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明生 今度の粟谷能の会(平成二十九年三月五日)はいよいよ第百回ということになります。

能夫 記念すべき区切りだね。

明生 歴史的に見ると、第一回は粟谷益二郎の七回忌追善能と銘打ってやっていますね。これが始まり。昭和三十七年十月のことです。当時は粟谷会、三回目から粟谷兄弟能という名前になりました。

能夫 第一回はどんな番組だったの。

明生 辰三叔父が『小袖曽我』、新太郎伯父が『景清』、そして実先生(喜多実‥喜多流第十五世宗家)が『融』を小書「遊曲」で演ってくださっています。

能夫 そうだったねえ。僕も父のツレをやっていますよ。

明生 第八回が昭和四十四年で、益二郎十三回忌追善能。『小袖曽我』のシテ能夫で初登場しています。私もツレ(時致)を勤めさせてもらっています。私自身のシテ初登場は第十一回の『土蜘蛛』で、昭和四十六年二月でした。

能夫 常ちゃん(森常好)がワキでお父様の茂好先生がワキツレをされていたのを覚えているよ。

明生 耕介君(故野村万之丞)が間狂言でした。今はこの道をやっていませんが、弟の知生が胡蝶役、父の愛弟子の丸山邦夫君が太刀持ちでした。私、十五歳でした。

能夫 そうだ、僕は頼光でしたね。

明生 能夫さんは、第十四回(昭和四十七年)に『猩々乱』、第二十六回(昭和五十四年)には『道成寺』を披いていますね。このころは、新太郎、菊生に辰三、幸雄が交代で加わる形で、まさに兄弟能でした。そして、第二十九回(昭和五十六年三月)に、私が『小鍛冶』白頭を勤め、その回から「粟谷能の会」と名称を改めています。

能夫 そうだね。子供たちが舞っているのに「兄弟能」ではおかしいだろうと、野村萬(当時・野村万之丞)さんに言われた、と菊生叔父から聞いたことがある。それでいろいろ名前を考えて「粟谷能の会」にしたわけだよ。

明生 その年の秋(十月)には能夫さんが『葵上』を勤めましたね。そこから、春秋と年二回の会が定着しました。新太郎、菊生が一番ずつ舞って、春は明生、秋が能夫と交替で勤め、一回に三番の番組を続けることが出来て、そして、第八十回(平成十八年十月)の益二郎五十回忌追善能です。父は、私の『江口』の地頭を勤め「おやじの追善とするのだ」と張り切っていたのですが、申合せの前日に倒れ、生死の境をさまようことになりました。

能夫 粟谷能の会の当日には命をつないでいてくれてね。僕も「『道成寺』頑張ってきます」と挨拶に行ったもの。

明生 そうですね。必死に生きてくれましたが、能の会の三日後に息を引き取り悲しかったです。

能夫 親の五十回忌を執り行うというのは難しいことなんだな。で、その後は、僕と明生君との二番の番組となり、今日に至るわけだね。

明生 それにしても「粟谷能の会」ではいろいろな能をやらせてもらいました。能夫さんは『猩々乱』、『道成寺』、『石橋』の披き…。

能夫 『石橋』子獅子の披きは宮島の厳島神社の神能でした。『翁』の披きもそう。

明生 私も『翁』の披きは神能でした。「粟谷能の会」では『道成寺』をはじめ、『石橋』子獅子、『隅田川』、『安宅』、『望月』、『定家』『景清』などずいぶん大曲をたくさん披かせていただきました。『松風』の披きは研究公演でしたが。

能夫 並行して研究公演も始めたね。

明生 平成三年から、能夫さんと私の二人の会ですね。

能夫 第一回は明生君の『熊坂』、僕の『三輪』だったね。

明生 『定家』(能夫)、『実盛』(明生)と、今考えると、とんでもなく大曲の二番を一日の番組にしていましたね。

能夫 無理を承知で、やりたい曲や課題の曲に挑んだわけだね。『小原御幸』(能夫)も研究公演でね。自分たちの能を創り上げるうえで勉強になりましたよ。

明生 自由に試みが出来て、すごくよい時間が持てて充実していたと自負があります。

能夫 親の会ではない、二人の会だから責任はあるけれど、いろいろなことを真摯に考え、話し合いながらやったというのがとても良かったね。いろいろ言う人もいたらしいけれど、そのときはどう対処するかなど、学ぶこともあり、戦略家としても成長させてもらった気がするね。これらの会があったから、今につなげてこれた、と思いますよ。

明生 粟谷能の会で一番の収穫は何ですか。逆に取りこぼしているというものはありますか。

能夫 父や菊生叔父がいなくなったときのことも考え、いつどういう曲をやっていったらいいか計画し、割と思い通りにやらせてもらった気がするね。もう感謝ですよ。父たちも能が好きで、喜多会だけではない、自分たちのリサイタルをやりたいと、粟谷能の会といういい組織を立ち上げてくれて、僕らはそれを継承すれば良かったから、ありがたいことですよ。

明生 今は周りの人たちも、同人や個人の会をやられるようになりましたが、昔はそう多くはなかったですからね。

能夫 そういう意味ではさきがけ、先駆者ですよ。

明生 こういう会のおかげで、大曲を何回か勤めることもできました。私は昨年、国立能楽堂からの依頼で、三流立合いの『松風』を勤めさせていただきましたが、これも、研究公演で披き、粟谷能の会で再演をし、と何回か経験していたから、どうにかできた、と思っています。無駄が少なく感謝しています。さて、今度の第百回公演では、能夫さん、『伯母捨』を披きますね。私は『石橋』の半能、一人獅子を勤めます。『伯母捨』といえば老女物で大曲です。

能夫 『伯母捨』に挑めるのは嬉しいことに違いないですが、正直僕はこうなるためにこれまで、いろいろ手を打ってきましたよ。まずは菊生叔父に演ってもらい、流儀に『伯母捨』を根付かせるような仕掛けをしてきたわけで。

明生 父が『伯母捨』を喜多流としては百八十年ぶりに復活させてくれましたね。それまでは廃曲同然のようになっていたのが。

能夫 『伯母捨』をやらずに死ねるか、という思いがあるんだなあ。菊生叔父はあれだけの人だから挑戦してもらいたかったしね。菊生叔父が演って、友枝さんがやられて、いずれは自分も…と、そう戦略を立てていましたから。それに『檜垣』を、研究公演で我々が地謡を謡い、友枝さんに披いていただいたのも、一つの仕掛けでしたね。

明生 喜多流は『関寺小町』は止曲なので、老女物は『伯母捨』と『檜垣』が双璧となりますが、先人たちはあまり取り組みませんでしたね。

能夫 老女物を神棚に挙げておくのではなく、流儀のなかでやれるようにしておきたかった。今回『伯母捨』にするか『檜垣』にするか、選曲にずいぶん迷ったんだよ。いろいろ人にも相談して。結果的に『檜垣』は色恋があるから先だろうということになった。『檜垣』は生身の人間に近い感じ。老いた姿を自分で映してみるような、究極はナルシズムのところがあるでしょ。だからエネルギーがいる。それに対して『伯母捨』は捨てられる身でありながら、どこか達観していて臘月に見入るような風情ですからね。最初は『檜垣』かな、と思いましたが、その後、……『伯母捨』にしました。

明生 老女物の双璧といっても、曲趣は全く異なりますね。薬師如来の脇侍の日光菩薩と月光菩薩のような、隣同士という風情ではないですから。

能夫 全く違う。『伯母捨』のシテは救済を待っているわけではないんですよ。ワキも僧ではなく旅人だしね。一方の『檜垣』のワキは僧侶で、救済を求める典型的な夢幻能です。だから全く設定が違う。

明生 『伯母捨』は、旅人に「わが心なぐさめかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」と詠まれた、昔捨てられた姨が亡くなった跡へと案内する。

能夫 その歌心がわかる素養のある旅人が来たから案内し、お互いに語りあって、同じ世界観を共有するんだ。月光は隈なく照らす無辺光だとか、月光と極楽浄土信仰みたいなことね。その辺を謡うクセは硬質ですよ。

明生 最後のキリはドラマチックですね。「返せや返せ、昔の秋を。思い出でたる妄執の心。…恋しきは昔、忍ばしきは閻浮の、秋よ友よと」というあたり、達観して月をめでていながら、わずかながらも強い執心を見せますね。

能夫 いくら達観していても、人間だから生きていればそう思うこともあるよ。それへの挽歌、レクイエムだろうね。

明生 こういう描き方が能の面白さでしょうね。で、中入後のアイの語りはリアルですね。伯母が目が見えなくなったから、嫁が邪魔に思い、夫に伯母を山に捨てさせる…。

能夫 そう、嫁が夫を責めるんですよ。「もう世話するのは嫌だ」と。だから能『伯母捨』は嫁姑問題なんだ。小説や映画で有名な「楢山節考」の姨捨の習俗や習慣ではなく。幼年期に世話になった伯母を背負って山に連れて行き、桂の木の下に下ろし、そこにある石を阿弥陀仏だと言ってだまして捨ててくるんだ。

明生 和泉流のアイ語りでは、あとで戻ってくる、と言い、帰ってしまうのですが、その時盲目の伯母は泣き叫ぶんですよ。悲惨ですね。

能夫 能はそういう人間の生々しく残酷な部分を全部アイ語りに委ねてしまうんだね。シテはただ月の光をめで、静かに昔を懐かしんで舞うという。

明生 その序ノ舞を杖で舞うことはないのでしょうか。

能夫 さあ、普通は杖でなく扇でしょう。舞っているときに杖にすがるという感じは全くないから。

明生 出はどうしますか。出端か一声か。父は朋友・金春惣右衛門先生にお願いして出端にしましたけれど。

能夫 太鼓が入ると、月の出みたいなものを感じられるね。

明生 父は『伯母捨』を掘り起こすときに、先代の観世銕之亟先生のご自身がなさったときの動画を拝見しました。また、先人達の演じられた資料などを見せていただき教えていただいたと話していました。

能夫 僕も観世銕之亟先生のビデオを拝見しました。菊生叔父や先人たちの演じられた動画などを見たりして研究したいと思っていますよ。

明生 では、私の『石橋』のことも話しましょう。

能夫 今回はいよいよ巻き毛の一人獅子だね。

明生 子獅子、親獅子と勤めて最後に一人獅子と考えるか、子獅子を勤めた次が一人獅子、それができてはじめて親獅子ができると考えるか。そう唱えている方もおられますね。しかし、一人獅子をあまりに重く扱い過ぎると親獅子を勤める者がいない状況になるので、近年は先に親獅子が許されている状況ですね。どちらが先ということにこだわらずにいいと私は思っていますが。私が親獅子が先だからかな?(笑)

能夫 喜多流独特の一人獅子。巻き毛の迫力ある出で立ちは他の流儀にはないからね。先人が喜多流の特色を出しアピールするために作ったらしい。だけど重過ぎる扱いだね。

明生 大事、大事にし過ぎてしまった。もっと早く挑みたかったですよ。

能夫 『石橋』をただ体育会系でやるだけでは駄目だという戒めもあったと思う。獅子というのは妖獣、霊獣でしょ。三回転半できましたというだけではなく、その霊獣らしさ、妖獣らしい志みたいなものを含んでいないとね。

明生 妖獣、霊獣ですか…。

能夫 ただ暴力的で元気がいいではなく、獅子の精神性とか役者の思いとか。その引っ張りが大事だと思うよ。動中静、静中動という引っ張り合いという教えだと思う。

明生 万作先生が「獅子はネコ科だろ、猫はダンダーンとけたたましい大きな音を立てて一畳台に乗るのかい?」とニャッと笑顔でおっしゃられたことが忘れられません。

能夫 ジャガーがそうだよね。

明生 柔らかい足。ダーンと音を立てて力強くだけで満足していてはいけないということでしょう。

能夫 力強いのは当たり前。その一歩先をいかないと、ということだよね。近頃、『石橋』一人獅子の舞は八段でする人が多くなったけれど、うちの伝書では九段なんだ。僕は伝書通り九段でやったけれど…。

明生 私も九段で勤めるつもりです。

能夫 『石橋』には昔から憧れがあったね。親父が演ったとき、僕は後見で見ていたけれど、格好いいなと思いました。先人たちのキレのある動き、それでいて乱暴なだけではない、そんな気がするね。長世先生(喜多六平太:喜多流第十六世宗家)もそうでしょ。

明生 長世先生は何だか独特の獅子を舞われていたように覚えています。なかなか真似できない。真似たいとは思いませんでしたが、獣のニオイを発散するような。

能夫 何か違うところがあったね。(笑)

明生 先人は皆一人ひとり、独特の個性がありましたね。

能夫 みんな個性的で味わいがあるけれど、軸はぶれていないから、おかしいとか変ということはなかったね。『石橋』って不思議とその人の個性が見えてくるんだな。みんな違っていても、それでもみんな正しい、みたいな。

明生 そういう先人の能を見ていますから、それを思い描いて自分は自分らしく『石橋』を勤めたいですね。巻き毛は喜多真王様から拝借することになりましたが、巻きがゆるくなっているので、巻直しを佐々木多門さんにお願いしています。彼は細かい手作業を丁寧にしてくれるのでとても助かり、しかも信頼出来ます。

能夫 それは嬉しいね。そうやって協力してくれるスタッフがいるというのが素晴らしいことですよ。みんなお能が好きなんだよ。よい環境でやれそうだね。 (つづく) 写真: 『卒都婆小町』 粟谷能夫 平成17 年3月撮影:石田 裕 『石橋』 連獅子(親) 粟谷明生 平成21 年10 月撮影:石田 裕

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