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演能機会が少ない『正尊』に取り組む

粟谷 明生

正尊 後シテ粟谷明生 撮影 青木信二

【序にかえて 平成27年は『正尊』59歳『安宅』60歳】
 平成27年の私の粟谷能の会は、春は弁慶相手に『正尊』(3月1日)を、秋はその弁慶役の『安宅』を「延年之舞」の小書で勤めようと、かねてより計画していました。この2曲はともに、直面物、現在能、義経物(弁慶物)という共通項があります。さらにいえば、どちらも登場人物が多い曲であり、「読み物」という難しい謡があり、聞かせどころがあります。『正尊』の「起請文」、『安宅』の「勧進帳」がそれで、能の三大読み物に数えられています。もう一つの読み物は『木曽』の「願書」ですが、喜多流にはないので、事実上当流ではこの2つが「読み物」となります。共通項の多いこの2曲を、還暦を迎えるこの年に集中し深めておきたいと考えました。



(写真)正尊前シテ 撮影 青木信二
 【直面(ひためん)】
直面物(面を付けない曲)は余り若すぎてもその人物の風格が出ず、かといって、歳をとりすぎてしまうと観客は想像しづらくなり、体力が衰えた老体では真の力強さは表現できないと思っています。父・菊生は「自分の顔が巧まずしてその役に見えるときがいつか来る」と言っていましたが、味わいある直面物を勤めるには、旬となる時期がありそうです。今自分がその時期に来ているかは分かりませんが、『安宅』を45歳で初挑戦し、50歳で積み重ね、今年の60歳で3回目、このあたりが私にとっての賞味期限ではないか、と正直思っています。『正尊』は今回が初めてですが、もともと演能の機会が非常に少ない曲、今勤めておかなければ、との思いが強くありました。

【正尊の演能記録】
近年の喜多流で『正尊』を勤めた方は、昭和42年に宗家・十六世喜多六平太氏、昭和57年に故友枝喜久夫氏、平成8年に父・故粟谷菊生、そして平成17年に香川靖嗣氏(「二人会」)、平成25年に金子匡一氏がおられます。宗家が勤められたとき、私は子方(静御前)を、友枝先生のときはシテツレ(江田源三)を勤めています。父・菊生のときは、残念ながらその会で『隅田川』のシテを勤めていたので、同じ舞台には立てませんでしたが、そのときの父の舞台は目に焼きついています。香川氏のときは地謡で舞台を拝見しています。金子氏は松山での公演でしたので拝見していません。



(写真)静御前(子方・友枝大風)に酌をうける正尊(シテ・粟谷明生)撮影 吉越 研
【大人数の能役者を必要とする正尊】
『正尊』は人数物で、静御前を勤められる子方がいなければなりませんし、端正できりりとした義経役、豪快で芝居心もありシテと括抗する弁慶役(ワキ)、そして義経方と正尊方の郎党にそれぞれ数人ずつの若者が必要です。もちろん全体を盛り上げる地謡陣も必要で、それだけの陣容を整えられるかが問題です。数年前に『正尊』をと考え始めたとき、今ならそれができる、と思い決めました。今回、子方を友枝大風君、義経を佐々木多門氏、弁慶を朋友・森常好氏が勤めてくださいました。郎党も若手が勢ぞろいしてくれ、地謡陣も地頭を大村定氏に同世代でまとめてお勤めいただき、熱気あふれる舞台になりました。実は舞台に若手が出払っているため、楽屋は人数が少なく、初番の『三輪』の地頭の友枝昭世師、副地頭の香川靖嗣氏をはじめとした重鎮のみなさま方が、正尊の郎党や中入の私の装束の着付けを手伝ってくださり、まさに若手から重鎮、ワキ方、囃子方が一丸となって出来上がった『正尊』でした。このような結束力こそ演者側にとって大事なエネルギーであり意識であって、それが実現できたことを心底喜んでいます。
喜多流として、『正尊』のような曲は少なくとも10年に一度は舞台に載せ、継承していかなければならないと思います。私の子方や郎党、地謡の経験が宝となっているように、若者が、今回の舞台で経験を積んで、次へのステップにしてくれればよいと願ってもいます。
 
【あらずじ】
能『正尊』は、頼朝に、不和になっている義経を討つように命令される土佐坊正尊の話です。都に入った正尊は、義経の前に連れ出され、上洛の真意をただされると、熊野参詣のためと言い張り、起請文(神仏に誓って書く文書)まで書いて読み上げ、その場を逃れます。しかし、すぐに戦闘の準備をしていることが知られ、義経らに攻められ、最後、正尊は生け捕りにされて終曲します。

【正尊の役まわり】
 正尊は頼朝の命令に背けず義経を討ちに来て、最後は生け捕りにされる、非常に損な役回りです。稽古をしていて、土佐坊正尊(「吾妻鏡」「義経記」では土佐坊昌俊)がどのような人物であったのかが気になってきました。
「能の平家物語」(秦恒平著)に「土佐坊という人物は魅力も乏しく、肌触りのざらついた面白くもない男で、・・・<中略>・・・「あはれ」という美的要素のしずくもない男に造形されていて、際立って弁慶や義経が良くみえる仕掛けを担っている」とあります。
 単なる、弁慶や義経の引き立て役なのでしょうか。金剛流のように、シテを武蔵坊弁慶として、起請文も弁慶が読み上げる設定ならば、秦氏のご意見も理解できますが、喜多流や観世流など、正尊をシテとし、弁慶をワキとする設定ではどうでしょうか。敢えて敗者である正尊に焦点をあてることにより、その悲劇の深さがより強く伝わると、作者・観世弥次郎長俊は戯曲したのではないでしょうか。私はシテを勤めるとなると、その役柄に興味がわき、次第に好意を持ってしまいます。たとえそれが草木の精であろうと、義経や弁慶であろうと同じ。勝者であろうと敗者であろうと・・・です。そして、能は負を背負った者をテーマとすることが多く、『正尊』も然りなのではないでしょうか。

 

(写真)金王八幡宮の栞
【土佐坊正尊の人物像】
そこで、土佐坊正尊という男がどのような人生を過ごし、どのような最期を迎えたのか、そのあたりを深く知って稽古に励みたいと思いました。
正尊の生年は不明で、何歳ぐらいに没したかもよくわかっていないようです。『平治物語』に登場する金王丸を正尊とする説も確証あるものではないのですが、金王丸ゆかりの渋谷金王八幡宮公式ホームページでは、金王丸は永治元年(1141年)8月15日生まれとあり、これを正尊と結びつければ、そのくらいの生年と考えられます。彼は17歳のとき、源義朝に従い保元の乱で大功をあげその名を轟かせますが、続く、平治の乱で義朝が敗れると、渋谷で剃髪し土佐坊昌俊と称し、義朝の霊を弔います。1160年に義朝が斬られているので、金王丸は20歳ごろ剃髪し土佐坊と名乗ったことになります。
 数年後、頼朝は金王丸のいる八幡宮に参籠し平家追討の祈願をして挙兵します。石橋山の合戦(1180年)のころ、正尊は40歳ぐらいでしょうか。壇の浦の戦い(1185年)で平家を滅亡させた後、頼朝は義経に謀反の疑いをかけます。頼朝にとって、平家をあっという間に倒した猛将・義経はまさに鬼神のような存在、要注意人物となったのでしょう。反旗を翻すかもしれないと危険を感じた頼朝は義経征伐を決断し、その密命を正尊に下します。正尊はこれを断れず、同年10月、百騎ばかりを率いて義経の館に討ち入りますが、このとき正尊は45歳ぐらいでしょうか。私は今回、そのぐらいの年齢だろうと考えて勤めました。


(写真)弁慶に無理矢理連行される土佐坊正尊 撮影 吉越 研
 
【頼朝の義経追討の命令、最初はだれに…】 
 一説には、義経追討を畠山氏や和田氏が辞退し、誰も名乗りを上げなかったため、土佐坊が自ら進み出たとも言われていますが、定かではありません。今回『正尊』を勤めるにあたって、私は志願ではなく、頼朝から、もしかしたら梶原景時の策略かもしれませんが、「指名されてしまった」と想定して演じました。義経を討ちたいわけではない、頼朝の命令に逆らうことはできない。選ばれたのだから、もう死を覚悟しなければならないという貧乏くじを引いてしまった立場です。頼朝も最初から正尊が義経を討ってくれると期待したわけではないように思えます。反旗を翻したという口実作りの、いわば捨て駒にされたにすぎない、しかもそのことを正尊は充分に承知していたはずです。それでも敢えて捨て駒にならなければならない、そういう男の悲劇がこの曲の狙いだと思いました。
 このときの正尊の心境を言い得ているのが、初同(最初の地謡)の「否にはあらず稲舟の。・・・・なるともよしや露の身の。消えて名のみを残さばや。」です。「否」とは言えずに都に上ってきたが、もはや露となる身、生きて鎌倉に戻ることは出来ないだろう。それならばこの身は消えても名を残したいものだ・・・という、悲しい覚悟です。
このようなことは決して昔話ではありません、現在にもあることです。社長のために捨て駒になって罪を負い罰を受けて牢獄の中で過ごす部下や身代わりとなる秘書、通じるものを感じます。能は単に昔の悲劇を古い陳腐なものとして描くのではなく、現在にも充分通じる内容として継続している、すごい芸能であると思うのです。能が本当の古典であることをまさに実証している一面だと確信しています。



(写真)橋掛に勢揃いする正尊と郎党
 【潔い正尊】
能『正尊』の最後は生け捕りにされるところで終わりますが、実際の正尊は鞍馬山に逃げ、僧兵に捕まって義経の前に引き出されます。義経は正尊の主命を重んじる忠誠心を賞し、命が惜しいならば鎌倉へ返してやろうと恩情をかけますが、これに従わず、後の世まで「褒めぬ人こそなかりけれ」と言われ、斬首されます。この潔さ。判官びいきの世の中にあって、義経側から見たら悪役であるはずの正尊を敢えてシテにするのは、それなりの意味があるのです。実は喜多流でも昔はシテを弁慶にし、正尊をワキにする演出があったようですが、喜多健忘斉の伝書には「これはよろしからず」と書かれています。『正尊』は敗者である正尊をシテにしてこそ、描けるものがあるはずです。それは私も同感で、土佐坊の哀れと忠誠心、潔さ、男の悲劇がうまく演じられればと稽古に励みました。

 

(写真)後場 斬り組全景 撮影 成田幸雄
【猿楽の能・最後の戯曲者、観世弥次郎長俊】 
能『正尊』は前述したように、観世弥次郎長俊の作品です。長俊は観世小次郎信光の嫡子。観阿弥、世阿弥、禅竹と能は幽玄の世界に入っていきましたが、その流れが変わり、信光の時代は『船弁慶』や『紅葉狩』、『道成寺』に見られるように、一般の人も理解できる、わかりやすく娯楽性の高いショー的な構成の能になっていきました。長俊も信光を受け継ぎ、登場人物も多くエンターテインメント性の高い作品を作り出しました。しかし、ここまで来ると、傾く世界、歌舞伎に近いものになるので、このあたりで、能として幽玄へと揺り戻しがあってもよさそうでしたが、歴史はそうはなりませんでした。その後、新作能も作られたでしょうが、古典として今の世に残るまでにはなっていません。つまり、長俊は最後の戯曲家であり、彼の作品は幽玄物と対極にあって劇的、芝居的な曲であり、猿楽の能はここで息を止めてしまった、と感じます。この能を演じる者は芝居心をいかに発揮するか、しかも能という様式の中で、芝居との境界線ぎりぎりのところまで迫り、いかに表現するかが大きな課題です。今回はこのことを意識し、ワキ方の森氏や、郎党役の若者に協力を仰ぎました。



(写真)橋掛にて弁慶と正尊 撮影 成田幸雄
【試み・ワキへの依頼・1】
たとえば最初の場面、土佐坊正尊が都にのぼってきたが、これは義経を討たんがために違いない、正尊を召し連れて参れと義経に命令され、武蔵坊弁慶が正尊の宿を訪ねるところです。ワキ方下掛宝生流の詞章では「いかにこの家の内へ案内申し候。判官殿よりの御使い武蔵が参じて候、正尊はこの屋の内にわたり候か」となりシテは「武蔵殿とはあら珍しや」と受けるようになっていますが、喜多流は「誰にてわたり候ぞ」で詞章が違います。喜多流は最初誰が訪ねてきたか知らずに、正尊が出て行き武蔵坊と気づくと、「これはまずい、やっかいな武蔵坊だ」と早くも緊張が走る流れになっています。そこで、ワキの森氏に武蔵坊と名乗らないでほしいとお願いしました。思いもよらず、弁慶が訪ねて来た、ということは、自分が頼朝の密命で討ちに来たことがすでに知られている、そう直感した正尊の緊張感を大事にしたいのです。その後は、武蔵坊に問いただされ、正尊は熊野参詣のために来た、道中、病気となってご機嫌伺いが遅くなった、もう少し待ってくれと言いわけをしますが、有無をいわさず、連行されてしまいます。このやり取りの間、私は終始、頭を下げたままにしました。父も先人たちも、何回か頭を上げられています。確かに下げっぱなしは苦しいのですが、ここは顔を見せたくない、という正尊の腹の内を演じたいところです。



(写真)起請文を読み上げる正尊 撮影 吉越 研
【起請文について】
そして、前場での最大の山場は何といっても起請文の読み上げです。特に重く大事に扱っているためか、謡本に細かな節使いや音の上中下や拍子のとり方の記載はありません。習わなくては謡えないようになっていて、正式に伝授された者だけが謡本に朱書きをして習得し、後世に伝承することになっています。今回は、祖父・粟谷益二郎が書き残した伝書を参考にし、囃子方の横山晴明先生、佃良勝氏から地拍子の割付を頂戴し、また父が勤めたときの音源なども聞き習得しました。父が読み物は「最初はたっぷり謡うが段々乗ってきて早く、乗りよく謡う。懇切丁寧に同じスピードで謡ってはいけない」と言っていたことも念頭に浮かべながら謡いました。序破急をつけ、後半に躍動感を持たせ正尊の心意気をも見せる謡い方です。前後の地謡陣にも謡い方のスピードなど私の希望を述べさせていただき納得し協力していただきました。

義経らは正尊が偽りの起請文を書いたと承知しながら、あまりの文筆の見事さにひとまず酒宴を設け、静も舞を舞いもてなします。子方の友枝大風君もさっそうと舞ってくれ、この能の唯一の舞事を盛り上げてくれました。そして中入の型となります。橋掛り一の松あたりまで進んで「・・・各々退出申しけり」の地謡を聞き終え、囃子が終わったところで、一旦止まり、静止します。今までの時間とこれからの意気込みを見せる無言の型です。そしてズカズカと幕まで走り去る型。みなさんやられていることですが、伝書にはとくに記載はありません。ここは、起請文まで書いてようやく逃れてきた、もう猶予がない、今夜には決起しなければならないと、腹の中で覚悟を決めたという心持ちでしょう。止まった後、うしろを振り向く型もありますが、私は敢えて観客に顔を見せないほうが、能らしいと思い、振り向かず走り去る型にしました。



(写真)正尊郎党と江田・熊井との斬り合い[右より大島輝久・塩津圭介・友枝真也] 撮影 吉越 研
【能にもチャンバラあり】 
中入後の、義経の郎党と正尊の郎党が乱闘となる、いわゆる「斬り組」の場面、能にチャンバラまで入ってしまい、まさに歌舞伎との境界線ぎりぎりの作劇場面です。しかしここはやはり能の様式的表現手法を駆使して戦闘場面を創出する、それで一つの見どころとなっています。竹光を使いながらも迫力満点。最後は、前に宙返りする者、仏倒れ(後ろ向きにまっすぐ倒れる)する者、前倒れする者、若者が能らしく演じてくれました。実はこの「斬り組」についても伝書に特に記載がありません。橋掛りの長さや立衆の人数によっても違い、毎回の舞台で違っています。若者が過去のものを見て、よいものを参考にして、自分たちらしく演じてくれたことを喜んでいます。もちろん稽古や申合せで私の意見も言いましたが、おおむね彼らが考えてくれました。

  





(写真)大太刀抜く正尊三体 撮影 上より 成田幸雄 吉越 研 青木信二
【試み・シテの太刀抜く型】
さて味方が次から次へと斬り伏せられていくところを、橋掛りの三の松からじっと眺める正尊。観世流はシテが薙刀を持っているのに対して、喜多流は大太刀です。薙刀を握りしめる形は劣勢に驚く気持ちを表現しやすいのですが、大太刀を腰に当てている姿で微妙な心理をどのように表現したらよいか最後まで悩み苦心しました。今回は、もう最期、自分の出番が来たか仕方が無い、という追い詰められた無念の思いを、大太刀を頭上に持ち上げ、ゆっくりと少々大袈裟な所作で表現出来ればと試演しました。本来ならば馬から降りる型をしてから太刀を抜くのが理にかなっているのでしょうが、ここも伝書には特に記載はなかったので、演者の演出に委ねられると解釈して、最初に大太刀を抜く型をしました。
能は型を大事にしますが、型でがんじがらめになっているように見えて、実はある部分ではまだまだ自由に動けるところ、遊び、幅があり、それが演者には救いになっています。それを知るまでに少々時間がかかってしまいましたが・・・。



(写真)弁慶が取り押さえる場面
【試み・ワキへの依頼・2】
そして正尊と弁慶の一騎打ちとなる場面。ワキの森氏に、もう一つ協力していただいたところがあります。弁慶は正尊を軽々と投げ飛ばしますが、その後、弁慶は大小前に戻るのが常です。これでは正尊はすぐに逃げることも出来そうで、違和感を覚えました。そこで森氏に正尊が逃げぬように押さえつけている型をしてほしいとお願いしました。義経の郎党、江田源三と熊井太郎が両脇から生け捕りにする場面まで弁慶が力を振り絞り取り押さえている、そのように見えたほうが自然ではないでしょうか。この場面、観世流では縄を使って縛る形にしますが、喜多流は縄を使わずに二人が胸倉を掴み、両脇から羽交い絞めにして捕らえる形です。どちらがリアリティあるでしょうか。いろいろな演出があって面白いところです。


(写真)江田と熊井に取り押さえられる正尊 撮影 青木信二

 能『正尊』は両腕をとられた正尊と江田と熊井の三人が、橋掛りを幕を目掛けて走り込み、それを見送る義経の留め拍子で終曲します。何ともあっけない、空虚な感じが残ります。その後味の悪さ、妙な余韻に「何なの?」と、ご覧になられた方々が何か空しさを感じてくださればよい、と思って勤めました。確かに、土佐坊正尊は捕らえられ斬首される悲劇的な結末です。しかし勝った義経の運命はどうだったのでしょうか。平家物語では「土佐坊被斬(きられ)」のすぐ後に「判官都落」の項を配し、義経追討の院宣が下り、義経を討つために北条四郎時政が都入りしたこと、義経一行は吉野から奈良、そして北陸、陸奥へと逃避行となる運命を記します。締めくくりは「朝(あした)にかわり夕(ゆうべ)に変ずる、世の中の不定こそ哀れなれ」です。そんな余韻をどこかに残す義経の留拍子。これから義経はどうなるのか、めでたしめでたしではない陰の思いを、観客の心に残そうとも考えたのではないでしょうか。長俊の作品はドタバタ劇のように見えて、それでは終わらない、実は人間の行く末を見つめ、心情の深さも秘めているのです。



(写真)白水衣の前シテ 粟谷明生 撮影 青木信二
 【装束について】
 今回の装束は、前シテは紅無厚板、白大口袴に白縷大水衣、金茶系の角帽子(すみぼうし)を沙門の形につけ、観世流に近い格好を選択しました。喜多流の伝書には特に水衣の色の指定はないのですが、父も黒の水衣で、黒を着る人が多く、やや強いイメージとなります。観世流は白い水衣ですが、これは病人で、自分の運命をひがんでいるような弱々しい風情、頼朝に指名され仕方なく義経を討とうとする悲劇の男を描くのに似合うのではないかと、白を選択しました。秋の粟谷能の会で『安宅』を勤め、そのときのシテ・弁慶では強いイメージで黒を着るつもりですので、その対比も意識しました。


(写真)袈裟頭巾の後シテ粟谷明生と姉和平次光景役・友枝雄人
後シテは金茶地半切に白法被、父・菊生と同じ袈裟頭巾で勤めました。伝書には「長範頭巾」と記載されていますが、これは盗賊熊坂長範のイメージが強いので、正尊の風格を考えると不似合いです。近年は、僧兵のイメージで「袈裟頭巾」を使うことが普通になり、私もその選択としました。



(写真)御影堂にある金王丸木像
【最後に御礼の挨拶】
今回の演能に先立ち、東京都渋谷にある「金王八幡宮」の「金王丸社・御影堂」に参拝してきました。金王丸が正尊と同一人物かは確たるものではありませんが、能『朝長』で、前シテ・青墓の長者が「武具したる、四五人入り給う、義朝御親子、鎌田、金王丸とやらん」と謡い、能楽師の我々には親しみが持てる人物です。金王丸が15歳のころ、義朝に従って朝長の最期に立ち会ったのか、その子が40代半ばとなり、義朝の子、頼朝の命に従ってこのような悲劇となったのか・・・そのようなことを思い、願掛けの意味もあって参拝しました。その甲斐あってかどうか、能『正尊』はワキの弁慶役を引き受けてくれた朋友・森氏をはじめ、子方、立衆の若手、地謡、囃子方、みなさんと一致団結して創り上げることが出来たと感じています。こういう曲作りをしたいという私の思いをみなさんに共有していただき、とても風通しがよい快さを味わっています。人が多く出るということは装束や小道具だけでも相当数用意しなければなりません。森氏に装束や刀など多く拝借させていただきましたこと、ここにお礼申し上げます。恵まれた条件がそろったときにようやくできる『正尊』、これが今このとき、粟谷能の会で実現できたこと、この上ない喜びで、関係各位に深く感謝申し上げます。また会場に足を運びご覧いただいた皆様にも感謝の気持で一杯です。
追加
秋の粟谷能の会は10月11日(日)です。亡父の命日に還暦を記念して『安宅』を勤めますので、どうぞご来場いただきたく、お待ち申し上げております。
                          (平成27年3月 記) 

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