阿吽37 「粟谷家蔵能面選」刊行に向けて 粟谷能夫

寿夫賞受賞をきっかけに、自らの舞台生活を顧みて、能面の力を再確認いたしました。

 

粟谷家蔵の能面も、演者の立場だけでなく、歴史的な別の視点からの調査も必要と考え、法政大学能楽研究所に相談した事が、全体像の把握につながり、「粟谷家蔵能面選」刊行へと進みました。その過程で感じた私の父、故粟谷新太郎の事を述べたいと思います。

 

父は能面に大変傾倒し、粟谷家蔵面の蒐集の立役者といえます。自ら体得した芸と感覚を投影し、舞台で用いることにこだわり、面を求め続けました。この度の調査から父の得意曲だった修羅物に用いる尉面や「平太」「頼政」などの点数の割合が多いことを再認識しました。

 

父のこだわりの代表格は「頼政」でしょう。「頼政」面は平家討伐を企て、高倉宮以仁王を擁して旗揚げするも敗れた、源頼政役に用いる専用面です。

 

作者不詳の古い「頼政」面は、老武者で、どこか茫洋としていて語りかけてくるものの振幅を大きく感じます。「出目元休」焼印のある「頼政」面は、眼をカッと開き武士として戦場の勇姿を語るにふさわしい表情がみてとれます。面裏に「友閑打喜多形」とある「頼政」面は喜多流の武張った表現や主張がより強く出せる、まさに劇場型といえます。この主な三点だけでも、私自身も表現者の立場で、どの立ち位置にいるかで選択に迷います。

 

貴重な蒐集ではありましたが、これが舞台に立つという前提であった事が父の悲劇につながります。晩年の父は脳梗塞の後遺症に苦しむ中、妻に先立たれ、暗い淵に沈み込んで行くように気力を無くし、十年もの長い病臥の末、平成十一年、八十歳で他界しました。

 

失意の為、能面を手に取ろうともしなくなり、その有様は我々の心に重くのしかかったままです。しかしながら、今回の調査で、日頃考えなかった所蔵面の全体像を把握するに至り、はからずも父が輝きを放っていた頃が鮮明に思い起こされました。父の情熱が伝わる数々の能面からは父の生きた証ともいうべきものが感じられ、終末期の悲嘆に拘泥していた今迄の重い空気が、俄に霧散しました。

 

改めて、能楽師にとって大いなる遺産を渡してもらっていた事に感謝し、新たな視点も発見できる様、自らの考えを発酵させる時を大切にして、これからも面と共に末永く舞台に立てる事を目指したいと思います。

『望月』 シテ 粟谷能夫(平成25 年10 月13 日 粟谷能の会) 撮影:吉越 研

『望月』 シテ 粟谷能夫(平成25 年10 月13 日 粟谷能の会) 撮影:吉越 研

koko awaya