阿吽1 伯母捨を舞って 粟谷菊生

一人っ子だった親父の益二郎は、番組に粟谷という活字をたくさん並べたいと、新太郎、菊生、辰三、幸雄と、四人の子供に喜多流を継がせた。

 『鷺』を舞うことになっていた寸前に、親父は亡くなった。親父は六十六才だった。

 兄貴の新太郎が『鸚鵡小町』を舞い、私が『卒都婆小町』を勤めて、いづれあの世へ行ったとき、親父の果たせなかった老女物を舞ったことを、親父へのいい土産話にしようと思っていた。僕はもうこれでよいと思っていたところ、或る時、甥の能夫と息子の明生に鮨屋に呼び出された。今のうちに『伯母捨』を是非舞っておいて貰いたいと云うのだ。

 『伯母捨』は喜多流では百八十年も舞われることのなかった曲で、先輩たちが誰一人勤めていない。これはえらいことになったと、鮨をつまみながら、しぶしぶ承知した。が、さて、そうと決まると忽ち面のこと装束のことなど、次から次へと『伯母捨』のことでいつのまにか頭の中はいっぱいになってしまった。もう鮨どころではなかった。

 その翌日から早速『伯母捨』の掘り起こしに没頭したが、その二年間、実に様々な方々からあたたかい御支援をうけた。

 平素から交際範囲の広いことが幸いして僕には友人も多い。とりわけ、静夫ちゃん(観世銕之亟氏)は彼なりの考えを親身になっていろいろ僕に話してくれた。銕仙会の楽屋で熱っぽく語ってくれたこの二時間は僕にとって、いつまでも心に残る楽しい思い出となるだろう。

 また、僕の幼馴染みで親友である太鼓の名手である惣ちゃん(金春惣右衛門氏)の、その太鼓を僕は聞きたかったので、一声でなく、あえて出端にして頂いた。

 朧月という型を考えていた時、ふと心に浮かんだのは昔見た橋岡久太郎氏の寂しく立ちつくす『姨捨』の一枚の写真だった。

 流儀を問わず大勢の方々が親切に応援して下さったことは、まことに感謝に堪えない。

 いよいよ当日。長年自分の中に培ってきたもの、それを自然体で出せばよいのだ、と開き直った僕は、ただひたすら精魂をこめて『伯母捨』を勤めた。それは今だかって無かった、自分にとって極限のものだったと思う。これこそ能の演者として至福というものか。(どの能を舞うにも、これくらい心をこめればよいのに、と我ながら思ったことだが)

 三役はじめ多くの方々によって能は支えられる総合芸術であるということは、わかってはいたが、この時ほど実感として、改めて痛感したことはない。その日の舞台を支えてくれた方々のおかげと、心底からしみじみ感謝した。

 老女物の『桧垣』は友枝喜久夫氏の地頭を謡わして貰ったし、これで残るは『関寺小町』だけだが、そんなに御馳走を食べるものではない。これは残しておくことにしよう。これからは未だ舞い残している曲もあるし、練り直したいものもあるし。若い人たちに、自分の体験を含めて語り継ぐことが、私の仕事ではないだろうか。

 親父はいい土産話を早く聞きたいだろうが、それはもう少し待って頂くことにしよう。

koko awaya