研究公演つれづれ(その四)
研究公演つれづれ(その四)
研究公演第4回(平成5年11月27日)
『蝉丸』シテ・逆髪 粟谷能夫 ツレ・蝉丸 粟谷明生
粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一
明生 第4回の研究公演は、能一 番で『蝉丸』。能夫がシテの逆髪で、私がツレの蝉丸を勤めました。二人でひとつの舞台をつくることがテーマでした。
能夫 4回目は能一番で狂言もなかったし、入場券は売りにくかったよね。
明生 そうですね。
能夫 1年に2度というのも、当時の我々にとってはきつかったかもしれない。
明生 でも、そのときは、とにかく今出来る事は今しっかりやろうという意気込みでした。
能夫 勢いでね。
明生 お客様も多いとは言えなかったけれども、精一杯勤めたと思っています。『蝉丸』のツレは研究公演で演ずるという意識が強く、照準を合わせていましたから、喜多会の例会で『蝉丸』のツレをという交渉があった時、頑なに断って、これに備え燃えていましたから
能夫 それなりに二人は力が入っていたんだよ。『蝉丸』の演出について、僕はそれまで嫌だなと思うところがあった。逆髪の道行が終わった後、大小前で座り、蝉丸の謡の途中からいきなり立って常座にクツロギ、戻るように行くんです。これが嫌でね。おかしいでしょう。普通、観世流だったら、一の松で佇んでいて、蝉丸の声が聞こえてくるから、そちらに気が向いていくわけでしょ。だから座ってしまうというのはねえ。逆髪の特性というのは、佇んだりしない、放浪癖とでもいうのか、とにかく進むということでしょう。だから、あの研究公演では、「花の都を立出て・・・」から、蝉丸 の「世の中は・・・」が発せられるまで、大小前に下居ずに、橋掛りの一の松で佇むことにしたんです。あそこで、喜多流の演出を見直して舵を切ったつもりなんですけどね。
笠井 確かに大小前にクツログ、下居するのは変だね。
明生 変ですよ、ですから私も広島で舞ったときは、能夫氏の型を取り入れました。
笠井 喜多流の定型だからというのは考え直す必要もありますね。
能夫 だから、そこを切り替えたわけです。喜多流の場合、最後の別れの場面では、逆髪と蝉丸が謡った後は全部地謡になってしまう。地謡になると乗る、リズムがでてしまうでしょう。そこも舵を切りたかったけれど、それは次の機会と思って、あのときはそのままにした。後で友枝さんと一緒のときにそうしようと思っていたけれど、友枝さんが病気になって、実現しなかった。だから、あのときに舵を切っておけばよかったなと、今は思っている。でもまあ、勝手なことばかりやっていると思われるのもねえ。ちょっとぐらいなら、みんなもなるほどと認めてくれるから、あのときはあれでよかったと思いますけれど。
明生 あのとき、クセの上羽 「たまたま言訪ふものとては」の部分をツレの蝉丸が謡うという能夫氏の考えもあって、私は賛成したのですが、本人があまり行き過ぎるのもどうかということで、普通にして、いたしませんでした。
能夫 そこまではやらなくともいいかなと。
明生 私は上羽の謡は蝉丸が謡う方がいいと思いますが。
笠井 喜多流はいろいろなところのものを摂取してきた流儀だから、おかしいと思うところは見直していくのはいいよね。
能夫 そうそう、間違っているところはね。
笠井 喜多流はよいところは沢山あるし、独自性を出しているところもある。だから、流儀として絶対残すべきところは何か、変なところはどこかを考えるべきですよね。便宜的な変形はどこかで変わっていかなければならないけれど、それが長い時間をかけて上演するなかでそこはかとない味わいを出しているというのをどう考えるか、そこが微妙なところでしょう。たとえば『葵上』古式の青女房(若い女官)なんかね。現行では登場しなくなっているものを復活して上演した結果、車出しとか青女房を出さなければダメなんて考えるのも行き過ぎだと思う。
能夫 変でしょ。場面の進行に障害が出てくるでしょ。
笠井 だから、どこまでで線を引くかが問題だね。今の『蝉丸』の話で言えば、大小前で下居するのはおかしい。
能夫 そういう問題点があることを認識しておきながら・・・。
笠井 ギリギリのところで決断していかなければね。安易に変えるのがいいとは僕は思わないけれど、唯々諾々と従っているのが問題なんですよ。
能夫 そうだよ。無神経でいるのが許せないわけ。その意味でも研究公演があるわけですよ。
笠井 研究公演が機能しているわけだね。そういう場があってよかったと思いますよ。
明生 『蝉丸』の辺から、いろいろ改善しようという機運が出てきたということです。5回の能夫さんの『白是界』にしても、私の『天鼓』にしても、そういう考え方をしていった。その最初が、この『蝉丸』だったと思いますよ。
能夫 そうだね。
明生 変えたことがよければ、先輩たちや周りも認めてくれて、2年後、3年後には、そういう方向で動き始めますから、古いおかしな伝承に拘りすぎるのは間違った伝承のとらえ方でしょう。
『蝉丸』のツレの難しいところは、蝉丸ツレが一番最初にワキを呼び出す「いかに 清貫」の謡、二人で稽古したときに、「品を保ち、調子を高く張って謡ってくれないか、蝉丸の人物像が浮かびあがるように」と、いろいろとシテから注文が出たんですよ。これをすごくよく覚えています。それに前半はシテが出ないからツレがシテみたいですが、後半にシテが登場したときに同じ調子の謡い方ではダメで、少しづつ変えていかなくてはいけない、このあたりが難しいということも体験してわかりました。最初の「いかに 清貫」あの、たった一言ですが、その一言の中に、フワーッと世界が広がらないと・・・。
能夫 わびしさ、つらさも全部背負いながら、それでいて蝉丸は何もわかっていないという風情もあるし、いろいろ揺れる心情を、あの一言に全部こめなくては、ね。それからシテは、うちの流儀では黒頭でやることが多かったんですよ。黒頭だと化け物みたいだけれど、バス頭(かしら)だと人間的なものが表現できるのですが、それが使えない。結局僕は黒頭が嫌だったから、かずらの鬢をたらし、裳着胴、大口袴でやりましたけれど、あのときバス頭という選択肢があればなあと思いました。
笠井 その選択肢はないわけね。
能夫 ないです。『鷺』のときに白いバス頭のようなものを使っていますけど。あれは普通の頭じゃない。そういう選択肢はないです。
笠井 その当たりは取り込んでもいいんじゃないかな。
明生 そろそろ取り込んでも良いと思います。それから、中入前、盲目の人間は涙が出ないからシオリはおかしいと言われて、シオリをせずに、悲しみの表現をやろうとしました。
能夫 中入後、アイ狂言が出てきて、博雅の三位と名乗り、蝉丸が捨てられたことを聞いてやって来たといって、蝉丸を藁屋の内に助け入れるでしょ。その間、蝉丸はずっとシオリをしていなければならないんですよ。あれ、きつい姿勢なんです。
明生 きつさ、苦しさを回避するために、考えたのではなく、両シオリ(もろしおり)などせずに身体で落胆悲しみを表現する、そのための体勢、型の再確認、これを勉強しようとしたのです。大蔵流は地謡が謡っている間からすぐ出られますが、和泉流は地謡が終わってから、別にゆっくりと出られるから、たしかにシオリは手が痛くて大変でしょう。
能夫 まあー、あの時の舞台は二人でつくるというのがテーマだったんですよね。
明生 そういう意識はすごくありましたね。
笠井 シテ、ツレというより、対等という感じだよね。引っ張り合っているという感じがします。
能夫 たまたま僕が年齢が上だったから逆髪で、明生君が年下だったから蝉丸だったというだけでね。
明生 この舞台が結構よかったというので、大阪でもやろうという話がありましたが、どうせやるなら違うことをしようということで、それはやらないことになりました。
能夫 そのとき良かったから次もではないでしょ。あの舞台は初々しかったからよかったと思うよ。志もあったし。
明生 一番一番を新鮮な気持ちでやるということですね。
写真撮影 あびこ