我流32 『隅田川』 『船弁慶』
我流『年来稽古条々』( 32 ) ―研究公演以降・その十― 『隅田川』 『船弁慶』について
明生 今回は三月三日の粟谷能の会で勤める曲目について話していきましょう。『隅田川』能夫、『俊成忠度』と『船弁慶』を私が勤めます。名曲『隅田川』を真ん中に置いて、初番に時間の短い軽めの『俊成忠度』をツレに佐藤陽を起用し、ショー的要素の強い『船弁慶』を留めに、三曲のバランスを考えて、楽しんでいただけたらいいですね…。
能夫 当初は尚生に『小袖曽我』と考えていたが、この道を離れることになってとても残念だね。それであなたが二番勤めることになって大変だろうけれど…。
明生 そろそろ次世代の若者にもチャンスを与えようと、三番立ての番組を考えていた矢先、残念ながら四月に息子・尚生から能楽の世界から退く決意を聞きまして、しかし三役との交渉は済んでいたので、一度お願いしてあるものを破棄するのは失礼なので、ここは父親が代わるのがよいと思い、私が勤めることにしました。自分の人生は自分で決める、そうすれば、つらいときも乗り越えていけるのではと、私の父親としての決断です。尚生は平成二十四年十一月で能楽師を辞めましたが、今後は我々二人で精一杯やっていきたいと思います。では『隅田川』を主に話したいと思います。私の披きは四十一歳の時、粟谷能の会(平成八年三月)で、子方は息子の尚生が勤めました。二回目は日立能(平成十五年一月)で子方は友枝雄太郎君。能夫さんは何回目ですか。
能夫 僕は今回が三回目。披きは粟谷能の会で、平成五年十月、四十四歳のときでした。二回目は平成二十年粟谷能の会。昔、学生鑑賞会は必ず『隅田川』をやっていたね。
明生 昭和三十年代、四十年代ですね。
能夫 学校の古典の教科書に『隅田川』が載っていたからだろうね。先代宗家実先生が学生鑑賞会で『隅田川』を頻繁に取り上げられ、ご自身も勤められたが、体力的なこともあり、若い内弟子が、ある年齢になるとやらせていた。内弟子にまだ任せられない時は、新太郎や菊生叔父たちがやっていたが、それは四十代、五十代の時よ。それが、その下の世代は二十代半ばか三十代前半で勤めてしまい、それでお披きだと思ってしまう、そういう風習が嫌だったね。
明生 なんでも早いうちに、というのはいいのですが、曲によりますね。二十代や三十代前半の『隅田川』は無理です。もともと、能『隅田川』は学生鑑賞能で取り上げるような曲目ではないです。選択ミスですよ。
能夫 それでも、その後またもう一度と正規に勤めればいいけれど、学生能でやったから、とそれで『隅田川』を勤めないで終わらせてしまう傾向があって、それが嫌でね。
明生 つまり学生鑑賞能の『隅田川』が練習場のようになってしまった。その現象が嫌なんですね。
能夫 それでは『隅田川』に申し訳ないと思っていた。何故正式に二度目にチャレンジしないのか不思議だったよ。
明生 一回やってみて、二回目をやると全然違うものが見えてきます。『安宅』もそうですが、こういう現代物は特にそうです。『道成寺』のようなものは初心の披きがよくて、案外二回目は精彩を欠くことがありますが、それは別格で、確実に二回目がよくなるようにならなければいけない、はず。だから、何回も再演しなくてはいけない、しなくては体得出来ない曲目だと思いますよ。
能夫 で、今はというと、そういう学生能でするチャンスもなく、逆に披きが遅くなっているね。僕の理論でいうと、自分の息子が『隅田川』の子方ができる段階になったときに、親も『隅田川』を勤められるぐらいに修業を積んで、共に勤めるというのがいいと思うんだ。三十歳ぐらいで子どもが生まれたとして、その子が七、八歳になったころ、つまり親は三十代後半から四十代初めぐらいに披くのがいいのではないかな。そしてその後再演する…。
明生 今はそういう風になっていませんね。だから、年下の人たちに、自分の子どもと勤めるべき、努力しろよ、と、お尻たたいているのですが。
『隅田川』にもいろいろ演出がありますが、子方を出すか出さないかもその一つ。
能夫 今回は子方を出す形でやります。一度、子方を出さない形でやったことはあるけれど。
明生 子方を出す出さないでは、世阿弥と元雅の親子で論争していますね。申楽談義にあります。世阿弥は子どもは死んでいるのだから出さないほうがいいと忠告したのに対し、作者である元雅は、いや、亡霊であってもここは出さなくては成立しないと強く主張しています。
能夫 それに対する世阿弥の言葉がいいよね。「して見てよきにつくべし。せずは善悪定がたし」と。「演じてみてよいほうを選べばいい。演じないでは判断できない」と我が子の元雅の主張を頭から駄目だ、違うではなくて、やんわり受け止めている。懐の深さだね。
明生 本当にいいセリフですね。私は二回とも子方を出す演出にしました。救いのない『隅田川』という曲に、最後、子どもの声が聞こえ姿が見える、たとえ幻想であっても、それが観る者をほっとさせる。この場面を子方と共に創りあげるのが演者の仕事だと思いますよ。
能夫 子方がいて、最後涙を絞るのがいいんだよね。母親にとっては幻が見たいんだ。具体的なんですよ。
明生 足利義満や見巧者ならば、幻でいいと言ったかもしれませんが、庶民は具体的な子どもを見て涙したいのです。
能夫 そういう意味では、世阿弥の時代と元雅の時代が違うということが言えるね。世阿弥は義満に寵愛され、貴族社会のなかで作品を創っていった。しかし元雅の時代は貴族社会からの庇護も薄くなり、時代もすさんでくる。累々と屍がころがり、再会できない人間がごろごろしている。そういう現実を見て戯曲を書いていたわけだよ。
明生 元雅は世阿弥の次の世代として、現実を直視し、新しい戯曲を書きたかったのでしょうね。観客も高貴な人だけでなく庶民を意識したのではないですか。
能夫 そうね。庶民でも初めてお能を観る人でも分かるようなシンプルな感情内容だね。それでいて人生の縮図というか、ドラマが凝縮している。重いというか重圧感はすごいですよ。感情の極致が覆いかぶさってくるようなね。
明生 ズシーンと重い。時代や人生を見つめている。シンプルでわかりやすく、遣り甲斐があり、見応えもある名曲ですね。貴人の目を意識する中世的なものから、近世に近い、芝居心も入れて、庶民でも誰でも分かるものにした。元雅の覚悟でしょうね。
能夫 万人に感動させたいという、近世の演劇のはじまりが、そのあたりにあったと思うよ。
明生 ところで『隅田川』というと、昔の人は、「落胆して演じる」が教えでした。だから、あの謡の調子では、子どもが死んでいるのが最初からわかっているじゃないかと、散々たたかれていましたね。
能夫 『隅田川』という曲を大事にするのは分かるが、昔はやたらと陰々滅々と謡っていた。大事大事とばかりで内容無視はいけないよ。かといって明るくなっては以ての外。
明生 『安宅』の道行で、落ちていく者があんなに元気な声を出して、と批評されたことがあります。次第の「旅の衣は篠掛の」も道行も、私はパワフルに謡いたいですが。
能夫 あそこが陰々滅々じゃあ、山伏が贋物とわかってしまう、だから元気でやるんだというね。落ち武者と悟られないように豪胆さを出すのは戯曲にあっていると思うよ。
明生 内容を知らずに、ただ何も考えないで朗々と謡う意識では駄目だけれども。
能夫 だから思考が入ってくればいいわけ。先人達がこうやっていたから、ただ受け取るだけでなく、観る目を養い、観察力というか解読する力を持ちたいよね。
明生 『隅田川』は最初から子どもが死んでいるような風情では駄目だけれども、かといって、シテは子どもの行方が分からず狂い出てくるわけだから、陰の明とか、陽の暗とか、その按配がどこら辺かなと。だから『隅田川』は数回しないと駄目なんですよ。
能夫 現場に立ってみないとわからないこともあるしね。それにしても『隅田川』って特異な曲だよ。最後、救われないのだがら。通常の狂女物は最初は苦しい思いを持って出てくるけれど、最後は親子対面を果たし、ハッピーエンドになるでしょ。僕はね、シテとしての苦しさをこれだけ表現してきたのに、最後に喜びの表現のユウケンをして終わりになってしまう、それが悔しいんだよ。まあ、そういうのがお能だと言われればそれまでだけれど。
明生 『三井寺』も『桜川』もそう、『柏崎』もその部類に入ります。最後は再会して良かった良かった、になる。
能夫 いい能なのに、どうしてパターンで処理しなければならないの…と。うーん、ここがいわく言い難いところで、それで救われる面もあるからね。
明生 それが『隅田川』はハッピーエンドでは終わらない。『定家』も『求塚』も重い思いを持ってお帰りいただくことになる。最後の「東雲の空もほのぼのと・・・」は関東平野の夜明けを母親の顔にほのぼのと光が差すように謡え、演じろと父から教えられました。救いのない曲ですが、最後は広大な関東平野の朝陽と母の心を同時に表現するのだと。
能夫 先の観世銕之亟さんも仰っておられたね。そういうイメージをどう出せるか。それまでに積み上げてきた謡い方、すべて総合力で表現することになると思う。地謡も囃子方も、勿論シテも。
ところで、何年か前に、観世流の能『隅田川』で唐織の脱ぎかけ(肩脱ぎ)で演られていたことがあったよ。『玉葛』や『班女』のような狂女物のスタイルでね。観世流にはそういう型付があるらしいよ。
明生 え、それどうですかねえ。やはり腰巻に水衣が似合いだと思いますが。あと何回かするとしても、その選択はないです。今回、能夫さんやってみます?
能夫 いやあ、自信ないよ。最初の狂いの放浪しているところでは狂女物らしく脱ぎかけは相応しいけれども、最後のシビアな場面、草茫々の大地に「東雲の空・・・」といっているところでは似合わない。水衣のようななよなよとした感じがいいよ。でも、何かに焦点を当てたときに、そういう選択もあるということを知っておくことは大事でしょ。いろいろなことが分かったうえで、詰め寄っていくことが大切で、固定観念だけで動くのではなくてね。
明生 型にはめられたものだから安全、無難、オーケーとするのではなく、いろいろ研究して、自分で選択することが大事ですね。これからもその精神を大切にしたいです。
能夫 それがいいよ。自らの選択で物事を行う。それが原点だね。能の本質を思いつつ、先人のことも思い、それでいて流されず、僕もそういう生き方だよ。
明生 『隅田川』は名曲ですが、名曲は未熟者が挑むと悲しいかなどうしようもない、哀れな結果になります。本当の悲劇。曲が役者を選ぶと言われる一曲かもしれませんね。
能夫 現代物の難しさってあるね。幽玄物は幽玄に逃げ込めるけれども、現代物は逃げ場がないもの。
明生 『隅田川』 『景清』『砧』など、熱い情を舞台に持ち込めるか否かだと思います。ホットな演者にならないといけないと思う。冷たい現代物はお客さまをクールにさせてしまうのではないでしょうか。もっとも冷たいのがお好きという方もおられるかもしれないから難しい。
能夫 現代物をどう演じるか、僕の課題でもあるね。
明生 次に『船弁慶』の話を少ししましょう。『隅田川』のような内容が重く濃い作品ではないですが、分かりやすく、初めて能をご覧になる方も文句なしに楽しめるものです。今回は三番の番組構成で私が二番勤めるので、『船弁慶』は作品内容を遜色ないように短縮して、面白く鑑賞していただけるような演出にしたいと思っています。能には『隅田川』のようなものもあれば、『船弁慶』のようにショー的なものもあるという違いをお見せしたい。
能夫 『船弁慶』の作者は信光でしょ。音阿弥の子、世阿弥の甥の子、世阿弥からすると孫の世代だね。
明生 世阿弥からは二代あとということですね。
能夫 元雅が世阿弥の子の世代で、現実を直視した能を作ったわけだけれど、その次の世代もさらに時代が移り、応仁の乱を経験して、乱世の大夫ということになる。
明生 大夫を補佐するパトロンもいなくなるから、元雅の時代以上に庶民を対象に観る者に喜ばれる能を創る必要があったのではないでしょうか。
能夫 大衆的というか、見た目の面白さに重きを置く。
明生 信光の作品をショー的だからと馬鹿にはできないと思います。重い曲と比べれば深みは薄いかもしれませんが、面白さがあって、それも能の大事な本質であると思います。
能夫 けれん味というかね。活劇的で、美しい女性も出てくるし、後場は威風堂々と平知盛の霊が躍動的で力強く動き、難しい薙刀扱いの技。よくできた能だと思うよ。だから歌舞伎に繋がり『義経千本桜』となる。
明生 ということは、今回取り上げる二曲は、世阿弥の中世的な能から脱却して、現代の演劇まで繋がっている曲ということになりますね。その面白さを演じましょう。悲劇の代表曲『隅田川』と動きのある活劇的な『船弁慶』と、静的と動的を兼ね備えた能。すごくバラエティに富んでいるというところをお見せしましょう。
能夫 そういうものに我々は格闘している、そこのところを観てもらおうね。能は探求すればするほど逃げていくというか…、間口も奥行きも広いものと感じているよ。
明生 追いつこうとやっていくとどんどん逃げていく。はっと気がつくと、向こうの方で、悔しいだろう、へへへと笑っているようですよ。
能夫 それはわかるよ。追いつかないんだ。
明生 懸命にやっているのにね。世阿弥のいう「命には終わりあり、能には果てあるべからず」ですか。次の粟谷能の会、我々なりに精一杯勤めましょう。 (つづく)
写真
隅田川 シテ 粟谷明生 撮影 石田 裕
船弁慶 シテ 粟谷明生 撮影 新村 猛