阿吽23 『江口』は普賢菩薩の心 粟谷明生
第八十回の粟谷能の会(平成十八年十月八日)は、祖父、粟谷益二郎五十回忌追善の催しとして、子である菊生、辰三、幸雄が仕舞を舞い、孫の能夫と私がそれぞれ大曲の『道成寺』と『江口』(菊生が地頭)に挑み、一門全員が力を合わせて執り行うものでした。父菊生は会の番組の挨拶に「八十五歳に近くなって父の五十回忌追善能に参画出来るということは感無量、無上の喜びでもあります」と、晴れがましさと嬉しさをつづっていました。
その父が『江口』の申合せの前日に倒れ、当日は病院のベッドの上で生死をさまようことになろうとは・・・・。
役者はどんな状況であろうと舞台を最優先しなければいけません。父の容態が気にならないわけがないのですが、この状況下で『江口』を勤めなければいけない私のことを察して下さったのか、ワキの森常好氏や囃子方の皆様(一噌仙幸氏、大倉源次郎氏、亀井広忠氏)、ツレも地謡(地頭・友枝昭世氏、副地頭・香川靖嗣氏)も皆、心を一つにして父のいない舞台を盛り上げてくださる、それぞれの役者魂、舞台人魂を痛いほど感じました。そしてそれは、観てくださる方々からも伝わってきて、まさに見所が一体になったような不思議な緊張感、胸打つものがありました。あの舞台を支えてくださった皆様に、ここで厚く感謝、御礼申し上げたいと思います。
『江口』は西行と江口の遊女との和歌贈答説話と性空上人が室の遊女を生身の普賢菩薩と拝したという二つの説話から構想されたものです。
演じるにあたり気になったことがいくつかありました。
まず遊女とはどのようなものなのか。私はすぐに遊郭にいる女性たちを想像しますが、どうも少し違うようです。
『江口』の遊女を理解するには、世阿弥が描いた当時の遊女像で物事を考えないとわかりにくいかもしれません。故網野善彦氏は以前、橋の会のパンフレットに遊女について、こう書かれています。
「近代、近世の遊郭の遊女のあり方から中世以前の遊女をおしはかってしまうのは大きな間違いである。世阿弥が昔を思い浮かべて描いた遊女は十三世紀から十四世紀のスタイルで今とはそのスタイルが違う。近世的、近代的な売春婦として単純に考えてはいけない。遊女とは古くは一種の巫女、その職として芸能をする者であり、芸能者は神仏になることもあり、それが宮中との繋がりにもなったとも考えられる」と、あります。この状況下から、江口の君のような発想が生まれるのは不思議ではなく、歌舞音曲を業としながら集団生活をする人たちと見るべきなのでしょう。
次に気になったのが遊女が普賢菩薩になる設定です。菩薩は仏陀になる前の悟りを求める者。遊女が菩薩になるのは、遊女を穢れた者とするのではなく、芸能をするものとして、芸能の価値を認めることで、神仏に近い存在とする考え方からでしょう。ただ、普賢は美しいお顔なので女性のように思いがちですが実は男性です。あまり性別のことを持ち出しても意味ないとは思いますが、まだ悟られていない身分であること、男性であることなどが、男性の能楽師たる私に取りかかりやすい状況をつくってくれました。
もう一つ気になったことは、前場が里女や江口の君の幽霊という設定でよいのだろうか、それでは演者としてどうも気持ちが入らない、ならば、普賢菩薩そのものの心持ちで勤められないだろうか、ということでした。これは私の単なる思いつき、ひらめきなのですが、そのように演じたい、と思い始めました。
そこへ、幸流小鼓方の横山晴明氏から森田光風氏の「平調返の試問に答ふ」というお手紙を見せていただき、私のひらめきが満更大間違いでないことがわかり自信がつきました。
お手紙の一部をここに引用させていただきます。
「遊女が普賢菩薩であるといふ事は、説話で名高い撰集抄や十訓抄から材を求めたものであります。是に依って江口の仕手の本体を遊女?江口の君と観察してはなりません。即ち普賢菩薩であります。・・・・・・云々」
このシテの本体を遊女・江口の君と観察してはならない、すなわち普賢菩薩なのだという言葉に力を得て、私は前シテの登場から終始、普賢菩薩という気持ちで演じることができたのです。もちろん詞章を変えたり、変わるわけではないので、あくまでも普賢菩薩の心でという精神性のことですが、私は能役者こそこの精神性を大事にしなければ舞台がもたない、空虚な舞台になってしまうと思っています。
後場は舟を橋掛りに出して遊女三人が並びます。シテを中央に、左右のツレを従兄弟の充雄と浩之に勤めてもらい、粟谷家一門全員が舞台に立てて、粟谷益二郎も新太郎も菊生もきっと喜んでくれたことと思っています。
今回は「干之掛」と「彩色」(イロエ)の小書付でした。「干之掛」は五クサリの序の後に高い干の音から特殊な譜を吹く序之舞の特別演出です。一噌仙幸氏は序之舞だけに留まらない能『江口』全体の世界を吹いて下さる希少な笛方で、私の演能の大きな助けになりました。今回は初段オロシで一噌流独自の「普賢の手」という特殊な譜も入れていただき、私も舞いながら序之舞の世界を堪能出来たことは喜びでした。また後で「彩色」も入ることで常の三段を二段に縮小する試みにも応えていただき感謝しています。
『江口』の「彩色」は特に主張があるといいます。常はシテ謡で「波の立居も何故ぞ、仮なる宿に」と一息に続けて謡うところを「波の立居も何故ぞ」で一端切り、「彩色」の型を入れます。「波の立居も何故ぞ」と衆生への問いかけがあり、その仏の答えとして「仮なる宿に」とまた謡う、これが彩色の仕組みです。森田流の伝書には「彩色」があるものが本説である意が記されています。つまり彩色(イロエ舞)は遊女が徐々に菩薩に変化し始めるきっかけということのようです。詞章では「これまでなりや帰るとて即ち普賢菩薩と現れ」で一瞬のうちに普賢菩薩になりますが、その前兆のようなものを表す、それが彩色という位の高い演出だと考えられます。
今回の「彩色」は舞台を静かに一巡するものながら、そこに変化の意識が込められるもので、破之舞のように、序之舞と同等、もしかするとより大事に扱われている二之舞と同じと思って勤めました。
終曲は「有難くこそ覚ゆれ」で幕に入るのが吉・徳ですが、次の『道成寺』が脇留で、同じ型が続くのは避けなければいけないので、敢えて橋掛りの三の松で留めました。
面については、本来、喜多流は小面が決まりですが、『江口』のシテは遊女であり普賢菩薩にもなる程の高位の女性、単に可愛らしいだけの小面では『江口』にはそぐいません。江口の君に似合う小面、凄いエネルギーを発散する力強い小面がないかと悩んでいるとき、解決してくれたのが観世流・浅見家の名品の小面です。この小面は絶品で私の演能の大きな支えとなってくれました。ここにお貸しくださった浅見真州氏に感謝申し上げます。
父が倒れた日は嵐のように大雨の降る日でした。二、三日後の、粟谷能の会の当日は一昨日からの雨があがり、さわやかな秋晴れの日。もう少し頑張って、この会が終わるまではという我々の祈る思いが通じたのか、あるいはさわやかな陽気のせいか、何とか命をつないでくれました。会が終わって三日後、十一日に力尽き帰らぬ人となりました。
父や新太郎伯父は、祖父益二郎が亡くなった後、一周忌追善能、三回忌追善能・・・と、祖父の追善供養といっては大曲に挑み、充実した会を催して、粟谷能の会を盛り立ててきました。私たちもそういう機会に思いのある曲を勤めさせてもらい、成長してきたように思います。「追善ですからこういうことをやらせてくださいと実先生(家元)に申し上げ、大きい会を催すお許しをいただくのよ。追善という名前を借りて、お客様にもたくさん来ていただいてね」と言っていた父のいたずらっぽい顔が思い出されます。
五十回忌といえば、追善供養も最後、死者が完全に神になるとき。これが終わり、次は父の一周忌から始まるのかと思うと、輪廻を感じ不思議な気持ちになりました。「五十回忌で追善能もおしまい。種切れになるね。じゃあ、僕の一周忌からまた始めたらいいよ」と言いそうな父の顔が浮かび、なにか、粟谷能の会のために、ちゃんと計算して逝ったような気にさえさせられるのです。
父の死と遺志を思うと、父や新太郎伯父が取り組んできたように、能夫と私が先頭きって、それぞれの思いのある課題の曲、大曲に挑み、一門の者が団結して、粟谷能の会を継承し、盛り立てていかなければ、と心底考えています。
役者は常に光源体であるべき、どんなときでも輝いていなければいけないと思っています。父は確かに光源体であって、いつも輝いていました。もっと謡ってもらいたかった・・・。今私は、一つの光が消え、闇があたりを満たしているように感じます。しかし、暗闇だからこそ光源体は光を放ち、輝きが冴えるのだと、自分に言い聞かせています。
父のいない舞台で『江口』を勤め、こういう闇の世界だったからこそ、見えてきたものもある、と感じました。どんな状況でも、闇のなかでも役者は光輝いていなければならない、それがもし輝かなくとも、光る作業はしなければいけない、そう感じ教えられた披きの『江口』でした。