阿吽27 『采女』小波之伝の新演出 粟谷明生

阿吽27 『采女』小波之伝の新演出
大槻自主公演にて  粟谷明生

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『采女』のレポートを書くにあたって、まず初めに、私に大槻自主公演(平成二十年九月五日)での演能の機会を与えてくださいました大槻文蔵氏に深く感謝の意を申し上げたいと思います。父(故・粟谷菊生)は大槻自主公演発足時より、喜多流を代表して、この会に客演したことをとても喜び、誇りにしていました。父亡きあと、私にお声をかけていただきましたこと、父同様、私も大変光栄に嬉しく思っています。

 

ここで裏話をしますと、今回大槻文蔵氏からの出演依頼の曲は『邯鄲』でした。しかし、『邯鄲』は、春の粟谷能の会に予定されていましたので、演能意欲やチケットの売れ行きなどを考え、『采女』小波之伝ではとお返事しました。すると「夜の公演で開始時間が遅いので、『采女』は長過ぎませんか」とのご意見でしたので、一時間程度で終わる小書「小波之伝」のご説明をさせていただき、ご了承いただいたという経緯があります。

実は私が小書「小波之伝」に取り組むのは今回で三回目です。一回目は粟谷能の会・研究公演(平成九年)において新演出を試み、その後、粟谷能の会(平成十五年)に再度演出を変えて勤めました。今回、過去の二回の経験をふまえ、さらに工夫を重ね、テーマを絞りこみコンパクトでありながら能として充分楽しめる曲作りを目指しました。

 

『采女』という作品は春日大社の縁起物語、藤原氏や法華経の賛美、そして采女の女の帝との悲恋、入水物語、成仏できたことの喜びなど、作品の内容は豊富で、演能時間は二時間近くにもなります。このあまりにも長い演能時間とやや冗漫な作風のためか、我々能楽師は一度勤めてみても再演となると、つい敬遠しがちになっています。

 

先代十五世喜多実宗家は晩年『采女』を再演される時、体力面で長時間の演能はきついと判断され、この主題満載の構成を短縮した小書を創案されました。これが、当初『佐々浪之伝』と命名し、二回目以降『小波之伝』とされた小書です。小書作成には土岐善麿氏が御相談役を引き受けられ、詞章部分は土岐氏の意見が反映されています。しかし、残念ながらテーマの絞り込みの曖昧さなどを指摘する向きもあり、この小書はあまり評価されませんでした。

 

私は小書「小波之伝」を、能『采女』にこめられた主題を外さずに、しかも、喜多流能楽師が敬遠しないで、身近に勤められるものにしたいと考え工夫を重ねてきました。

能『采女』は一人の若い采女を主人公とした物語です。采女とは、古代天皇の身の回りの世話に従事した女官で、地方豪族の容姿端麗な娘たちが多く勤めたようです。

 

小書「小波之伝」では、通常の『采女』の春日大社の縁起や藤原家を賛美した部分を削除し、采女の女が現世の苦患を超えて仏果得脱して清逸な境地を得ながらも、さらに昇華を望む物語として再考しました。

采女の女は入水し、地謡は「君を怨みし儚さは」と謡いますが、それは現世でのこと。来世までも怨みや悲しみを引きずるのではなく、むしろ、死後の浄土の世界を美しく繰り広げるものです。そのため仏教賛美の色合いが少々濃くなっているかもしれません。

女人も成仏出来ると説く法華経の教えは、女性はまず龍女となり次に男性へと変わって成仏するという考え方です。現代の女性には腑に落ちない部分もあると思いますが、しかし男女を問わず、人間の輪廻転生、生まれ変わるという、東洋人特有の願望があり、今回はそれを基盤にして一曲の組み立て方をしてみてはと、改訂しました。

では、どう改訂したか、舞台進行とともに進めていきたいと思います。

 

都の僧(ワキと従僧ワキツレ二人)が奈良春日大社に着き参詣しているところに、ひとりの女(シテ)が数珠を持ち、アシライ出にて本舞台に立ち「吾妹子が寝くたれ髪を猿澤の池の玉藻と見るぞ、悲しき」と和歌を詠みます。

僧が女に猿澤の池を尋ねると女は池へと案内し、采女の女が身を投げたこと、謂われなどを語り、僧に供養を頼み、自分がその霊だと明かして池に消え、中入りとなります。

僧は里人にも采女の入水の話を聞き、池のほとりで夜の読経を始めます。すると一声にて、采女の女がありし日の姿で池の底より現れ、橋掛りの一の松辺りに立ち、読経の礼と成仏の喜びを僧に述べます。そして僧と釆女が「悉皆成仏は疑いない」とお互い確認しあうと、地謡はこの小書のテーマとなる「ましてや人間に於いてをや、龍女が如く我もはや、変成男子なり、采女とな思ひ給ひそ。而も所は補陀落の、南の岸に到りたり。これぞ南方無垢世界、生まれんことも頼もしや」を謡います。

恥ずかしながら、私はあの世とか浄土とは、何もしなくてもよく、楽に幸せに暮らせるところと想像していました。しかしどうもそう簡単で気楽なところではなさそうです。

 

仏教も、その教義はいろいろ様々でしょうが、ここでは能『釆女』の取り上げている法華経を主に考えると、南方の補陀洛は観世音菩薩の修行の場で、采女の女もここに居るようです。

私は菩薩になれればそれなりに幸せでいられると思っていましたが、さらにその上の世界、如来の境地まで修行しなければいけないようです。菩薩は涅槃に到るための修行の段階で、僧に幾重にも回向を頼むのはそのためかもしれないのです。そう考えると、舞台上では池の底から現れる采女であっても、実は補陀落浄土という天上界の高いところから降りてくるイメージも考えられるだろうと思い、僧に対面するときの雰囲気の出し方などを、演ずる気持ち的なものも含めて、謡の張り、型の動きなどに配慮、工夫をして勤めました。

その後は、本来あるべき春日明神の賛美や、采女の安積山の歌物語などを省き、序之舞へと続けました。

「生まれんことも頼もしや」と僧へ合掌した後は、観世流の小書「美奈保之伝」のようにし、詞章の「取分き」を「さるにても」に替えて「さるにても忘れめや、曲水の宴のありし時、御土器(かわらけ)たびたび廻り、有明の月更けて、山杜鵑誘い顔なるに、叡慮を受けて遊楽の」に続け、采女が帝に仕えていた時代の雅な情趣を添えました。

 

大胆な削除をするにしても、『釆女』という曲がもつ雰囲気、香気といったものを、残しておきたいと思い、ここは敢えて省くことをやめました。昔、お酌をしながら眺めた、有明の月、山杜鵑の声も聞こえると、遊楽が始まるのです。

詞章を短縮したときに、この小書を面白くさせるカギとなるのが序之舞です。今回の改訂では、序之舞の導入部分とその構成に心を砕きました。あまり鈍重にならず、しかもしっとりして優美に、主人公が次第に昇華していく様を表現出来ればと考えました。

 

序之舞への導入は、通常、まず拍子不合(ひょうしにあわず)のリズムに合わないノリで、地謡が和歌を謡い、途中から笛が吹き出して序之舞が始まります。舞い終わると、シテが地謡が謡った和歌を繰り返すように謡い、さらに和歌の全部を詠むのが定型です。

前回は「生まれんことも頼もしや」の後に先代宗家がなさった「吾妹子が・・」を入れて序之舞としましたが、「吾妹子が・・」の歌が繰り返し出すぎること、先に説明した「さるにても・・・・・・遊楽の」を入れたこともあって、今回は、地謡の「叡慮を受けて遊楽の」という拍子に合った謡の直後に笛が吹き出し序之舞に入るという新形式としました。この特別な対応をお囃子方(笛 杉市和、小鼓 成田達志、大鼓 白坂保行)にお願いし了承していただきました。

序之舞の構成は掛・初段・二段と短い三段構成としました。初段オロシでゆっくりと池を見込む型が入り、次第に補陀洛世界へと昇華していく境地へと気持ちも高揚し、ノリも次第に早まり最高潮となります。二段目は短く、橋掛り(一の松)へと移動し、舞の留めは『松風』見留の破之舞を真似て、譜は呂に落とし、「猿澤の池の面」と謡います。

それ以後本舞台には敢えて戻らず、僧から遠ざかりながらも、池の底へ戻り回向を願う型としました。

 

シテの面は喜多流では小面が決まりですが、私は前回の粟谷能の会と同様に「宝増」を使用しました。この面は岡山の林原美術館にある「宝増」の写しですが、小面と増女の中間、かわいいと大人びた表情の双方の幽艶さがあり、私は気に入っています。実は、前回は九世観世銕之丞氏にお願いして銕仙会所蔵の宝増を拝借しましたが、今回は、粟谷の家で念願の「宝増」を求め、使用することができました。面との出会い、面への信頼は能楽師の演能に大きな心の支えとなります。今回この「宝増」が小波之伝や、私に力を貸してくれたのではと信じています。

 

今回三度目の挑戦で、ようやく『采女』小波之伝がまとまりはじめた感があります。将来、どなたかにシテを勤めていただき、私は地謡にまわり別な視線、観点で舞台を創り上げたいと思っています。

最後になりましたが、この小書演出にご理解をいただきご指導と地謡を謡って下さいました、我が師友枝昭世師に深く感謝申し上げます。また、改作にご協力いただきました方々、「小波之伝」出演者の皆様、鳥居明雄氏、木澤景氏、横山晴明氏の方々にも厚く御礼申し上げます。

 

*(「粟谷能の会」のホームページの演能レポートで内容補足&写真も掲載しています。ご覧いただければ幸甚です。)

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