阿吽35 『求塚』を演じて 粟谷明生
阿吽35 『求塚』を演じて
―三人の苦悩を思う― 粟谷 明生
一人の女が複数の男性に求愛され、返答に困って難題を課し、その難題を果たした男を選ぼうとする物語はあまたあります。男達が難題を解決できずに退散してしまうのが竹取物語「かぐや姫」。万葉集や大和物語をもとに作られた能『求塚』は一人の美しい女に二人の男が求愛するところは同じですが、男達が難題を解決したために起こった悲劇を描いています。愛された女はどちらをも選び得ず、川に身を投げ、男たちも刺し違えて絶命し、そして皆、地獄に落ち苦しむ話です。
一見純愛物のように思われる内容ですが、稽古に入り作品を読み込むと、単に個人の好いた、好かれただけではない暗い背景、作品の奥深いところに三者三様の人間模様がある事が見えてきました。
父の七回忌追善の粟谷能の会(平成二十四年十月十四日)で、この奥深い作品『求塚』を披くことが出来ましたことは、感慨深いものがありました。
では、この能の奥深さ、背景とは何でしょうか。一人の女と二人の男の素性や事情から探していきたいと思います。
美しい女の名前は菟名日処女(うないおとめ)。摂津の国の者で、裕福な豪族の家庭に生まれ育った可愛いひとり娘です。二人の男、小竹田男(ささだおのこ)は摂津の国の者、血沼益荒男(ちぬのますらお)は和泉の国の者。両者の菟名日処女への思いは、愛とか恋とかといった心情的なものだけでなく、彼女を手中にすることは、即ち領土や経済まですべての利となる権力争いまでも絡む政治的な駆け引きがあったと思われます。
二人の男は一族、いや国を背負っての使者の役割があり、その使命を果たすために必死の覚悟と意気込みがあったと思われます。しかし、そのもくろみに反して大事な女を自殺させてしまい、取り返しのつかない事態になってしまいます。男たちは共に故郷に帰る事ができなくなり、互いに啀み合い殺し合うのです。私はこのように仮説を立て想像を膨らませて舞台に挑みました。
喜多流の伝書には「刺し違えて空しくなれば」の場面で、刺し違える型についての記載はありません。しかし先人たちは、「刺し」で少し前のめりになり、「空しく」でのけぞるように後ずさる引き分けヒラキの型をされていました。これは十四世喜多六平太先生の考案だと思われ、男同士の殺し合いの壮絶さを見せる型ですが、私には観客の方々にどれほど印象づけられるかが疑問でした。今回、友枝昭世師の、大きな動きに変えてみては?とのご指導で、四足ほど前後に動いて試みましたが、なかなかむずかしいというのが本音でした。
さて、舞台進行に合わせて話を進めましょう。
前場のシテとツレの出(登場)は一声ですが、伝書には全員本舞台にて立ち並びで謡うように書かれています。近年、先人たちはこの景色が悪いと避けられ、橋掛りにて謡うように変えられています。今回も同様に、ツレ二人を先頭に、シテが後から出て向き合い橋掛りにての連吟としました。
国立能楽堂のように長い橋掛りは、シテとツレの距離が遠く離れてしまうため、声が聴き取りづらく音が揃いにくくなるので役者泣かせです。そこで今回は一声謡の後、サシコエの前に本舞台に移動する演出にしました。後日、ビデオやレコーダーで再確認すると、謡も揃い、景色も悪くなかったので、効果はあったと安堵しています。
春とはいえ、未だ残雪のある生田川辺りの景色を謡う前場の前半場面は、とにかく明るく華やかに謡わなくてはいけません。『求塚』という曲の位の高さで、とかくゆっくり、丁寧に謡い、そして囃されていた時代がありましたが、これは作者の意図に反します。若菜を摘む場面は、後の暗い恋の告白と、明暗で対比させるために仕組まれたものです。その意図を外しては、意味を失い演じ手失格だと思います。
喜多流はシテの装束も面も良いものを選び、ツレはそれよりもレベルの落ちるもので済ます、という風習、楽屋思考があります。私もそのようにすることもありますが、今回の『求塚』では、若菜摘みの女の一集団が皆同じように見える景色でありたいと思い、装束選びと着附の仕方を考えました。ツレの装束の付け方にはいろいろあります。唐織を熨斗目付にするか、脱かけにするか、または腰巻に水衣という選択肢もあります。今回はシテが孤立して妙に目立つのを嫌い、三人同じように見えるように、全員唐織の熨斗目付けの着流し姿にしました。
それでも能役者の欲でしょうか、シテ一人だけが不思議と際立つ、なにか感じさせるものが出せないかと、シテの面を「増女」に変えてみました。伝書にはシテ、ツレ共に「小面」と書かれていますが、三代喜多宗家宗能の「増女にても…」との資料が私の背中を押してくれました。「増女」には「泣増」やその他いろいろな面が我が家にはありますが、「宝増」の艶が似合っていると思い選びました。
演能後、「ワキの言葉の後にすぐにツレが謡い出したのが気になった。あれは意図的なのか」とのご質問を受けました。能では、問われた人が問うた者に答える、これが普通で当たり前ですが、『求塚』ではワキがシテに向かい「この辺が生田ですか?」と質問すると、ツレが「ここが生田と知らないなんて…」と謡い、シテの受け答えを遮るような構成となっています。これは珍しい特異な演出です。この特性を演者は効果的に見せる必要があります。そこでツレ役の息子・尚生と佐藤陽には敢えてワキの謡が終わると同時にかぶせるように突っ込んで謡うようにと指示しました。二人ともよく私の気持ちを理解して謡ってくれたことに感謝しています。
さて後場になる前に、間語りについてご紹介しておきます。以前の演能レポート『求塚』(「友枝昭世の会『求塚』の地謡を勤めて―間語りから見えた男達」参照)にも書きましたが、ここでもシテ方は、間語りをよく理解して作品を演じなければいけない、と自戒をこめて申し上げたいと思います。
間語りは、時にシテ方の詞章にはないことも補って、物語を詳しく語ることがあります。『求塚』の間語りは山本東次郎家の血沼益荒男が死後も小竹田男に苦しめられているので、旅人に刀を貸してくれと頼んで消え、その後、血の付いた刀が残っていた、という語りがあります。
私にはこの間語りが鮮烈に印象に残っていて、作品の面白さを増し理解しやすくさせてくれると感じていました。本来、和泉流にはこの部分の語りはありませんでしたが、野村萬先生が観世寿夫先生の『求塚』のアイを勤められた際に、横道萬里雄氏に新しく語りを創作して下さるように依頼なさったとお聞きしました。少々長い語りになるので、今回アイをして下さった野村万蔵氏には大変ご負担をお掛けしましたが、お引き受けいただけたことに感謝しています。
『求塚』はもともと宝生流と喜多流にあり、金剛流、観世流、そして近年金春流も復曲して現在五流にあります。
喜多流の演出の特徴は後場のシテの出にあります。「おお曠野人稀なり、我が古墳ならでまた何者ぞ」と太鼓の入る出端で謡い出す他流に比べ、喜多流は静かな習一声で「古の小竹田男の音に泣きし、菟名日処女のおき塚は、これ」と謡い出し、続いて「おお曠野人稀なり…」となります。引廻し(ひきまわし)で覆われた塚の作り物の中から、細々と痩せ女の位で謡う、この「古の・・・」の謡が難所です。どのくらいの声量でなら謡を届かすことが出来るか、ここが勝負で、『景清』の「松門の謡」に共通するところです。「謡い声を固く凝縮しろ」と父の言葉が思い出されます。余談ですが、この「古の・・・」の謡から、菟名日処女は小竹田男の方が好きだったのではないかと、ひそかに思い演じました。
『求塚』 後シテ 粟谷明生(平成24 年10 月14 日 粟谷能の会) 撮影:青木信二
後シテの面は「痩女」です。窶れ果てた顔立ちで、『砧』『定家』『求塚』に使います。『砧』の芦屋夫人は最後回向により成仏出来ますが、『定家』の式子内親王も『求塚』の菟名日処女も成仏できず、式子内親王はまた定家葛の匍う墓へ、菟名日処女も暗闇の火宅の栖へと帰って行きます。そこにしか戻れないのでしょうか。救われない終幕にいったい何を感じさせたいのか、作者の意図を見出したいのですが、答えはいくつもあるようにも、いや答えなどないかもしれない、それが能なのかも、と思ったりもしています。能はやはりむずかしい、決して簡単なものではないようです。
「痩女」を使用する時は、その窶れた表情に合わせて、必死で前に歩もうとするも力のない重い足どりを見せるために「切る足」と呼ばれる特殊な運びをします。これは喜多流ならではの演出で、若いうちから稽古するものではないので慣れるのに苦労します。
さて、演じ終えて、私に何が残ったのか。
それは三人が皆、それぞれに思い、それぞれの行動をとったが、結果はよい方向には向かず残念なこととなった、三人が三人とも苦悩の中にいるという苦い思いです。この苦悩、無念さは今の私にも思い当たり共感するところがあります。いろいろ手段を凝らし手に入れようとしても適わない、遮り邪魔だてするものがあって事をうまく運ばせてくれない、そんな風に悲観する時もありました。小竹田男や血沼益荒男の気持ちがなんとなく判り哀れに思えてくるのは、自分に照らしているからかもしれません。
私は小竹田男や血沼益荒男を演じた訳ではありません。愛された菟名日処女を演じたのに、愛し、そして手中に納めたいと思う男たちの気持ちが十分過ぎるほど判りました。もっともこの程度の感想では、まだまだ『求塚』を演ったとは言えないよ、と父がどこかで笑っているような気もしています。 *(「粟谷能の会」のホームページの演能レポートで補足&写真入で掲載しています。ご覧いただければ幸甚です。)