阿吽31 『白是界』について 粟谷明生
阿吽31 『白是界』について
―負ける天狗として再演出―
粟谷明生
喜多流には曲名の頭に白や青などを付けて曲の位を上げることがあります。白は『白是界』の他に『白田村』『白翁』(白式とも)があり、青を付けるものに『青野守』があります。いずれも曲の内容は変わらず、装束や面が変わり、謡も省略や緩急がついて面白さが増す特別演出となります。
能の天狗物は仏法の味方とそうでないものと、二つに分けられます。仏法の味方となるのは『鞍馬天狗』一曲、源義経が沙那王と呼ばれた幼少時代に将来平家追討に助力を約束する天狗で、仏法の敵ではありません。しかしその他の天狗物(『大会』『車僧』『是界』など)は仏敵として現れ、最後は仏力に祈伏され逃げ去るのが、お決まりの筋書きとなっています。『是界』も然り、日本の神仏力の礼讃が主題で、天狗は悪役で書かれています。
今回、『白是界』(粟谷能の会・平成22年10月10日)を勤めるに当たって、先人たちが手がけられた演出を更に奥深く探求したいと思いました。実は喜多流には『白是界』の正規な伝書は残っていません。現行の型付は十四世喜多六平太宗家の考案で、それを継承した先人たちの書き留めたものがあるだけです。後シテが頭はもとより装束や羽団扇の類いまで全てが白一色になり、大水晶数珠を片手に、よりどっしりとズカッー、ズカッーと大股で運び(歩行)、重量感を出して、天狗の存在感をより強調する特別演出となります。それはそれで効果がありますが、反面謡われている内容とのギャップを感じる型がいくつかあり、稽古をしていくうちに、現行の『白是界』が作品の主旨(本意)から少し離れているように思えてきました。先人からお叱りを受けるかもしれませんが、これまでの『白是界』は作品の主旨に従うというより、ただ面を替え装束や持ち物の色を替えることだけで済ませて来たように思えるのです。
謡われている内容とのギャップをどう埋めるか、『是界』という曲が何を言いたいのか?
特別に変化をつける『白是界』のねらいがどこにあるのか?
それを見つけることが肝心です。そこで、まず、そもそも天狗とはなにか? 是界坊はどうしたのか? 再度確認する作業からはじめ、自分なりの『白是界』を考案したいと思いました。
では舞台進行に合わせて今回替えたところをご紹介します。通常、前場の是界坊(シテ)と太郎坊(シテツレ)の扮装は、『安宅』の弁慶(シテ)と同じ直面(ひためん)の山伏姿です。しかしこの扮装では、天狗という異界からの侵入者・悪(ワル)の印象が弱く、物足りません。
天狗というと、頭に兜巾を載せ、鈴掛姿に袈裟を付け背中に翼を付けて、団扇を持ち、一本刃の高下駄を履き、鼻は高く赤ら顔で、髪も大童姿、空を易々と飛ぶ山伏姿を想像します。これは中世以降の鼻高天狗と言われるものです。
『是界』の原典となる鎌倉時代の『是害坊絵巻』には、鼻が嘴のように尖っている「木ノ葉天狗」「烏天狗」といった、もっと以前の鳥類天狗が描かれています。今回はその嘴の形象を面「鷲鼻悪尉」にて表現しようと考えました。ツレは逆に鼻を意識させないながらも、異界の者を感じさせる「真角」を選びました。頭はシテが黒頭、ツレがバス頭を使用して、唐と日本の違いを出してみました。
『是界』と『白是界』の詞章はほとんど変わりませんが、『白是界』で省略されることが多いのが前場のクセ。是界坊たち天狗が不動明王の威力を怖れ、悪と知りつつ抜け出せない身を悲嘆する心情、戦わずして敗北が語られ、明らかに仏法礼讃の詞章です。今回は、クセの省略だけでなく、不動明王讃美の序もサシもすべて割愛することにしました。天狗の弱音をはく個所を除き、前場の是界坊たちの奮起が前面に出るように、そして唐から日本に、愛宕山から比叡山にと、スピーディな場面展開の面白さを観ていただきたく演出しました。
後場では、後シテの面が『是界』の「大ベシミ」から「悪尉ベシミ」に替わります。粟谷家には諸先輩方が愛用してきた「ベシミ悪尉」という面があります。他人の言うことなど聞かない自己顕示欲の強い頑固な形相の、力強さが漲っている年老いた顔つきです。
当初私も、先人にならいこれを使う予定でしたが、稽古するうちにふと、「私が想像する『白是界』の天狗には似合わないのでは…」と思うようになりました。もしかするとこの面の魔力が原因で演者や、そして観客までもが、『白是界』を見間違えているのではないか、と…。
『鞍馬天狗』ならば、いかにも強そうでたけた表情が牛若丸を厳しく指導する姿に似合いますが、負ける『是界』の天狗にはどうも相応しくない、というのが私の判断です。
負ける天狗にはどこか愛嬌があって、間が抜けたようなユーモラスさが必要です。そこで別の「悪尉ベシミ」、通称「猫ベシミ」と呼ばれるものに替えることにしました。
後シテの装束は白一色となり、小書「白頭」では鹿背杖をついて登場しますが、『白是界』は杖の代わりに左手に数珠を持ち、常に胸に当てています。初め、この構えは不動明王を模しているものと解釈していましたが、友枝昭世師より、友枝喜久夫先生の書付にある「左手常に胸に、これ如意の如し、肝要なり」との心得を教えていただき、私の『白是界』の発想の基となりました。如意とは「意のままに、なんでも自分が正しい、自分の思い通りに」と自己中心の信念で、その信仰心を、左手で数珠を強く握りしめ、胸(心)に当てる格好で表現します。この数珠が是界坊にとっては信念のお守りで、これにすがって出てくるのです。
今回の新工夫は後半に並びます。まず通常の舞働を『紅葉狩』や『船弁慶』などのワキへの威嚇と見える型に替え、静の僧正と動の是界坊が対比してご覧いただければと考えました。結果はやはり従来通りの、是界坊と不動明王や諸々の神々との対決をシテの立ち回りだけで見せる型付の方が良かったようにも思えます。
また、普通は「翼も地に落ち…」と組落ちの型で飛行から落ちたと見せ、羽団扇は最後まで持ち続けますが、今回は、羽団扇を捨てた方が、飛行能力が衰えたと想像し易いと思い落とし捨ててみました。
地謡も終始ただゆったりと重く謡っているだけでは天狗の慌てる滑稽さが見られず、逆に単調で飽きてしまいます。そこで今回は「力も槻弓の八島の波の」から位を早め、慌てて逃げ去る光景に合う謡にしてもらいました。
そして『白是界』のクライマックス、是界坊が立ち戻り、遂に数珠を投げ捨てる場面です。先人は皆、本舞台に入り、ワキの前に、「今回は帰ることにするが…」と偉そうにポイッと捨てるようにしています。これが心得と聞かされてきました。天台の僧に完全に負けていながらも、まだ相手を小馬鹿にして見下す風格が必要だと…。
しかし、それでは「飛行の翼も地に落ち、力も槻弓の・・・・かほどに妙なる仏力、神力、今より後は来るまじと、云う声ばかり虚空に残り…」の敗北退散の詞章にそぐいません。『是界』の作者は竹田法印宗盛という室町御所の医師ですが、書かれた戯曲は国粋主義の神国、仏国、天台宗の讃美で終始しています。それが良いとか、悪いとかは別として、演者は書かれた台本を忠実に、充分に読み取って演じる、そう信じます。ですから、現実の負けを認めないような、是界坊のとらえ方には同意出来ないのです。
是界坊はあくまでも負ける天狗で悪役です。根底には天台の讃美がなくてはいけません。そこで私は、本舞台まで戻らずに橋掛りから舞台へ、「クソ、この数珠、効かなかったか!」と未練なく数珠を投げ捨てました。虚空に上がった是界坊が遥か下の地上にいる天台の僧侶に、悔しさをにじませながら敗北を認める格好です。
当初、なぜ是界坊は大切な数珠を投げ捨てるのか疑問でした。今回このレポートを書きながら、これは是界坊の自己中心的な考え方によるものだと、謎が解けたような気がしています。己の力を棚に上げ、うまくいかなかったのは自分のせいではなく数珠のせいとして、惜しげなく捨ててしまうのです。すべて己が正しく、間違いはすべて相手が悪い、このように考える人間の心そのもの、愚かな人間の姿を、天狗という悪役に置き換えて警告しているのが『是界』なのだ、そう思えるようになりました。
能役者は、戯曲に描かれているものを、現代に合った形で伝えることが第一です。羽団扇を捨て、敗北を認め、数珠を橋掛りから舞台に投げるなど、新工夫をした『白是界』でしたが、それらは今までの喜多流にはありませんでした。
橋掛りから舞台に投げるとは、と遺憾に思う同胞の方もおられるかもしれません。しかし、演能後、金剛流に橋掛りから投げる型があることを知り、まったくのお門違いではないことに少し安堵しています。
以前、新しい試みに挑戦された友枝昭世師が「そんな型、喜多流にあるの?」と嫌味に問われ、「いや、能にはある」と答えられました。あの鮮烈な言葉は今でも私の心をとらえています。「能にはある」を信念として、新工夫の大切さをかみしめ、今回また『白是界』で能の面白さを再発見できました。とはいうものの、まだまだ未熟な我が儘天狗の私です。あまり独走し過ぎてもいけないですが、消極的過ぎるのも効果がない、その兼ね合い、バランス感覚が極意、そう負け天狗が教えてくれたようです。