阿吽40 能の無常と永遠 粟谷能夫

今年の春の粟谷能の会(平成二十八年三月六日)は第九九回を迎えます。昭和三十七年十月七日(日)に祖父益二郎の七回忌追善能として、父新太郎と叔父菊生が「粟谷能の会」の前身となる「兄弟能」を発足させました。当時は個人主催の会はなかなか許されず大層苦労をしたと聞いております。以来五十余年、半世紀が過ぎました。

 

振り返れば、昨年は戦後七十年の年。父は終戦後インドネシア領ハルマヘラ島より復員いたしましたが、喜多流の四谷舞台をはじめ、各流の能楽堂も焼失してしまい、多摩川園にあった多摩川能楽堂が唯一焼け残るばかりで、無惨な有様だったそうです。やがて、戦後の復興の息吹と歩調を合わせるように、各流は多摩川能楽堂にて、積極的に演能活動に取り組みました。喜多流は宗家が主催する喜多会のみが唯一の演能の場でした。同人や個人の会が許されない時代背景もあり、第二喜多会と称して、父は先輩である友枝喜久夫先生や菊生叔父と会を発足させました。その会が後の果水会や春秋会へと繋がってゆきました。

 

私は戦後の昭和二十四年九月生まれですが、父の『道成寺』の披きが同年十一月、多摩川能楽堂にての喜多果水会秋季公演で、母に抱かれて能楽堂へ参ったとのことです。粟谷兄弟能発足のとき、私は十三歳で父『景清』のツレを直面にて勤めています。そして私や明生の成長につれ演能の機会を作るために、昭和五十六年に「粟谷能の会」と改め、今日まで続いています。

 

先人達が切り開いてくれた演能活動の場を、今の私たちは有り難く思い、絶え間ない努力と精進を重ねていかなくてはなりません。芸術文化は見て下さる人と共に育っていくものですので、来場して下さる人々に訴えかけのある舞台を目指さなければと思っています。

 

父や叔父を見送り、私も介護保険証を受け取る年齢となり無常観といったものを感じ始めています。無常であるからこそ永遠なるものに美を感じます。中世以来長い間培われてきた日本人の美意識です。

 

最後に私に光明となった禅僧の見識を掲げます。

 

「無常」とは、自然とそうなるとしか言いようのない宇宙の法則です。大宇宙や太陽系、地球が出来てから刻々と変化し続け、その大きな変化の中に私たちは命をいただいて、一時を生き、また大宇宙の中へ分散して帰って行く、だから大宇宙と我々の命は本来一つなのです―。

 

能は正に無常観を描き、無常でありながら永遠なるものです。私たちはその中の一時を生きているのだと思います。

 

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『鉄輪』 シテ 粟谷能夫(平成27 年10 月11 日 粟谷能の会) 撮影:吉越 研

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