阿吽18 『八島』の修羅道について 粟谷明生

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能『八島』は、喜多流では『八島』と書きますが観世流は『屋島』です。もっとも観世流も大成版以前は『八島』と書かれていたようですが、八の方が末広がりでめでたい感じがします。

 今年の厳島神社ご神能(平成十六年四月十六日)で、この『八島』のシテを勤めました。私にとっての『八島』は仕舞を二十五回、ツレを六回勤め、シテの披きが昭和五十九年・粟谷能の会のときで、二十九歳でした。今回は二十年ぶり、「弓流」の小書きでの再演となりました。

 『田村』『箙』『八島』の勝者の三番を勝修羅と言いますが、この区分けは江戸式楽以降の発想でいかにも武士好みです。作品内容を考えると『田村』は清水寺観世音菩薩の功徳を祝言能として描き修羅とはいえません。『箙』は梶原景季の勝修羅としての勇壮な能といえますが、『八島』の主題は修羅道(敗れても再生し戦い続け苦しむ世界のこと)に苦しむ武将義経の苦悩だと思うので、単に勝修羅と区分けすることに今は意味を見いだせないように思えます。この勝修羅といわれる三曲は青年期までに稽古し習得しておかなくてはいけない曲ですが、喜多流では稽古順は『田村』『箙』、そのあとに『八島』となります。

 『八島』が世阿弥作であることは間違いないようです。作品構成は上手く整理され申楽談義にも「道盛、忠度、義常、三番修羅がかりにはよき能也」と載っています。『義常』は『八島』と言って問題なく、ワキの宿借りの問答は『松風』や『絃上』にも似て、シテもツレも言葉を間違え易く、気を遣うところです。

 私はツレを勤めながら、男とだけ記されているこのツレが誰であるかが気になっていました。何者か判然としないこの役が物語や語りを立体化させると言う方もおられますが、どうも説得力に欠けます。演じる側としては、誰々と指定されたい気持ちが強く、大半の演者は義経の家来であると思っていて、とりわけ佐藤継信ではないかという意見が多いのです。しかし佐藤継信ならば後場まで居残る喜多流の演出では弓流しの場に居合わせるのが理屈にあいません。そこで、このツレが義経の霊の分身である説が浮上してきました。義経の霊は漁翁一人として登場するのではなく、ツレの若い漁師にも乗り移って分身として登場するというのです。これならばツレが後場まで残る喜多流の主張に合うはずです。私は今、この説が一番妥当ではないかと思っています。

 前シテの面は本来「三光尉」ですが、今回御神能に用意された尉の面に「笑尉」がありましたので試してみました。表情は名前の如く、笑んだ顔のため修羅の苦患とは無縁ですが、能楽師の好奇心でつけてみました。。結果は人物像に陰りが出にくいので無理があったかもしれません。

 塩屋に通された僧(ワキ)が八島の合戦の模様を尋ねると、老人(シテ)は「あらあら見及びたるところを語って聞かせ申し候べし」と語り始めます。義経の装束描写と名乗りから始めるこの語りは、平家物語「継信最期」の原文に添って前半の見せ場の始まりです。ここはあまり熱が入り力が外へ発散し過ぎては尉の語りに似合わず、抑制を意識し過ぎ内へ引きこもると臨場感に欠け、修羅場の語りではなくなって、面白味が半減します。丁度よい頃合いを体得することが演者の大事な修業過程の一つで、今回も苦労したところです。語り終えると、我に返るように「今のように思い出されて候」と一旦落ち着くように謡います。この静め方を上手にすると、次に謡うツレの戦況場面が生きてきます。シテを挑発するツレの謡、それに触発されてシテがまた語り始める、そのような繋がりの面白さなのです。

 平家物語原文では、物語の進行は継信最期、那須与一扇の的、錣引き、弓流と進みますが、能では錣引きの後に継信最期の話となり、那須与一の扇の的を射る話は狂言方が担当して、後場で弓流となります。子どもの頃より、能の世界で書かれた歴史に慣れ親しんできたため、誤って歴史を認識していたことを知りました。今回平家物語を読み直し、能の屋島の合戦が平家原本とどのように異なって戯曲化されているかを知り勉強になりました。

 三保谷四郎と悪七兵衛景清の錣引き、ここも緩急と語る口調が難しいところです。偉大な先人たちはいとも簡単にやっておられたように思え、自分も出来る気でいたのですが、いざ舞台に立つと、そう易しいものではありません。「鉢附の板より引きちぎって」で両手を放し両者が左右にどっと分かれる型がありますが、床几に腰掛けた少ない動きの中での型は難しいところです。この錣引きの模様は能『景清』の方が詳細にリアルに演じられています。『八島』では「これをご覧じて義経」でシテは床几から立ち、継信最期の話へと移ります。義経目掛けて能登殿が放った矢を、継信が身代わりになって受けて馬からどっと落ち、平家方も菊王丸が討たれたことで、源平共に哀れに思い、互いに引き潮のように兵を引いていきます。あとは磯の波や松風ばかりの音が寂しく聞こえるという地謡の謡で、シテは昔の戦況を詳細に語り、その虚しさを訴えるように静かに下居します。小さな動きながらも激しい戦闘場面、ここが上手く繰り広げられなくてはと、演者が奮闘するところです。この後のロンギが唯一幽玄の世界となります。世阿弥はここを最も大事にしていたようで、最後の「よし、 常の浮世の夢ばし覚め給ふなよ」は、義経と、よし、常の浮世の掛け詞でしっとりとした雰囲気を出し、悲劇の英雄義経の姿を垣間見せて中入します。

 今回は小書「弓流」ですのでアイは「那須語」となります。語りの最後は「乳吸えやい、乳飲ませいやい」で終わります。この面白い表現、よくよく調べてみると、「よくやった、でかした与一、褒美に女性のところで甘えてくることを許すぞ」ということのようで、このいかにも武骨な武将らしい言葉の使われ方が私は好きです。

 後シテの面は通常、平太(赤)ですが、小書の時は白平太になります。生憎厳島神社には白平太がなく、残念ながら常の平太(赤)にて勤めました。出立ちは厚板、半切、法被の肩脱ぎとなりますが、古来は厚板の上に法被と側次を重ねていました。以前『箙』の時も試してみましたが、なかなか重厚感ある扮装なので今回も付けてみました。

 一声で「落下枝に帰らず、破鏡再び照らさず、然れども猶妄執の嗔恚とて…」と修羅道での苦悩、妄執を嘆きますが、不思議と救済を求めないのが、この曲の特徴です。おめでたい勝修羅といわれる所以でしょうが、根幹のテーマはやはり殺人者の懺悔、成仏への懇願ではないかと私は思っています。しかしそこを明らかにしないところに、この作品の妙な明るさと特別な味わいがあるようで、判官贔屓にはたまらないのかもしれません。私は今回演じて、しかし何かふっきれない、すっきりしないもどかしさを感じました。勇壮なだけではない、義経自身の悔しさ、敗北者の悲劇がどうにか表現出来ないだろうかと試みましたが、手ごたえを感じるまでにはいかなかったことが反省点です。

 喜多流の弓流は、我が家の伝書には「囃子方、装束に変わりなし」、「舟を寄せ熊手にかけて、既に危うく見え給いしに」後に立ち、少し出て下居、「其の時熊手を切り払い」と切り払う型をするとあります。今回は下居せず元の座にシサリながら左手に弓(扇)を抱えたまま床几に腰かけました。弓流はこのもとの所に戻るのが難儀で技の見せ所です。「後見は床几にくれぐれも触れぬこと」と注意書きがされています。最後の仕舞どころに緩急がつき、橋掛りでの特殊な型が入り、「春の夜の闇より明けて、敵と見えしは群れ居る鴎」とまた舞台に入り、激しく面遣いして常座で廻り返しをして留拍子を踏み終曲します。

 源義経という人は平家を滅ぼすためだけに生まれてきた人ではなかったでしょうか。義経が登場する能は『鞍馬天狗』『橋弁慶』『関原与一』『熊坂』『烏帽子折』『八島』『正尊』『安宅』『船弁慶』『摂待』などですが、シテが義経なのはこの『八島』だけです。負けず嫌いの源氏の御曹司は百戦錬磨の名将義経となりますが、壇ノ浦の合戦以降は、人生の歯車がかみ合わなくなります。政治家頼朝の策略に使い捨てのように使われ、奥州、藤原家を頼みに下向しますが、遂に衣川の戦いで自害して果てます。一の谷合戦の奇襲作戦、屋島の戦いの前に逆艪問題で梶原景時と対立し猪武者と言われても「勝ったるぞ、ここちよき」と尻込みを嫌う性格、壇ノ浦合戦では楫取、水夫(かこ)を射殺すルール違反の新戦法で勝利し、あくどさも見せつける義経。これらの出来事で修羅道に落ち、梵天に攻め上っては負け、攻め上っては負けるという戦いの日々を暮らす義経の苦悩、これがこの曲の主題であり、そこが表現出来なくては『八島』を勤めたとはいえないと思っています。

 大槻文蔵先生は、能は歴史の王道を歩いた人ではなく、そこからこぼれた人を描いている、平家物語は歴史を上から書いているが、それを下から描いているのが能だと仰っています。すばらしい言葉で心に残ります。

 私はどうにかして義経の心の奥深いところにくすぶっている嗔恚(成仏を妨げる生前の怒りの心)と妄執の苦悩を表現できるような『八島』を勤めたいと今、再挑戦を心に期しているのです。

*(「粟谷能の会」のホームページ演能レポートで内容補足&写真も掲載しています。ご覧いただければ幸甚です。)

写真 『八島』弓流   シテ粟谷明生  撮影 石田 裕

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