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撮影 潮 康史

『三輪』を勤めて
―神々のちょっとエッチで面白い話
広島蝋燭薪能(2017.5.15)にて『三輪』を勤めました。広島蝋燭薪能はこれまで、二年連続雨天のため屋内のアステールプラザ能舞台での演能でしたが、今回は三年ぶり快晴のもと、広島護国神社の特設能舞台にて催すことが出来ました。ご覧いただきました方々より、「少し寒くはありましたが、やはり屋外の方が雰囲気、空気感がよいですね」とのご感想をいただきました。


撮影 潮 康史
『三輪』は初番目物(脇能)にも四番目物としても扱える曲です。さほど難しい内容ではありませんが、三輪山の祭神、ご神体が男神でありながら、女姿で物語を進行させるところに、能独特の演出マジックがかけられているのではないでしょうか。
能『三輪』は一寸エッチな部分もある面白いお話で、能楽師にとってやり甲斐のある曲のひとつであると思います。


撮影 石田 裕
そのエッチな部分とは『三輪』のクセの部分にあります。いわゆる三輪の神婚説話のくだりです。
「されども此の人、夜は来れども昼見えず、或夜の睦言に御身、如何なる故に因り、かく年月を送る身の、昼をば何と烏羽玉の夜ならで通い給はぬはいと不審多きことなり」
この「此の人」とは男、三輪の男神です。男は里女のところに毎夜通いお楽しみになり、女もまんざらではなさそうで、夜だけじゃなくて昼にも来てよ、とおねだりします。男は昼は恥ずかしいから、だめ、と拒否しますが・・・。女は通ってくれる男の正体を知りたく、男に糸を付けてその住処を探そうとすると、その糸は杉の下へと垂れて・・・。
「糸、繰り返し行くほどに。この山本の神垣や、杉の下枝に止まりたり。こはそも浅ましや、契りし人の姿か」。そこで見てしまったものは、蛇でした。
「私のお相手は蛇?」とビックリするのは女だけではなく、お話の内容がよく理解出来ているならば、私たち観客もきっと驚いてしまうのではないでしょうか。


撮影 石田 裕 
ただ、能の詞章には「蛇」という言葉はなく「羽束師の(はずかしの)」姿ほどの表現ですが、もとになる説話から蛇とわかる仕組みで、しかも、男の正体は三輪明神とも知らされるのです。
話は少し逸れますが、私は伊勢神宮の神、天照大神は女神だと思っています。が、江戸時代の喜多流は神が女であることを嫌い、天照大神を取り上げた『絵馬』を男神の演出としました。但し、今は「女体」の小書が付くと女神として演じることが許されています。喜多流の普通の『絵馬』は天照大神が女神だと思っている私には理解に苦しむ設定で、多分普通の演出の『絵馬』は今後勤めることはないでしょう。


撮影 潮 康史
さて神々が男であるか女であるか、また三輪は伊勢の元であるとの説も一旦置いておいて、ここからは能『三輪』をご鑑賞になる手引きとしてお読みいただきたいと思います。
男の神が里の女のところに通うことや、実は自分が蛇でもあることなど、また天照大神になりかわり、岩戸隠れの有様を紹介することも、すべてシテが女姿で演じます。この手法が、お話を理解しづらくしている一方で、逆に不思議な演出効果をあげ、いかにも能らしい演出の特徴となり、魅力となっていると思われます。


撮影 石田 裕
後シテの装束は確かに女姿ですが、金風折烏帽子を付け男の風情をにじませ、里女でもあり、通ってくる男神(三輪明神)であり、女神(天照大神)でもあって、観る人を靄(もや)がかかった神域へと誘っていきます。また、後シテの面は通常「小面」ですが、今回は試しに「増女」で演じてみました。一寸、エッチなお話に純粋で可愛い「小面」の表情よりは、大人びて神々らしい「増女」の方が似合うのではないだろうか、と考えて勤めてみました。


 撮影 石田 裕
能『三輪』のもう一つの見せ場は神楽とその後に展開される天照大神岩戸隠れの場面です。天照大神が岩戸にお隠れになってしまったため、世の中は真っ暗闇となり、困った神々は相談して岩戸の前で歌い踊り、楽しげに騒げば、「なにやら外で面白そうな事がありそう」と天照大神が岩戸から顔を出すだろう、その時、力持ちの手力雄命(たぢからおのみこと)が岩戸を開けてしまえばいい、との作戦を立てます。作戦は見事に当たり、戸は無事開き、また日が差して世の中は明るくなり、神々の面が白く見えたので、「面白い!」となった、というわけです。この楽しげに踊るところを神楽で見せ、岩戸を開けるところは神楽の後の舞で見せますが、ここが一番の見どころです。


撮影 石田 裕
そして最後は「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事、今更何と磐座(いわくら)や、その関の戸の世も明け・・・」と締めくくります。
私は「伊勢の女神も三輪の男神も仲良く御一体、夫婦仲良いんですよ」と観て下さる方々に思っていただければ、それでいいのでは、と思い勤めました。
ですから、三輪は男神でお伊勢さんは女神であってほしい、と思うのです。


撮影 潮 康史
今回の演能は18時開演で21時の終了を目指したため、『三輪』は一部を割愛させていただきました。通常100分ほどかかるところを70分にして演じました。
能は与えられた環境、状況に適応して演じ方を工夫すればよいと思います。
もちろん物語の展開に支障をきたしてはいけませんが、作品内容がわからなくならない程度なら、事情に合わせ、多少割愛してもお楽しみいただければよいと思っています。


 
さて、今回小書無しの普通の『三輪』は二度目でしたが、前回も広島「花の会」(1994.9.10)で、どうも広島に縁のある曲のようです。しかし広島に限らず、いろいろな地域でご覧いただきたく活動の範囲を広げて、叉再演したいと思っています。(平成29年5月 記)
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