阿吽26 『邯鄲』を勤めて 粟谷明生

阿吽26 『邯鄲』を勤めて
―小書「傘之出」の演出と展開―
粟谷明生

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平成二十年三月二日粟谷能の会で『邯鄲』傘之出を勤めました。

私の『邯鄲』の初演は平成元年、今回十九年ぶりに「傘之出」の小書で勤めました。

 

傘を扱う小書は宝生流に柄の長い傘をさす「長柄」と、通常の笠を被る「笠之次第」がありますが、双方とも傘を持つ、被る演出に留まり詞章などが替わることはないようです。

 

喜多流の「傘之出」は詞章が替わるなど、いくつかの工夫があります。今回はそれらを中心に述べてみたいと思います。

 

傘の演出は地謡の詞章「一村雨の雨宿り」をもとに、九世健忘斎以前の先人が発想したもののようです。

「傘之出」では左手に傘をひろげ持ち、腰に唐団扇を差し、右手に数珠を持ちゆっくりと登場します。村雨という悪天候に傘をさしての登場は、いかに生きるべきかに悩む青年廬生をうまく演出し、傘は格好の小道具となっています。

 

シテの次第は通常、常座で謡いますが、今回は橋掛りにて次第や道行を行い、本舞台を宿、橋掛りを宿までの道中として区分けして演じてみました。長い橋掛りの国立能楽堂だからこそ効果も上がると思い試みました。

 

道行が終わり、着き台詞の「いまだ日は高く候へども」は、傘之出では「また村雨の降り来たりて候ほどに」と替わります。

女主人(アイ=野村萬斎)に案内を乞い、傘を手渡すと、「傘之出」の前半部分の演出は終わります。

 

後半も演出が替わりますが、このあとはあらすじを追いながら、私の感想を交えてご紹介します。

 

中国、蜀の国の廬生という青年は仏道を信じながらも、ただ茫然と暮らしている自らの現状を悩んでいて、楚の国羊飛山にいる高僧に教えを乞うために旅に出ます。

 

邯鄲の里に着くと、女主人の案内で宿に通され、問答となります。女主人は、かつて仙人の法を使う人が置いていった邯鄲の枕という不思議な枕があり、これで寝ると夢を見て悟りが開けると薦めます。

 

廬生は一睡することにして、作り物(引立大宮)の一畳台に上がります。伝書にこの伏す型の際、目を閉じる事、と記載されていて、ここからが役者にとっても夢の世界が始まる訳です。

 

「一村雨の雨宿り・・・」の初同で、シテは寝る格好となり、同時に勅使(ワキ=宝生閑)が輿舁を二人連れて登場します。

勅使は廬生を見つけると、近づき中啓でパン、パーンと一畳台を叩いて起こします。この打つタイミングの間と、その叩く姿勢の美しさ、宝生先生のは抜群で、夢の又夢の中の序幕式の位を創り上げてくださいます。

 

今回、宝生先生は日頃見慣れない下冠(げかん)を付けての登場でした。私自身は下冠着用の事を知らないまま舞台に出ていましたので、舞台でその姿を拝見したときは、一瞬目をみはり、本当の夢心地を味わいました。

盧生は楚国の王位を譲られることになり、御輿に乗り王位の気分で来序が奏されます。

 

一畳台の寝所は宮殿と代わり、王位についた廬生の前には舞童(子方 狩野祐一)を先頭に大臣(ワキツレ)がずらりと並びます。雲龍閣や阿房殿のすばらしさ、銀の山、金の山を築いた庭の壮大さが謡われます。

即位して五十年が過ぎると、大臣は千年の寿命を保つ仙境の菊の酒を捧げようと、舞童に酌を薦めます。廬生は喜んで受け、栄華の絶頂を極め、自らも舞を舞います。

 

シテの喜びの舞は、狭い一畳台の上で楽(がく)と呼ばれる中国物に使われる舞です。

シテにとってここが最大の難関で技の見せ所です。速度はゆったりと位高く、が心得です。

小書の時は盤渉調(ばんしきちょう、笛の高い調子)で奏すこともありますが、盤渉になると調子が乗りすぎてしまう傾向があり、私はそれを嫌います。

あまりリズムに乗り過ぎないために普通の楽で勤めることを事前にお囃子方(笛・松田弘之 小鼓・鵜澤洋太郎 大鼓・柿原弘和 太鼓・観世元伯)に説明し、納得して頂きました。

 

楽の半ば空下りが済むと、台より下りて舞台で颯爽と舞い始めます。ここは「若い時分はどうしても勢いがつき過ぎ荒くなる、その辺りの塩梅が判るには・・・、五十歳辺りを過ぎないと・・・」と、父の言葉が思い出されます。

 

かくて時間が過ぎていくと、目の前に見えていた四季折々の美しい風景や宮殿、延臣は皆ことごとく消え、シテは作り物に勢いよく走り込んで、伏した姿勢を作ります。いわゆる「飛び込み」の型です。そして、女主人の中啓で叩く音で起こされ、五十年の栄華の夢は覚めます。

 

「飛び込み」については伝書に記載はありませんが、私が知っている限りでは飛び込みをしない『邯鄲』は見たことが無く、近年これが普通となっています。『道成寺』の鐘入りや『石橋』の舞など危険が伴う緊張する曲は何曲かありますが、この飛び込みもその一つと言えます。

 

夢から覚めた廬生はすべてが夢かと茫然として、世の無常、どのような栄華も一睡の眠りの夢と同じで虚しいことだと悟り、枕こそが我が人生の師匠であると感謝し、望みは適えられたと喜んで帰ります。

この飛び込みから悟りをひらくまでの最後の場面がクライマックスで、この曲のメッセージが込められている大事なところです。演者は飛び込んだ後、微動だにしないで伏していて、そして起こされた後も、ゆっくりと呼吸を乱さずに起き上がります。この静かな動きが演者にとって、もっとも体力と気力を使うところです。

 

最後のロンギの謡は特にむずかしいところです。「廬生は夢覚めて」から地謡とのやりとりがはじまり、脱力感のある落ち着いた感情からどんどん盛り上げていきます。

悟りを開くまで、謡も徐々に高揚していき、調子、張り、乗り、など細かい謡の技術力が必須で、素人弟子もまた玄人でも中々うまく謡えず苦心するところです。ここを上手く謡えれば一人前、とも父は話していました。

 

終曲は、迷いから脱しようと求めていた師匠とは枕なのかと地謡も声を張り謡い、この世は夢! と悟り帰郷する廬生です。通常は「望み叶えて帰りけ~り~」と上音で終曲しますが、傘之出では下音に下げて謡い留めます。

 

更にこの留めで終わりにせず、まだ続きがあるのが「傘之出」の後半の演出です。

 

手付に「アイ さあらばお傘を参らせ候べし、ト傘ヲ廣ゲ渡ス、シテ始ノ如ク左手ニ差シ、近頃祝着申して候、ト謡ウ。

アイ 又こそ御出で候へや、ト留メル、夫ヨリ入ル」とあり、アイがシテの後ろから声をかける演出が入ります。

これこそが小書「傘之出」の焦点です。そこで私はアイの言葉の入る位置などを検討しました。

 

父が、アイに呼び止められたら少し心持ちがあるのだ、そこが大事、と話していたのを思い出します。

 

このシテの心の内はいろいろに想像することができるでしょう。「もうわかったから、来ることはないよ」「えっ、もしかしてまた来ることになるの」などなど、どう想像させるかが「傘之出」の面白さなのです。

 

私の知る限り、和泉流はシテの祝着申して候の後に、すぐにアイの言葉が入りアイはアイ座に戻ってしまいます。

これでは「傘之出」の効果は半減してしまいます。

そこで今回、野村萬斎氏に大蔵流のように、「また重ねてお参り候へや~」をシテが橋掛り二の松へ行くあたりでかけてほしい、シテはその言葉を聞き、少し止まりかけ、また静かに帰るやりかたで演じてみたい、と相談しました。

 

すると「調べましたら、以前後藤先生からのお申し出で、そのように対応した書き付けがあり、問題はありません。それでお相手しましょう」と予想もしないお返事でした。

 

『邯鄲』「傘之出」に新たに手を入れ改善しようと意気込んでみたものの、先人もその挑戦と工夫をされていることを、萬斎氏の話から知りました。

「私が変える」という夢は消えましたが、過去に同じ工夫をされていた先人がおられたことはうれしいかぎりで、私の気持ちとしては、少しねじれながらも晴れやかです。

 

今回、この場面を大事に納めたいと思って、囃子方や地謡にはアイが舞台から下がるまで、大鼓・小鼓は道具を持ったまま、床几にかけたまま、地謡も扇を持っている姿勢のままで、待機してもらうようにお願いしました。

 

ご覧になる方が想像しやすい環境を最大限創ることが、演者側の務めではないかと考えるからです。

廬生の悟りについて、梅若六郎氏がキリについて興味深い言葉を残されています。あの文句「悟り得て、望み叶えて帰りけり」で送られて幕に入るたびに、「人間って、こんなに簡単に悟れるものなのかと思ってしまう」と。

 

私も今回、「確かにそうだな・・・」、とその言葉を思い出しながら橋掛りを運んでいました。ご覧になられた方はどんな想像をされるのか楽しみでもありました。

 

そして、阿吽用に原稿を書き直す今、自分なりの答えを見つけました。それは「悟り」という文字の本来の意味が「心が明らかになる」であり、「すべてがわかること」「聖人になること」「究めること」と解釈しなければ、この「悟り得て望み叶えて」の境地は意外とスムーズに観客や演者の心に入れる・・・と悟れたことです。

能を勤めたら書き留める、このライフスタイルを継続しながらも、時には時間がたって見直すことの必要も感じています。

 

ホームページでの内容と少し異なるところがありますが、両方をご高覧頂ければと思っています。

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