阿吽28 『安宅』延年之舞について 粟谷明生

写真 『安宅』延年之舞  粟谷明生 撮影 石田 裕

写真 『安宅』延年之舞  粟谷明生 撮影 石田 裕

粟谷能の会(平成二十一年三月一日)で『安宅』を十年ぶりに「延年之舞」の小書を付けて再演しました。

延年之舞とは、延暦寺や興福寺などの大きい寺で大法会の後の余興として、僧侶や稚児が舞ったもので、平安時代あたりから起こり、鎌倉時代には特に盛んに舞われていたようです。能の「延年之舞」は常の男舞に特殊な囃子方の手組「延年の手」が入り、喜多流ではそれに合わせシテが特殊な足踏みをする演出となる大事に重く扱う小書です。

 

この小書はシテ方の五流にあり、各流とも独自の扱い方をしています。森田光春著「能楽覚え書帖」には「延年の型は、扇を左に取り右袖捲いて飛び上がる延暦寺の型(観世)、ハネ扇して左斜めに少し飛び上がる興福寺の型(金剛)がある」と記載されています。現在の喜多流の「延年之舞」は特殊な足拍子を踏むものに、跳ぶ型を加えた形となっているので、延暦寺型を取り入れたことになりそうです。

 

ではこの跳ぶ意味、また特殊な足拍子はなにを表しているのかが気になります。

山中玲子氏はご自身の著「『安宅』の小書・延年之舞の成立経緯」で、観世流も以前は足踏み拍子だけの演出を観世元章あたりの新工夫で跳ぶ型を導入したのでは・・・と記されています。現在、観世流の延年之舞は跳ぶ型を三回に分けていますが、たぶん元章が三番叟の烏飛(からすとび)からヒントを得て工夫したものではないか、と推測されています。この烏飛の烏とは八咫烏(やたがらす)のことで、神武天皇東征の時、熊野から大和に入る険路の先導となった赤色の三本足の大きな烏です。その八咫烏が貴人の前で敬意を表し三段飛びをしたことを取り入れた、と解釈している方もおられます。

 

観世流が三度跳ぶところを喜多流は一度に減らし「エイ!」と掛け声と共に高く跳びます。しかし、喜多流の中興の祖、喜多健忘斎の伝書には、「延年之舞」について、現行のように掛け声と共に跳び上がる記載はありません。いつ、どのような理由で今のような「延年之舞」になったのか。先代・十五世喜多実宗家は掛け声をかけて跳んでいらしたと先輩方のお話ですので、もしかすると十四世喜多六平太宗家または十五世喜多実宗家のご発案かもしれません。これは私の推察ですが。

 

実は喜多流では、跳ぶことよりも、その後の独特な抜き足のような足踏みの拍子を大事にしているのが特徴です。笛の譜と囃子方の掛け声に合わせて、五つ拍子、四つ拍子、三つ拍子と順番に踏みます。型は片手を腰に当て、もう一方の手で大地を抑えるような動きとなりますが、これも伝書には何を表しているのかは記載されていません。

 

いろいろ説はありますが、跳ぶことと関連して、やはり『翁』の三番叟の影響は大きいと思います。揉みの段や鈴の段の型を踏襲して、足踏みは大地を整地する心、手の動きは鈴の段の種まきの風情を真似ている、この説が今、最有力ではないかと思います。『安宅』の延年之舞は寺院の行事でありながら、翁の神事にも通じる、この両者の重なり具合が延年之舞を余計に興味深く面白くさせているのかもしれません。もっとも、延年をする衆徒が法会の間の場を取り持つ動きの一つとして、滑稽な動きを見せ観衆や聴衆の人目を引いたということも捨てがたい説ではあります。

 

 演能後、弟子の宮地啓二氏に資料集めを依頼したところ、寛永寺・土屋慈得氏のご協力により、日光山・輪王寺や平泉・毛越寺からの資料を入手することができました。現在、寺院で「延年之舞」が舞われるのは、この二寺だけです。その資料によると、喜多流の「抜く足拍子」は毛越寺の老女の舞の腰を屈めた姿に似ています。腰を屈め、鈴を鳴らす動作は、田畑への種まきを表しているようです。

 

 このようなことは演能後に分かってきたことですが、実は舞台で弁慶を演じているときの私の心の内側は、型の意味合いよりは、窮地に立たされた弁慶がどのように義経一行を逃すか思案する時間稼ぎ、または、三塔(比叡山)の遊僧として昔手慣れた動きがふと自然に顕れてしまった、といった解釈になっていたのが正直なところです。

 

「延年之舞」を勤めるにあたってもう一つ気になったことがありました。それは「延年之舞」自体が、囃子方との約束事を重視した手組の面白さにばかり焦点を当てて、物語の展開という本筋から微妙にずれた演出になっているということ、私はそう思えて仕方がありませんでした。

 

招かざる関守の前で舞を舞うことになった弁慶。しかし一刻も早くこの場から退出したい心持ちのはずです。ところが、延年之舞は「延年掛(えんねんかかり)」となり、通常より一クサリ長く伸びて、仰々しいシテの達拝が導入されます。囃子方の強くゆったりとした掛け声は神聖感が漂い悪くはありませんが、どうもこの達拝が気になります。早くどうにかして退出したい弁慶の心持ちを最大限に活かす演出で、観客の心にも強くアピールし、『安宅』という物語に似合った演出はないものか、と考えました。そこで山中氏の『安宅』が創られた当初は破掛り(はがかり)で行われていたという記載が私の背中を押してくれました。そして、我が家の堀池家の伝書に「瀧流之掛(たきながしのかかり)」は破掛りと記されているのを見つけました。~「鳴るは瀧の水」と謡い直ぐにサシ・男舞・破掛~とあります。これが私の演じたい気持ちに似合うと思い、今回の試演となりました。

 

お囃子方(笛・松田弘之 小鼓・鵜澤洋太郎 大鼓・柿原弘和)のご協力を得て、堀池家の書き付けを配り、それを頼りに全員で新たな演出を考えました。「落ちて巌に響くこそ」の「響く」で笛のヒシギに合わせてシテは足拍子を踏み、瀧を見上げ、落ちる水を見回しながら、「鳴るは瀧の水」と謡い、しぶしぶと舞に入る心持ちの演出にしました。瀧の水音は小鼓の乙流し(ポンポンと同じ拍子で打つ)の連打で表現し、弁慶の気持ちが乗らない心情は大鼓の中々打ち出さない技法で表現しました。

 

今後どなたか再演して更に手直しを加えてよりよい瀧流之掛が生まれたらよいと期待しています。一度吹いた新しい風、それが一回限りで終わらず、何度も歴史のように繰り返し、そのうち洗練されていく、そう望んでいます。

 

小書「延年之舞」には、狂言方の小書「貝立(かいだて)」が付き物です。「貝立」は、アイ(強力)が関の様子を報告した後に、再度橋掛りに立って「ズーワイ、ズーワイ」とほら貝を吹いて出立を知らせる小書です。今回は野村萬斎氏がアイを勤めてくれましたが、申合後に「どんな感じで吹いたらいいでしょうか。シテの謡い方によって貝の吹き方が違ってきます」と言われました。「さあらば御立ちあろうずるにて候(さあ、出発しましょう)」と、弁慶が義経に告げる、その謡う心持ちによって、「ズーワイ」の吹き方も違う、というのです。勢いよく「さあ、行こう!」という明るい陽の謡い方なら、陽の吹き方になり、「大変だけれど、身を引き締めて参りましょう」という暗い陰の謡い方なら、陰の吹き方になるということです。私が後者の陰のやり方で謡う、と伝えると、萬斎氏は「ではそのように吹きましょう」と快く対応してくれました。

 

このようにちょっとしたこまかな言葉のニュアンスまでも配慮して舞台をつくる、当然のことなのですが、こうしたことがよい舞台作りには不可欠なのです。当日、より新鮮な気持ちで舞台へ出られたことは幸せでした。

 

今回のレポートは「延年之舞」の小書を中心にまとめました。このように書いてくると、延年之舞ばかりを考えていたように思われそうですが、決してそうではありません。

小書「延年之舞」は重い位の習、もちろん大事にしなくてはいけませんが、『安宅』という能を演じるとき最も忘れていけないことは、物語の展開の面白さをきちっと伝えることです。現在物と呼ばれる曲は、お芝居にならずに能の手法の内側ギリギリで、いかに表現できるかにかかっています。私は幽玄物と現在物とを意識して演じ分けています。

 

『安宅』では、シテや子方と立衆全員から関を突破する意気込みが感じられなくては、観ていて面白くありません。そのためには各役者がそれぞれ謡い方に緻密な緩急をつけ、一つひとつの所作も冷静と興奮というような動と静が繰り広げられ、心の陰陽が彷彿されなければならないのです。

 

義経が疑われた後、郎党が一気に立ち上がり、シテ方とワキ方の「押し合い」となる場面、最初の道行や弁慶の勧進帳を読む謡の聞かせどころ、安宅の関を通ったのは、弁慶一党の信仰の力なのだという描き方、能『安宅』は随所に緊迫した名場面を用意しています。そこをどう描くか、舞台を勤めるすべての能役者に問われているのです。

 

今回は、シテだけではなく、義経(子方)から郎党たち(シテツレ)、富樫と太刀持そして強力(ワキ・アイ)、もちろん囃子方から地謡まで、すべての人が『安宅』という物語の能を創り出すために意識を上げて取り組んで下さった、そのことに感謝しています。同じ舞台に立つ者同士で創り上げていくことの面白さ、素晴らしさを満喫しながら、懐の深い、多様な能の世界をこれからも更に追及していきたい、そう思いました。生意気かもしれません。考えすぎるなと言われそうですが、「い~や、それでよい!」という弁慶の声が、私には聞こえてならないのです。

 

*(「粟谷能の会」のホームページの演能レポートで内容補足&写真も掲載しています。ご覧いただければ幸いです。)

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