厳島神社/桃花祭の御神能
厳島神社/桃花祭の御神能
粟谷 能夫
粟谷 明生
(21世紀最初の御神能ということで、今年平成13年は能夫が翁付『弓八幡』でシテ、明生がツレを勤めました。この度この御神能について、二人で語りあってみました。)
明生 4月16日に厳島神社の桃花祭・御神能で翁付『弓八幡』を勤めた感想を、まずは聞かせてください。
能夫 このところ靖国神社・夜桜能での友枝昭世さんの舞囃子『枕慈童』、松山道後温泉・大和屋の夜桜能と、屋外で演じるよさを感じているけれど、それらはみな夕方から夜にかけてなんだ。そこへいくと、厳島神社の御神能は朝の9時から‥‥、早起きするのは大変だが、すがすがしさはあるな。太陽が燦々と降り注ぐ中で演じる『翁』は絶品だと思う。
明生 本当にすがすがしさ、気持ち良さというのがありますね。厳島神社の桃花祭は文字通り桃の花のお祭りで、その中の行事の一つとして御神能があるわけですが、我々にとっては、4月16日が1年の節目で、お正月のような気分になります。
能夫 そうね。神事としてのお能を勤めることで、神にありがとうございますという1年の感謝をこめ、お正月を迎えるような気分になるね。
明生 毎年4月16日から3日間、形式は翁付五番立(今は3日目のみ翁付ではない)で、3日間の出し物は全部違う。五番の間に全て狂言が入りますから、朝から始まって夜まで、大変な時間がかかります。東京では年に1回、東京式能といって2月の第3日曜日に五番立を催していますが、ここの御神能ほど古い形式を守っているのはないでしょう。厳島神社は安芸国(広島県)の一の宮。平清盛が安芸守となってから厚く崇拝し、今日の社殿は清盛が造営したものの形を受け継いでいるということです。御神能はいつごろから始まったものですか。
能夫 厳島神社の能は戦国時代までさかのぼる。厳島の戦いという、主君・大内義隆を殺して領国を奪った陶晴賢(すえはるかた)と、生前の義隆と親交があり、安芸で勢力を伸ばしていた毛利元就との、首位を決する戦いがあって‥‥。結果は毛利元就の勝利となり、毛利が中国地方最大の大名として勢力をふるうことになるのだけれど、そのときの戦いで、厳島神社の神域を血で染めたというので、神をなぐさめるための神事として、1565(永禄11)年に元就が観世太夫を招いて奉納した能が始まりみたいだね。その後1605(慶長10)年、福島正則が能舞台を寄進し、この時に常設の舞台ができ、1680(延宝8)年、浅野綱長によって現在の舞台と橋掛及び楽屋が造られたそうだよ。定期的に御神能が行われるようになったのは、さていつのことなのかな‥‥。
明生 そういう歴史があったのですね。現在は、1日目と3日目が喜多流、2日目が観世流の担当になっています。昔は宝生流や金剛流も参加していた時期があったようですね。
能夫 今は五番立のうち、翁付脇能を玄人が勤め、あとは三番~四番、素人の方もやられる。3日目は素人の方が多いね。昔は翁も地元の人がやられていたようだよ。今はそういう太夫がいなくなったから、我々玄人がやり、翁以外は素人の方もやられたり・・ということになっているわけだ。それにしても、翁付という形が残っているところで、『翁』をやれるという喜びがあるね。翁付脇能までやらないと『翁』をやったことにはならないのではないかな。翁を勤めるには儀式、儀礼を土台とした心の集中力と続く脇能のシテへの気持ちの転換、この作業の経験が必要でね。脇能まで勤めてはじめて『翁』の披きだろうと思うし、僕はここでそれができたことを自負しているんだ。
明生 私も『翁』の披きはここで勤めました。『翁』だけですと30分ぐらいで終わってしまい、言われる通り、翁付『高砂』、翁付『弓八幡』を演じて初めて『翁』を勤めたといえるのでしょうね。脇能までの2時間半程の時間を体験し、ここでは朝のご祈祷もありますから、もっと長い時間を束縛されて、その日の太夫を勤めたという感じが生まれてくるみたいです。その意味でよい経験をさせてもらっていると思います。他には『野守』、『羽衣』、『小督』、『花月』なども舞えて、いろいろ勉強になりました。
今回私は、能夫さんの翁付『弓八幡』でツレを勤めましたが、ツレは普通、若い20代ぐらいの人が良く、似合っていると思うのですが、今年は21世紀の一番最初、新たな気持ちをこめてということで勤めました。調べてみると、この御神能での能夫さんのツレは、『高砂』、『弓八幡』、『養老』も、全部私がやらせてもらっているのです。なおかつ、今回の『弓八幡』は3回目。15年前とか20年前のツレは多分至らないものだったでしょうね。
能夫 明生君のかつてのツレがどうということは言わないけれど、この御神能は全ての役者がいい役者とは限らないんだよ。素人の方も入っているし、いろいろなマイナス面を背負いながら、それを我慢して舞台をつくり上げていかなければならない。五番立3日間を継続していくところに意義があるのではないだろうか。未熟な三番三(さんばそう/和泉流では三番叟)や千歳(せんざい)が出られると「あれあれ大丈夫かな」と心配しながら、翁太夫を勤めなくてはならないという寂しさはあるね。それでも宮島の太夫としてやらなければならない責任感もあるし。何も考えずに自然と舞台に集中できる『翁』と、いろいろなことを考えながら勤める『翁』とでは違う。やはり疲れるよ。亡くなった父も元気な頃は幹事役をし、能も舞い、そうそうNHKで放送された『湯谷』の舞台などもありましたが、晩年は体調を崩し、来年は来れるかなという思いがあったみたいでね。それだけ愛着もあったのだろうね。
明生 よく長いこと続いてきましたね。桃花祭の御神能というのは自分の事だけやっていればいいというわけでなくて、地謡をし、装束付けもし、素人演者の面倒や気の配りとやることがたくさんあって‥‥‥。
能夫 プロが大勢来ているわけじゃないからね。菊生さん、幸雄さん、執事の出雲さん、明生君、友枝雄人君、狩野了一君、充雄君、浩之君と9人で全部やるんだから。地謡は3人、後見2人、それに働きがあって、1日五番。装束をつけ、地謡を謡い、シテもツレもやる、だから鍛えられるよね。そこで謡もしっかり覚えたし、責任持ってやるようになった。地謡だって、いつもの8人なら8分の1の精神でいいけれど、3人のうちの1人ということになると、それぞれが地頭に匹敵するような責任感を持たなければやっていけないからね。後見だって、段取りがわかっていなければならない、謡(言葉)の間違いも直し、物着もしなければならない。だから、あの場で成長したってことはあるよね。
明生 そうい場があるということは良いことで、恵まれているといえば、恵まれているのでしょうが。確かにきつい場ですよ。脇方もお囃子方も東京では滅多にお相手できない流儀、例えば高安流、石井流といろいろと、経験しながらその流儀を知るということもありますね。装束付けもゆっくりきれいになんていっていられません。とにかく時間がない。
能夫 それで早く、しかもきちんとつける技術が身につくんだよ。間狂言の間に全部、装束づけをしなければいけないのに、間狂言がすごく短い時もあるからね。
明生 何年か前のことですけれど、翁付の五番全部装束付けをしたら小指のところにタコができたんですよ。夕食の反省会で飲んでいるときに指がかゆくなってきて、これ何だろうと思っていたら、どうやら装束付けで紐や帯を結ぶ時にできたタコらしい。1日にあんなにつけることないですからね。
能夫 そこでみんな技術を獲得するんだね。
明生 マイナス思考をすると、御神能は、あんなつらく、ハードなところはないになってしまいますが‥‥。
能夫 9時から始まって五番立でしょ。9時に始まるということは、楽屋入りは7時半。我々は何時に起きるのかってことになる。夜は夜で反省会といっては飲んで遅くなるし、もう我々おじさんたちはくたびれるよ。
明生 とにかく飲み過ぎると次の日の朝がつらい。
能夫 我々は島でなく、本土の方で泊まっているから、7時5分の船には乗らないといけないからね。
明生 あの時期、風邪ひいたり、怪我をしたりと、一人でも故障者が出ると大変です。他の舞台だって故障者がいると困るけど、宮島の舞台ばかりは、人がいない、一人一人が全うしようという使命感を持ってやらないとどうしようもないですから。
能夫 本当によい修業の場だよね。でも神事で『翁』をするよさは確かにある。
明生 そうですね。それにしてもよくやってきたなあ。私は24歳からですがもう20年越してしまいました。これで来年がすぐ来たりしてなんて言っていると、本当にすぐ来るんですよ(笑い)。
能夫 そういいながら、また行って、年の節目を感じるということになるんだろうな。
(平成13年4月21日 割烹 千倉にて)