我流36 『三輪』 『正尊』、そして 『安宅』
我流『年来稽古条々』( 36 ) ―研究公演以降・その十四― 『三輪』 『正尊』、そして 『安宅』
明生 平成二十七年に粟谷能の会で勤める曲目について、話し合っていきましょう。我々の能についてと同時に、過去、新太郎伯父や父菊生がどのようにやってきたかも振り返っていきたいと思います。
能夫 それがこれから能に携わる人への伝承にもなるからね。大切なことだと思うよ。
明生 次の粟谷能の会(第九十七回、平成二十七年三月一日)の演目は『三輪』能夫、『正尊』明生で、『三輪』は「神遊」の小書付きですね。
能夫 『三輪』のチラシをみたら、前の研究公演(平成十三年)では、材質が桜の一番古い「小面」を使っているね。今回は違う、しかるべき小面でやりたい、と思っているよ。
明生 喜多流では後シテの三輪明神は小面が決まりですが、作品の質からしてそういうことになりますかね。
能夫 父がいろいろな「小面」を集めてくれたから、曲に似合った、そして今の自分に似合う面を選択したいと思うね。
明生 『三輪』は脇能的な能ですが、かわいい色気も必要ですね。
能夫 神々しいよりは人間的でかわいいほうがいいかな。
明生 研究公演立ち上げの初回では小書「岩戸之舞」でされましたね。『三輪』といえば普通「神遊」に憧れるのに、少し遊ばれたのですか(笑)。私は『三輪』の初演が平成六年で、平成十九年に
「神遊」を披きましたが、青年時代から先輩方のを拝見して、いつか自分も演りたい、と憧れていました。
能夫 「神遊」は『道成寺』を披いて初めて許される位の高い小書だからね。僕だって憧れましたよ。ただ、「岩戸之舞」という小書には二通りの伝書があるのに、先人たちは天の岩戸を捜すイロエの型が入るものは挑まれるけれど、もう一つの暗闇の神楽を奏する心持ちの方はやらない。そこを掘り起こしてみたい気持ちがあったよ。それにしても、父たちは『三輪』「神遊」が好きだったね。
明生 気合が入っていましたね。若輩の私でもその空気はわかりましたよ。
能夫 何かそんな感じだった。だからそれだけの覚悟というか凄さみたいなものがあったね。
明生 こんなことを言うと叱られるかもしれませんが、父たちはあまり細かなことはこだわらないで、ただただ伝承を忠実に模写していたような気がします。そこのよさももちろんありますが…。例えば囃子方からの主張が、喜多流の、いや自分の考えとズレていても、己を主張することは無かったように思えるのですが…。
能夫 「神遊」になると囃子事に秘事口伝が多く加わるからね。前場でワキ方に音取(笛の独奏)、置鼓(小鼓の独奏)が入り、シテ方も習次第になり、脇能的というか、少し儀式的になる。
明生 『三輪』をそんなに儀式的にガチガチに固めることはないと思いますよ。本来の『三輪』の趣とは違うところに行ってしまうような気がします。私の「神遊」のときはワキへの音取と置鼓は無しにしました。もちろん、ワキの方とご相談してご了解を得てですが。習次第も仰々しいです。
能夫 この約束事は歴史的に見てもそう古くからあったものではないから、見直しがあっていいと思うよ。
明生 それに「神遊」の面白さは神楽にあると思うのですよ。神楽の譜は笛方の流儀によって異なります。一噌流が常の神楽の譜と変わらないのに対して、森田流は「神遊」特有の譜があって、盛り上げてくれます。序のあとの長い反復の吹き返しや二段目のユリなど、観る側も演る側も陶酔させられるような魅力的な譜と音色、私は好きですね。
能夫 父たちの時代は、ほとんど寺井政数先生(森田流)がお相手でしたね。全盛期だった。それを継承してくれる人が多く出てくるといいね。『三輪』で思い出すのは、八世銕之亟先生が「三輪の山本、道もなし」、これを肝に銘じておかないといけないと言われていたこと。
明生 シテの次第の謡ですね。
能夫 道なき道を行くような、この道をどんなふうに行ったらいいのという苦悩みたいなものを表現する。
明生 神でさえ、天照大神や三輪明神という偉い神様でも、人間的な悩みをお持ちである、という感じですね。
能夫 シテが最初に謡う次第は、その曲のテーマを謡うわけだから大事ですよ。このシテはどういう思いをもって出て来たのかということがそこに凝縮されているから。
明生 謡い方も難しいですね。それから、昔は、小書がつくとなんでも袷狩衣を着るのがお決まりで忠実に守っていましたね。でも新太郎伯父は単衣狩衣でした。
能夫 父の肉体的なことがあって、袷狩衣では重く動きにくく、老体では疲労するのでは、と、心配して本人も僕も単衣でいいと判断したんだ。
明生 あのときの古い白色単衣狩衣、ソフトなしなやかな感じ、憧れましたよ。もっとも最近では単衣狩衣の方が多くなりましたね。時代の流れが変わったように思えます。
能夫 小書が付くことで決まりごとが変わる面はあるし、小書をしないと一人前じゃないというような風潮もあるけれど、それはある意味権威主義だね。小書だってその曲を面白くさせようと工夫したものだから、本来のその曲の主題に立ち返って考えることが大事で必要だと思うよ。観世榮夫さんが『八島』(観世流は『屋島』)は「大事」の小書が付くと大騒ぎするけれど、まずは『八島』がちゃんとできるか、義経の苦悩を表現出来るか、が最優先されないといけない、と言っておられたよ。
明生 『八島』は勝修羅と言われ、お目出度い感じにとらわれる曲ですが、テーマは義経の修羅道での苦悩ですよね。義経は屋島、壇ノ浦と勝利しますが、その後、頼朝と不和になって凋落していく運命にあるわけですから。
能夫 榮夫さんの指摘は的確だね。
明生 榮夫先生もそう、父たち、そして能夫さんなら寿夫先生、私は静夫先生ですかね、そのほか大勢の方々から教えていただいたこと。伝書の読み込みも含めて、そういうことの積み重ねが貴重だと思うようになりました。年とったのかなあ(笑)。
能夫 ずいぶん親に反抗もしてね。
明生 他流を見て刺激を受け憧れ、一度親を否定する、そしてまたもう一度外側から親や流儀を見て、そのよさを認識する、そういう過程を踏むことは決して無駄ではなく、むしろ必須だと思います。
能夫 流儀のなかだけでは、広がりや発展がないからね。親や流儀を一度否定し、また戻ってくる、そこで能の本質が見えてくる気がするね。さて、明生君は『正尊』を勤めるんだよね。
明生 『正尊』といえば、粟谷能の会としては、平成八年に父菊生が勤めて以来になります。その当時は、若者も大勢いて、父も元気でしたね。あれを演っておいてもらってよかったと思っています。
能夫 『正尊』という曲は、静御前の子方をできる子が先ずいなくてはいけない、ワキの弁慶も芝居心があって斬り組の長刀さばきも巧みでなければ、風格あるツレの義経も必要、そして義経方の郎等二人に、正尊方の郎等数名と、アイも含めて登場人物は大人数になり、その役割をそれぞれが全うしなくてはいけないから、いつもできるわけではない。今回の明生君のように、よい機会に巡りあったのだから、演っておくのはとてもよいことですよ。
明生 ほんとうにそう思い感謝しています。流儀としても誰かができるときに演っておかないと絶えてしまいますから。父菊生も『正尊』は一回きりでした。そんなに何回も出来る曲ではないですね。
能夫 父新太郎は演っていないし、僕もまだです。実先生も起請文を謡われたことがないと思うよ。
明生 父は『正尊』を勤める前に、横山晴明先生の会で起請文を謡うことになり、それが私の知る一番古いものです。謡本には細かな節扱いが書かれていないので、どのように謡ったらよいか、横山先生にお聞きしたくらいですから。お能どころか起請文を謡うことさえ珍しかったのです。我が家には祖父・益二郎が書き残した節付けがありますので、それを参考にしながら勤めたいと思っています。
能夫 菊生叔父が起請文を謡った後は、友枝喜久夫先生が能をやられたね。
明生 昭和五十七年、喜多別会です。そのとき私はツレの江田源三役(義経の家来)で出ています。ですから「斬組」(義経方と正尊方の郎等の斬り合い)も経験していますし、昭和四十二年には子方の静御前もやっています。
能夫 最近では香川靖嗣さんが勤められたのが四、五年前、いやもっと前になるかな。喜多流として、少なくとも十年に一度ぐらいは演っておかないと、うまく継承されない心配があるよね。若者に斬組も体験しておいてほしいし。よく三読物といわれるけれど、喜多流には『木曽』が無いので「願書」がなく、『正尊』の「起請文」、『安宅』の「勧進帳」と二読物だが、起請文が最高位だろうね。菊生叔父のは迫力満点でよかったね。なかなか自分はあの境地まで行けないよ。
明生 父はああいう現在物が好きでしたから。
能夫 役者っ気、芝居っ気みたいなものがあって得意だったよ。「さすが、武略の武蔵坊」という言い回しなんか、エネルギーがすごかった。
明生 あの時の弁慶は宝生閑先生で、これまたエネルギッシュで、そして芝居がかっていて。
能夫 閑先生はそれができる人だからね。騙し合いというか、お互いに意図がわかっていてやりあっている腹芸の面白さ。正尊は頼朝に命じられて義経を討ちに行くわけでしょ。そこを弁慶に正されてとぼけるんだ。討ちに来たのではない、熊野参詣だと嘘をつく。義経の前に連れて行かれてもとぼけ通して、仰々しい起請文を書いて読み上げる。その駆け引きを、正尊も弁慶もみんなわかってやっているんだね。
明生 土佐坊正尊の行動は、実は義経謀反を実証するための戦であって、もともとそこに勝ち目はないんですよ。ただただ頼朝への忠義心から戦うのであり、彼は犠牲者だと思います。それを分かっていながら、挑んでいくところの人間性を演じたいと今思っていますが。
能夫 そうね。戦では義経が上手。勝ち目はないことは分かっていて、最後は追い込まれ縄をかけられ生け捕りにされ、哀れだよね。
明生 格好悪いですよね。とても損な役どころです。
能夫 そこをどう演じるかだよ。昔、華雪先生が歌舞伎座で『正尊』をやられたときの写真が銕仙会にあって、それがすごくいいんだよ。一度見るといいよ。後場の出の一声で橋掛りに正尊以下郎等が立ち並び勇ましく名乗り、その後、義経方との斬り合いが始まると、正尊は三ノ松で床几にかけ、その有様をじっと見るわけ。味方が次々に殺されていく様を、負け戦をじっと見るわけだ。その時の華雪先生の目が、表情が、演じられている、これがすごい。
明生 自分の死が近づいていくのを感じるのでしょうか。
能夫 そうだね、身体の内面の芝居で、超一級品だよ。
明生 芝居心ですよね、難しいところですね。芝居と能の限界。能という表現のぎりぎりの枠組みを外さないで、しかも芝居心をもってやる。その結界までいかないと、行き着かないと現れてこないものなのですが。
能夫 そういうこと。『正尊』の作者は観世長俊、信光の嫡男だよね。信光のエンターテインメント的な能を継承している。そういう能の面白さを存分に見てもらいたいね。
明生 私、平成二十七年には六十歳になるので、区切りとして、粟谷能の会で読み物を続けて二つやろうと思いまして。春は『正尊』、これはどうしても一度演っておきたかった。秋は『安宅』、こちらは三回目ですが、前回は小書「延年之舞」で笛が森田流でした。今度はやはり小書「延年之舞」で勤めるつもりですが、一噌流でのお相手にしました。両方とも直面物ですよ。直面物の難しさは―。面を付けていれば、何となくそれらしくなりすますことが出来ますよね。たとえ疲れたとしてもその表情を隠すことができます。直面はそうはいきません。自分の顔で最後まで勝負しないといけませんから。
能夫 そうね。直面物は自らの顔でその役にならないといけない難しさがあるね。でも『正尊』の後シテには「正尊悪尉」という面があることはあるけれど、どう?
明生 そうですか。でもそれはやめておきますよ。『安宅』の話に戻しますが、安宅の関に入る前に弁慶達が作戦会議をして、義経に笠を深々とかぶっていただき通過しようと決まりますね。その旨を義経に伝えるくだり。「御笠、深々と召され」との謡ですが、あそこ父が、実先生は独特の口の開け方をされて、と真似してくれたことを覚えています。
能夫 義経に「お顔を笠で隠して関を突破させてください」とお願いする場面だね。実先生は「ふかーーぶかーー」と芝居っ気たっぷりなんだよ。主君義経に不自由をかけ非礼なことであるが、それでも関を突破しなければならないという、弁慶の葛藤があの一句に込められるといいね。そういう箇所が一曲全体に流れているよね。そういうことを考えてすみずみまで神経を使ってこそ、現在物の価値が生まれると思うよ。
明生 父がこだわっていたことの一つは、最初の次第から道行までの謡。「旅の衣は篠懸けの」からはじまるところ。昔能楽評論家に、喜多流は落ち武者なのに元気に謡い過ぎると、ひどくけなされたそうですが、晩年は「次第、道行は義経一行の息吹みたいなものを謡えばいい。だから昔通り元気よく謡ってもらいたい」と。落ち武者なりとも気概があり強くていいのでしょう。私も同感です。
能夫 朗々と、本物の山伏のように謡うのがいいのよ。そういう先人たちの教えは貴重だね。そういうことを思い出しながら我々が演能し、それを若い人がいろいろチャレンジし、遂には真似てくれる。そういうことが大切だね。(つづく)