱いとして中年の女性で演出されていて、双方両極端の位置にあると思います。では喜多流の『六浦』の置かれた立場はどこでしょうか? 


近年は、面は前後とも「小面」、装束は前場が紅入唐織、後場は萌黄色長絹に緋色大口袴が多いため、『六浦』はやや華麗な『杜若』に近いと思われます。
六平太芸談に、十二世能静が幕府表方の舞台で『六浦』を勤めた時、わざわざ波に扇面を流した模様の緋色絵大口袴を作らせ、黄色地に紅葉を散らした長絹を用いて、綺麗な装束に見物一同驚いた、との記録があります。『六浦』という曲が、余分なものを削りに削ったシンプルな物語で、華やかさに欠け寂寞たる淡泊な能のため、華麗な装束で気を引こうと、演者の考案であったと思われます。私も真似て、粟谷家にある緋色に絵柄のある紋大口袴を使用してと、当初は思っていましたが、我が家の伝書の「後、長絹色大口、但し、緋は用いるべからず」の一文が目に飛び込んで来ました。そこで今回は敢えて緋色を使わない演能を心がけました。

今回の自主公演は、初番が『小督』でシテ連が「小面」を二面使用し、三番目の『黒塚』の前シテの面は「曲見」という周りの環境を考慮して、『六浦』の前シテの面は「浅井」をかけて紅無唐織を着て、後シテは「増女」に替え萌黄色長絹に鬱金色大口袴という、やや華やかさを押さえた格好にしました。紅入りの演出の狙いは紅葉していた時の楓の精を再現する気持ちですが、紅色を控えることで、以後紅葉しなくなった楓の精の気持ちで演じることが出来るのではないか、というのが、私の狙いでした。もっともお囃子方の皆様に「喜多流の平素の姿とは異なりますが、いつも通りの位でお願いします」と申し上げると、「他流は紅無ですから別に問題ありません。喜多流だけです、小面は・・・」とのお応えが戻ってきて、ほっとしました。

さて、昭和版の謡本の曲趣には次のように書かれています。
「一首の歌を題材として草木の精を舞わせる趣向であるから、内容もすこぶる単純であるが、優雅清麗の風情は三番目能の小品として、綿々たる恋情を述べるのではなく、四季折々の草木のおのずからに時を得る叙景的詞句も、平淡の内に滋味がある。功成り名遂げて身退く、という理念も人間的な処世の情とは異なる」とあります。「優雅清麗の風情は三番目能の小品として」のくだり、そのよさはわかります。しかし、最後の「人間的な処世の情とは異なる」の一文が気になりました。人間が世間で暮らしてゆく有様、気持ち、とは別物で演じなければいけない、という意味でしょうか?

シテ謡に、なぜ一樹だけが紅葉しないのか、楓の気持ちを述べる詞章があります。
「功成り、名遂げて身退くは、これ天の道なりと言う、古き詞(ことば)を深く信じ、今に紅葉を止めつつ、ただ常磐木の如くなり」。手柄をあげ、名声も得たならば、位から身は退く、これが天の定めで、この言葉を信じて楓も紅葉を止め、その後は一年中緑葉を保っているというのです。楓の精でありながら極めて人間的な詞です。草木の精を擬人化して人間と同様に心を持たせ、世の無常を語らせようとする能の演出で、人間的な設定をしておきながら、一方で人間的な処世の情とは異なる、という考えが、稽古していてどうもうまくかみ合わない、というのが演者としての本音です。
どのように考えたらよいのだろうか、と演じ終えた今も答えが出せないでいます。

『六浦』という曲は、とくに見せ場があるわけでもなく、強い心の訴えがあるわけでもありません。淡々と平淡です。しかし、この淡々と平淡を観ていただき、そこからなにかを感じていただく、そういう曲なのかもしれません。演る者も観る者も、見識を高く持ちながらも、それに満足せず、頼らない、もっともっと上の位に上がれる者が、草木の心がわかり、この曲の深い味わいを感じられるのかもしれません。
『六浦』を面白く見ていただくためには、まずは演者自身の心技体が高位に達しなくてはいけないのは勿論ですが、功も成らず、名も遂げていない我が身が、遂には身退く、という観念、理念で舞うことは、少々早かったようにも思えます。舞も謡も特にむずかしいところはなく、ある意味とても簡単に勤められる『六浦』ですが、実は形を受け継げば済むという能ではなく、能の本質を見極めることがとても大事で、そこがむずかしい曲であると知らされた、というのが演者としても感想です。
(平成26年11月  記)

文責 粟谷明生
写真 能『六浦』シテ・粟谷明生 撮影 前島写真店 成田幸雄
面 「浅井」「増女」粟谷家蔵 撮影 粟谷明生 
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