阿吽22 粟谷益二郎五十回忌によせて 粟谷能夫

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本年は祖父粟谷益二郎の五十回忌の年に当たりますので、九月に福岡、十月には東京にて追善の能を催します。

祖父が亡くなったのは私が八歳の時でしたので、子方の謡の稽古をしてもらった記憶はありますが、実際の舞台の印象はほとんど残っておりません。

父の話によると祖父の能は、一体に何をやっても情感をもってすることがなく、淡々としたものだったようです。昭和十三年『湯谷』を舞ったとき、坂元雪鳥氏が新聞に「今までになく可愛らしい湯谷だった」という意味の評を書かれたそうです。当時、祖父が四十代、父が子どもでしたから、可愛らしい『湯谷』とはどういう意味か、父にはわからなかったそうです。

いろいろな『湯谷』があると思いますが、遊女の持つ可愛らしさや清楚な一面を表現したのが祖父の『湯谷』だったのだと申していました。昔の人は理屈で考えて舞うわけではなく、教わった通り、体で覚えている通りに舞った結果としてそういうものが表現されるのでしょう。

また昭和二十八年発行の「粟谷會」の第一号に、粟谷益二郎の文章を見つけましたので紹介いたします。

 

所感   粟谷益二郎

  宿一樹陰 汲一河流

  親疎有別 前生結縁

謡曲の中に引用せられたお馴染みの詩句であるが、齢耳順を己に過ぎて、今更の如くその意味の深さに驚かされるのである。 

芸能の家に生まれ、唯この一筋に繋がって辿り来た道である。

之を師父に承り、之を児孫に伝え、また之を門下の好士に授ける。

堪不堪、親疎の別はあっても、洵に「仮初めならぬ契」と言わねばなるまい。

古人は幽玄と称え花と讃えたが、ほのぼのとして遠白い道ではある。芸能の道は努力の道である。生涯をかけて悔ゆるところのない道である。資質の分に差異はあるが、我に無きものを彼に見出し、彼に求むるところを我に悟る妙機もある。共に扶け相い励まし相って、不退転の境界に遊びたい。

 

父が欧州公演に出かけた留守に、祖父が『通小町』の能を勤めたそうですが、そのときの舞台写真を帰国してから見たら、実に妙な気がしたそうです。祖父の履いている白足袋が黒く写っていたのです。その秋のことです。祖父が亡くなりましたのは・・・。倒れた時の能は『烏頭』でしたが、実演した最後の能はこの『通小町』だったのです。

 

写真 粟谷能夫 能「柏崎」 粟谷能の会  18年3月  撮影 東條 睦

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