阿吽40 三流立合い『松風』の 一番手を勤める 粟谷明生
国立能楽堂主催・定例公演『松風』は「演出の様々な形」をテーマに、十月(平成二十七年)から三ヶ月に渡り、三流の「立合い」の催しとなりました。十月喜多流(粟谷明生)、十一月観世流(観世銕之丞)、十二月に宝生流(武田孝史)で、三流それぞれ小書の特別演出で、喜多流は「身留(みどめ)」、観世流は「戯之舞」、宝生流は「灘返・見留」となりました。私は十月十六日に立合いの一番手を勤めました。
喜多流の小書は「身留」の他に「戯之舞」と「見留(みとめ)」があります。「戯之舞」は先代喜多実先生が先代観世元正宗家より頂戴したものですが、残念なことに、あまり演じられることなく今日に至っています。今回の「身留」もあまりやり甲斐のある演出とはいえず、近年では、香川靖嗣氏がお勤めになられましたが、先人はどうも避けてこられたようです。再演となると、どうしても派手な「見留」を選んでしまい、私も、十年前の粟谷能の会では「見留」で再演し、父の『松風』もほとんどが「見留」の小書でした。
「見留」はシテ(松風)が破之舞の最後に橋掛りの一の松あたりにて止まり、左手に中啓を持ち替え、舞台正面先に出された作り物の松を遠くから眺める型となり、格好もよく粋な徳な型となっています。それに比べ、「身留」は破之舞の最後を、舞台大小前にて松に向かい一足つめる(松に近づく)だけです。松風の、行平に見える松への思いを、能役者の一足つめる運び(余精=ヨセイ)で演じる「身留」は地味な型で難しく損な小書です。立合いには不利ですが、喜多流にしかない事から企画される側には面白く興味をそそられたのでしょう、「喜多流は身留で」と依頼されてしまいました。
そこで今回は、少し工夫をこらしてみることにしました。大小前で松に向かい一足つめる型をしても、正面席からは作り物の松と重なって効果が薄いと考えました。そこで松への思いがよりよく見えるようにと常座に替えて試みました。ご来場いただきましたすべての皆様に、小さなしかし大事な動きをご覧いただけたのではないでしょうか。
また終曲は、小書「見留」が「夢も跡なく夜も明けて」と、ツレ(村雨)と共に謡の中で幕に入り脇留めとなるのに対して、「身留」は常座でシテが留拍子を踏むのが本来です。しかし今回は喜多流の謡の詞章を生かしたいと、敢えて謡の中で入幕することにしました。
観世流や宝生流は「今朝見れば、松風ばかりや残るらん、松風ばかりや残るらん」と二度謡う返し謡があります。喜多流は「松風ばかりや残るらん」と一回で謡い切り、しかも高音で謡い留めます。返しの有り無しは演出上重要な要素です。一度しか謡わない喜多流ならば、喜多流らしさを最大限いかしてこそ立合いの場に相応しいのではと、敢えて「身留」でも「見留」のように謡の中で姿を消す演出を選びました。二人の海女乙女が、スーッと消え去ることで、僧の一夜の夢であったことが強く印象づけられるのではとの思いでした。
演出を考えるとき、伝書は大事で貴重です。蔑ろにする気は毛頭ありませんが、演者はその場に一番似合う演出を考え演じることが大事です。我が家の伝書は喜多健忘斎の教えを寿山が書き残したもので、過去に演じた記録です。まず大筋が書かれていて、あとに箇条書きに心得が記載され、型の吉、徳、損、悪し、と面白く記されています。これを参考資料として深く読み取り守ることと同時に、新しい演出を試み、ときには破ることもまた伝統の継承に欠かせないことと信じます。演じる側のご都合ばかりではなく、観ていただく方々にもっともよい形で提供する努力を惜しまないことこそが、能役者の本来のあり方だと信じています。伝書に記載がなくても効果を生むならばやってみようと考えるのが普通で、今に生きる能役者の使命ではないでしょうか。
面については、最初は自分好みの「宝増」を使うつもりでしたが、喜多流らしく「小面」がよいのでは、とのご意見なども聞こえて来て、いろいろ悩みました。伝書にはシテもツレも「小面」と記載されていますが、私は姉の松風と妹の村雨が同じ面では、それぞれの人物像が浮かび上がらない、異なる顔、表情があってこそ性格の違いがはっきり出る、と思っていましたので、敢えて違う面を選びました。恋慕の心が強い姉は山中家より小面系の「小姫」を拝借し、少し冷静でいられる妹には粟谷家蔵の銘の無い「小面」としました。
『松風』はツレとの連吟が大半を占めます。シテが一人で作り上げられるものではなく、よいツレ役者がいてくれてこそ、よい『松風』が出来上がると確信しています。それほど『松風』のツレは大事な役目を負っています。村雨という立場を理解し、しかもツレを勤める能役者の独自性をも尊重しながら、シテの演技を助ける。なんとも難しい大役です。今回、日頃あまり細かなことは言わない私ですが、立合いという環境が刺激となったのでしょうか、ツレ役の大島輝久氏にはいろいろと注文をつけて、私なりの『松風』への美意識などを説いてしまいました。結果、それに充分応えてくれたことに今とても感謝しています。
『松風』は一場物ですが、二時間近くかかる長い曲であり大曲です。ここをいかに飽きずに集中して面白く見ていただくか、演者として心を砕いています。そのために、『松風』を三つの場面に分けて見ていきましょう。
第一場面はワキ(旅僧)の登場から「汐路かなや」で留め拍子を踏むところまでです。シテとツレの登場は「真之一声」という荘厳な出囃子によります。「真之一声」は脇能での登場に使われるもので、神の登場を思わせる荘重な趣向、脇能以外では、喜多流ではこの『松風』にしかありません。その荘厳な響きにあわせて、二人の幽霊が旅僧の夢の中に現れ、連吟となります。ここは「真之一声」に相応しく、この世のものとは思えないような神々しさと芯のある謡で、まずは緊張感あふれる出だしを演出します。
第二場面は、海女が行平との恋物語を始めます。ここは、囃子方が床几から降り、シーンと静まり返った音のない世界で、静かにワキとの問答、シテ・ツレのクドキと続き、身の上の心境や変化を謡だけで表現します。少ない動きの中に細やかな心の揺れを表現するところで、ただ座っていればいいのとは違います。クセの「あわれ古を…」からは、行平の形見の烏帽子と長絹を手にして追憶の涙に沈みます。形見を眺めては泣き、悲しさのあまり放り投げてはまた抱きしめ、また眺め泣き崩れる、ここも少ない動きで最大限の表現をしなければならず、難儀なところです。謡も強弱、明暗、緩急、詰め開き、張りと、あらゆる表現方法を駆使してその情景、心情を描き出していきます。
第三場面は物着(舞台上で装束を替える)から終曲まで。行平の形見を身に着けた松風は物狂いとなり、松を行平と思い寄り添うほどですが、村雨に制止され諭されて、次第に冷静になります。「立別れ」と行平の歌から中之舞、その後に破之舞が入ります。破之舞は短いながら、松風の心を表現する強い舞です。この第三場面は変化があり、楽しくご覧いただけるところではないでしょうか。
これらすべての場面を、だれない展開と進行で、観客の心を引きつけて離さない、そう願って勤めました。そうすれば私の『松風』は成立するだろうと思ったのです。演能後に、ご覧になった方々から、「長かった」ではなく「あっという間だった」と私の耳に入れば無上の喜びです。
父・菊生は「演者は艶(イロ)が命」と口癖のように言います。『松風』の艶とは、宮中の高貴な方の艶とは違うものでしょう。海女乙女の素朴で純粋な、それでいて情熱的に思う女性の艶をいかに出せるかも課題でした。果たして「艶」ある女性になれたでしょうか。
三流立合いの場に立たされて、いろいろなことを考えました。日頃親しくさせていただいている観世銕之丞氏や武田孝史氏ですが、正直、最初はライバル意識がありました。が、終わってみると、相手を気にせず、己が己らしい舞台を精一杯勤めればそれで良い、と達観出来るようになりました。小書の見直し、面の選択、ツレへの意識、そして演者の思いをいかにして観客へ届けることが出来るか、それらを心がけることが、いかに大事であるかを再認識出来て自分にとって大きな収穫となりました。
今、六十歳になり、もう少し早くオファーがあれば、と思うこともありました。が、しかし六十歳になったからこそ出来ることもあることが、わかるようにもなりました。オファーのあったこのときを大切に、今の粟谷明生の能を観ていただこうと、精一杯勤めたことは確かです。
思えば、観世銕之丞氏(五十九歳)と武田孝史氏(六十一歳)とはほぼ同じ年齢。若い頃から親しくさせていただき、一緒に流儀を越えて稽古したほどの仲です。「いつか三人で競演したいね」という夢を、本当に六十歳前後にして、このような立合いの場で実現出来て、国立能楽堂の企画された方々、ご来場いただきました皆様には深く感謝の気持ちで一杯です。これからもよき友人達と切磋琢磨し、また流儀を越えて演能活動をしたいとも思っています。
*(「粟谷能の会」のホームページの演能レポートで写真入りで掲載しています。ご覧いただければ幸甚です。)
『松風身留』 シテ 粟谷明生(平成27 年10 月16 日 国立能楽堂定例公演) 撮影:石田 裕