阿吽41 「融」を演じて―月の詩情に寄せた名曲― 粟谷明生

『融』を演じて―月の詩情に寄せた名曲―粟谷 明生

昔、月には兎が住んでいる、と教えられました。今、子どもにそのように言う大人は少ないでしょうが、天上に浮かぶ月に何かが宿っているような、神秘な面影を見るのは、今も変わらないのではないでしょうか。

 

第九十九回粟谷能の会(平成二十八年三月六日)で『融』を再演しましたが、能『融』は冥界にいる源融左大臣の霊を月の都に住む者として描いています。「月」を融の霊に見立てながらも、人としての融の執心が月のように形を変えては見え隠れするのが面白いところです。前シテの一声の謡(最初の謡)は「月もはや」で、後シテの最後の謡も「月もはや」で、能『融』はまさに「月」がキーワード。形を変えることがあっても滅すことのない「月」と、生者必滅の「人」を対比させ、世の無常を訴えています。仏教色を表に出さずに詩情豊かに戯曲した世阿弥の傑作だと思います。

 

舞台となる六条河原の院跡は、昔、左大臣源融が風雅贅沢をした屋敷跡です。融は皇位継承権を持ちながら、藤原基経に阻まれ天皇になれず、そのうっぷんを晴らすかのように、広大な邸宅に陸奥の景勝地、千賀の塩釜の風景を模作し、難波から海水を運ばせて塩を焼き、その光景を見て楽しむという、何とも贅沢三昧の生涯を送ります。しかし融の死後、その子、源昇(みなもとのぼる)が、この広大な敷地を宇多天皇に献上しますが、その後相続し管理する人もいなくなり廃墟となってしまいます。

 

前シテの汐汲み老人、実は融の霊の仮の姿ですが、彼の目に廃墟はどのように映ったのでしょうか。荒廃したことへの無念、時の流れを止められないことへの怒りと諦観があったのではないでしょうか。

 

では今回の舞台進行に合わせてご紹介します。

 

まず、東国から上京した僧(ワキ)が廃墟になった六条河原の院跡に着きます。ここで、番組には記載しませんでしたが、ワキの森常好氏に「思い立の出」の小書を特別にお願いしました。「思い立の出」とは、囃子方と地謡が所定の位置に着き、揚げ幕が上がるとすぐに「思い立つ、心ぞしるべ雲を分け」と道行の謡を謡いながらの登場となるもので、『融』のみにある粋な演出です。

 

ワキが着きゼリフを謡いワキ座に着座すると、汐汲みの老人(前シテ)が田子桶を担ぎ登場し、常座(太鼓前)に出て立ち、一度揚げ幕の方(東の方角)を振り返ります。そして正面に向き直り「月もはや、出潮になりて塩釜の、浦寂びまさる夕べかな」と謡います。

この一度振り返る型の意味するものはなにか。伝書には「東見る」としか記載されておらず、その真意は演者の思考にゆだねられます。私は「お、月は出たが、まだ低く暗いなあ」と解釈して勤めましたが、他流にはない喜多流独特の演出、どう考えるかが演者の試金石となるようにも思えます。

 

やがて老人は僧に素性を問われ汐汲みと答えますが、海辺でもないのに汐汲みと返す言葉に僧は不審を抱きます。老人は陸奥の千賀の塩釜を模した河原の院の者であるから潮汲みであるときっぱりと答え、融の大臣が舟を寄せ遊舞をしたという籬まがきが島を教えます。そして突如東の空を見上げ、「や、月こそ出でて候へ」と月が高く上がったことを言います。一声の「月もはや」に呼応するような謡で、時間が経過したことが知らされます。

 

現代の都会では月明かりなど意識することはないでしょうが、今でも明かりのない田舎などでは夜の月の明るさを感じます。シテが最初に登場した時はまだ月は低く薄暗く、気がつくと高く昇っていて辺り一面が明るくなった、その情景を演者は観客に伝わるように、また観客は想像してお互いに創り上げていく、能に想像力は不可欠です。

 

話が少し脱線しますが、続く詞章に、老人と僧が面前の景色を見ながら興に乗って次のように謡うところがあります。

 

シテ: もしも賈か島とうが詞やらん。鳥は宿す池中の樹

ワキ・僧は敲たたく月下の門

シテ・推すも

ワキ・敲くも

 

賈島は唐の詩人です。「僧は敲く月下の門」の「敲く」を「推す」にするかを迷い、韓かん愈ゆの助言で「敲く」に決めました。ここから詩文を作る時に最適の字句や表現を求めて練り上げることを、「推す」と「敲く」で推敲となったといいます。こんな言葉がさりげなく入っているのも面白いところです。

 

話を戻します。その後、シテは僧に問われるまま、千賀の塩釜を都の内に写した謂れを語り始めます。栄華を極めた六条河原の院、今は荒れ果てて見る影もない、自分も老いの波が押し寄せると嘆く老人は昔が恋しく、あの時に戻りたいと大泣きします。華やかかりし頃にもう一度戻りたい。適わぬ願いを請う人間のはかなさ。三十代では気がつかず、もし気がついたとしても演じきれない老いの波に、今六十歳を過ぎ、自然と涙する自分に気づきます。

回想し涙する老人に僧も感涙し、そして名所を尋ねます。北の音羽山からはじまり、右廻りに「清閑寺」「今熊野」、最後は「嵐山」と三六〇度パノラマ世界で紹介します。この場所と方角は実際に京都にお住まいの方ならば、少し位置が違うと思われるかもしれませんが、伝書に「方角などにこだわらないのが能である云々」と記されていたのを読み、驚くと同時に納得してしまった自分に、実は驚いています。

 

感涙の涙にむせいだ後に、このようにカラリと気分を変えての名所教え。『融』は深い執心がありながら、あまりじめじめしない作りとなっています。

 

前場の最後は、興に乗って長物語してしまった、自分は汐汲みだったと我に返り汐汲みする場面になり、見どころにもなっています。池水を海水に見立て汀に寄って舞台の外に田子桶を落とし汲み上げる型は、一瞬、観客をはっとさせます。左右の手に田子桶を持ちながら、正面先に勢いよく出て、舞台のへりぎりぎりのところでぴたりと止まる、至難の技です。

汐を汲んだ老人はすぐに消えてしまい中入となりますが、当然田子桶を担いだまま消えるべきところを、舞台中央に田子桶を落とし残します。このような演出もまた能らしく、ひとつの余韻を残すものと言えるでしょう。

 

『融』の後シテは、ありし日の融左大臣の霊として出現します。昔を偲び、すべての消滅を惜しみ月下で遊舞します。舞は「早舞」と呼ばれる盤ばんしき渉調の高音の音色で、やや早めのスピードある舞です。颯爽としながらも寂寥感もある、二種混合の舞をどのように優雅に舞うか、今回の私の思考するところでした。強く凜々しく、時には激しく、融の遂げられなかった執心を舞い尽くすやり方もありますが、今回、融の複雑な寂寞たる心境も早舞で表現したく、「クツロギ」の小書を付け、その前後の印象を変えられたらと、お囃子方にもご協力いただきました。

 

「クツロギ」とは文字通りお休みする意味です。舞の途中で橋掛りへ行き、三の松あたりにて、左廻りから右廻りと水の流れを想像させるように動き、最後は袖を返して止まりしばし休止します。「クツロギ」の袖を巻く型までは昔を楽しく偲ぶ「陽」の雰囲気で舞い、夜空の月と池水に映る月影を眺めるうちに時のうつろいと喪失感がにじむ「陰」の雰囲気に変えて舞えたら、と緩急をつけてみました。

 

そして最後は型の多い地謡との掛け合いのキリの仕舞どころとなります。シテ謡の「例えば月の有る夜は、星の淡うすきが如くなり」のように「月が出ている夜は、星は見えづらい」。なにかが出れば、なにかは引かなくてはいけない、謡う融の諦観がしみじみと感じられます。

 

融は冥界ではなく月の都から河原院に降りて、昔の雅を満喫していた頃を懐かしく偲び、遊舞しますが、夜が明ける前に、また月の都へと姿を消します。決して時の流れを止めることは出来ません。

 

私の『融』の初演は平成四年、今から二十四年も前のことです。当時は『融』のテーマなど気にもせず、師の指導を仰ぎ舞台を勤めるだけでした。それでも演出の工夫に目覚めた頃で、今では抵抗なく着用する後シテの黒垂を、実は喜多流としてはじめて使用したのはこの時でした。当時いろいろな陰口があったことはその後知る事となりますが、よりよい演出を、と意気込んでいた昔、融のように懐旧してしまいます。

 

「六十歳なんてまだまだ、若造よ」と言われる能楽の世界ですが、私も還暦を過ぎ、それまで見えなかった能の世界が少し見えはじめ、聞こえなかったものも聞こえるようになりました。ようやく源融の生前への執心と懐旧が少しわかるようになりました。

 

最初、『融』が名曲である理由が正直はっきりしなかった私でしたが、稽古しながら、この曲が消滅する人(今は亡き人々)により伝承され、その時々の人々の手により工夫が加えられてきたことも知りました。稽古すればするほど、人生の深いところを描いていると共感するところが多く、やはり相当な名曲だと気づき熱が入りました。能に携わる者は、名曲は名曲であるがゆえにより一層の磨きをかけ、その光を観客に届けなくてはいけない、そう確信しました。

 

竹内まりやの「人生の扉」という歌に「信じられない速さで、時が過ぎ去ると知ってしまったら」があります。この歌詞が『融』と結びつくなどと思ってもいませんでしたが、今はしみじみとわかります。能はやはり、現代にちゃんと生きている! と感心しています。

*(「粟谷能の会」のホームページの演能レポートで写真入りで紹介しています。ご覧いただければ幸甚です。)

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『融』 シテ 粟谷明生(平成28 年3月6日 粟谷能の会) 撮影:石田 裕

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